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自然再生の事例から-三番瀬再生計画検討会議・三番瀬再生会議-

高度経済成長期以降、環境破壊を懸念した市民、市民活動団体らが反対したにもかかわ らず、河川や道路事業等の大規模事業の実施は数多い。そのため、従来の円卓会議の多く が、住民投票条例に基づく投票など公共事業の賛否を問うものであった。このような中、

日本ではじめて自然再生を目的とした円卓会議が 2002 年、千葉県(以下「県」と記す)

によって設置された。『三番瀬再生計画検討会議』である。

本章では自然再生に対し、間接的な議会という形ではなく市民が直接、望ましい地域の 自然環境を決定する過程を考察する。

3-1 三番瀬の埋立事業の概要

本節では、三番瀬の自然再生に関する合意形成の契機となった三番瀬問題とは何かを述 べる。まず、三番瀬の概要を述べた後、埋立事業について時系列的、並びに参加主体別に 見ていくことにする。

3-1-1 三番瀬の位置と特徴

三番瀬の位置は浦安市、市川市、船橋市、習志野市の東京湾沿いに広がる約 1,800haの 干潟・浅海域のことである(表 3-1)。その海域は概ね、西は浦安護岸、北は市川市塩浜 地先の直立護岸及びふなばし三番瀬海浜公園、東は船橋航路東端、南は浦安護岸突端と茜 浜突端を結ぶ干潮の水深5m以浅で囲まれる範囲である。

表3-1 三番瀬の概要

三番瀬地域 位置 東京湾最奥部

湾岸行政単位 1県(千葉県)・4市(浦安市、市川市、船橋市、習志野市)

都市との関係 首都に隣接 湾の周辺人口 1,406,000人以上 自然災害 地震(液状化)、台風

人的災害 浦安側の海水の停滞、富栄養化による青潮、地盤沈下、土砂流出 湾の水面面積 1,800ha

湾の平均水深 0~1m

生物の特徴 アサリ、シオフキ等の底生生物、渡り鳥の休息場 交通計画 高速道路

漁業協同組合 南行徳漁業協同組合、市川市行徳漁業協同組合、船橋市漁業協同組合

((三番瀬再生計画検討会議事務局編2004)等を参考に筆者作表)

三番瀬には 3つの特徴がある。1点目は、三番瀬沿岸域の急激な人口増加である。その 交通への対応のため、国土交通省の「3 環状 9 放射のネットワーク構想」97の一環である

「第二東京湾岸横断道路」(以下「第二湾岸道路」と記す)の建設計画が検討されている。

また、人口増加によって湾や流域河川の生態系は、大きな負荷を与えている。2 点目は、

JR東京駅から約20分という大都市圏であり、都市の成長の著しい大都会に隣接した立地 であること。工場地帯と東京ディズニー・ランド、ショッピング・モール、大型道路に囲 まれた内湾のほとんどが護岸で遮られ、市民が気軽に海と触れ合うことは出来ない。3 点 目は、日本有数の渡り鳥の飛来地である。

3-1-2 三番瀬の埋立事業の歴史

東京湾の奥に残された三番瀬の埋立事業は江戸時代に遡る。江戸時代には、既に房総半 島と三浦半島を結ぶ東京湾全域の埋立構想があった。しかし明治期における埋立てでは塩 田整備を中心とした小規模なものとなり、それも 1929 年の塩田整理令とともに塩田も消 滅した(船橋市郷土資料館編1990:1-10)。埋立てが目覚ましく進んだのは、昭和に入って からである(表 3-2)。利根川につながる印旛沼の水を東京湾に流すための運河建設計画 が持ち上がるが、この計画は、太平洋戦争により中止された。1937年の日中戦争を機に重 化学工業化に向うと、現在の浦安市から市原市までの海岸を埋め立てて、工場を誘致する 案が持ち上がった。県は1950 年 8月に川崎製鉄を千葉市に誘致したことで、埋立行政に 拍車をかけた。当時の柴田知事が推し進めた手法は、遠浅の海域を活かした千葉県独特の ものであり、安価かつ計画的に工業用地を造成する構想であった98。京葉工業地帯という 名称を命名したほど、柴田知事は埋立造成に力を注いだ(柴田1965:50-73)。

加納久朗知事は1958年、東京の晴海から千葉県富津岬までを結ぶ東京湾全域を埋立て、

新首都「やまと」を建設するという「加納構想」を発表する。これを皮切りに工業生産を 主とした「ネオ・トウキョウ・プラン」、1961 年の海上都市構想を盛り込んだ「丹下プラ ン」等の埋立構想を打ち出した(近岡1972)。経済優先の政策は日本全域の沿岸での現実 的課題でもあったが99、首都東京に隣接していながら川崎や横浜に比べて経済産業が立ち 遅れた千葉県の現状を回復するため、友納武人県政では逼迫した財政の中、千葉方式と呼

97 国土交通省環境地方整備局ホームページ

http://www.ktr.mlit.go.jp/honkyoku/road/3kanjo/history/index.htm

98 柴田は「他産業や大会社、大工場などの企業を県内に誘致して県財政を裕福にしたのち 農業の近代化をはかっていきたいという欲望を早くから持っていた。つまり『農業をよ くするには農業経営規模を大きくする。そのためには農家の一部が他に転業しなければ ならぬ。即ち新しい職場を必要とする。さらに農業改革のためには、金がいる。工業を まず発展させる』ということ(強調は原文のまま)」(柴田 1965:88)と記している。

99 1960年代、沿岸各地の埋立を促進した背景に「新産業都市法」「産業特別地域整備法」

がある。反面、沿岸域を保護する観点では1971 年6月に漸く、工場や事業場から公共 用水域に排水される水の排出等の規制を目的とした「水質汚濁防止法」が施行された。

ばれる資金調達法を駆使した。元々財政難であった千葉県は、不動産業者から予約金を借 りて埋立工事や漁業補償を行い、借りた資金は進出する企業が県に納めた前納金の中から 利子をつけて返却したのである。県の埋立ては千葉県開発部(1959 年)、千葉県開発局

(1963年)、千葉県開発庁(1970年)、千葉県企業庁(以下、「企業庁」と記す)(1974年)

と組織を次々と拡張していった。1961年に策定された「京葉臨海工業地帯造成計画」の中 に三番瀬の埋立ては位置付けられ、1963年に京葉臨海工業地帯の一環として、一部の埋立 事業が行われた。その際、藻場やアシ原は埋められ、名産のハマグリやアマモは絶滅した。

表3-2 歴代民選千葉県知事と三番瀬の政治的イシュー

代 知事名 在任期間 イシューの特徴 初代 川口為之助 1947.4-1950.10 農林水産業

2 柴田等 1950.12-1954.10 京葉工業地帯の埋立て・工業化

柴田等 1954.11-1958.11

柴田等 1958.11-1962.11

3 加納久朗 1962.11-1963.2 埋立て地に首都構想 4 友納武人 1963.4-1967.4 「千葉方式」による埋立て

友納武人 1967.4-1971.4 友納武人 1971.4-1975.4.

5 川上紀一 1975.4-1979.4 東京湾岸道路開通 漁業振興の推進 川上紀一 1979.4-1981.2

6 沼田武 1981.4-1985.4 「行政中心・隠蔽」の埋立て

沼田武 1985.4-1989.4

沼田武 1989.4-1993.4

沼田武 1993.4-1997.4

沼田武 1997.4-2001.4

7 堂本暁子 2001.4-2005.4 「住民参加」「情報公開」による自然再生 堂本暁子 2005.4.-2009.4

8 森田健作 2009.4-2013.4 『三番瀬再生会議』の終了 森田健作 2013.4-

(筆者作表)

高度経済成長期以降、三番瀬の埋立事業として議論されているのが、住宅の整備と廃棄 物処分場の建設を目的とした千葉県企業庁が事業主体の「市川Ⅱ期埋立計画」(以下、「市 川Ⅱ期計画」と記す)と、船橋側の港湾整備と流通機能を中心とした千葉県土木部、運輸

省(現;国土交通省)が事業主体の「京葉港Ⅱ期埋立計画」(以下、「京葉Ⅱ期計画」と記す)

である。ただし市川Ⅱ期計画や京葉Ⅱ期計画は、その後の環境運動の高まり100や石油危機 による経済状況の悪化などを受け、埋立計画の縮小案を発表したものの凍結せざるを得な くなった。しかしその後、景気の転換や業務商業用地の都市基盤整備、住宅用地の必要性 など埋立ての目的も変化した。1983年、県は船橋側の一部先行着手を計画するが、船橋市 と船橋市漁業協同組合の同意が得られず、実現には至らなかった。

1980 年代、中曽根康弘内閣の民活路線により、埋立政策は進展した。1981年、沼田武 知事は、大規模開発の積極的促進を県政の最優先課題にあげた。民活政策による景気刺激 策が発表されると、1984 年、740ha(市川Ⅱ期地区470ha、京葉Ⅱ期地区270ha)の埋立 計画が浮上した。1993年に決定した基本計画では県は当初、魚類や鳥類への影響は小さい とする環境保全計画書をまとめたが、県の大規模開発による海の影響を審議するため1992 年に設置された『千葉県環境会議』は、1995年、三番瀬の補足調査の実施、土地利用の必 要性についての再検討、専門委員会の設置等を提言した。この提言により、県は 1995 年

『補足調査専門委員会』を発足させ、埋立計画の見直しを図った。そして 1999 年に県は

740haの埋立計画案を計101haに縮小する、見直し案を発表した。だが、計画を中止する

までには至らなかった。県は計画の見直作業を進める一方、県は740ha に下水道終末処理 場、まちづくり用地や道路建設のための埋立計画を1993年に発表した。

2000年以降、国レベルでも自然再生型公共事業への機運が高まる中101、2001 年に三番 瀬の埋立計画の白紙撤回を公約に掲げた堂本知事が誕生した。

3-1-3 環境団体の活動と展開

三番瀬の周辺住民が、保護活動を通してどのように三番瀬と関わってきたのか。三番瀬 における市民活動の歴史がはじまった 1960 年代から述べていく。この時期は、諫早湾干 拓問題、川辺川ダム問題、吉野川河口堰問題など全国各地で公共事業に対する反対運動や 異議申し立てが起こった。このような市民側からの高まりは、日本だけでなく、世界的に 経済、産業界への警告と既存の価値に対する問い直しを迫るものであった102

100 自然保護運動の高まりによって、「東京湾の埋め立て中止と干潟保全の国会請願

(1972-73年)」が通過した。

101 2001年2月、小泉純一郎内閣総理大臣の主宰による「21世紀『環の国』づくり会議」

では、自然再生型公共事業を都市と農山漁村のそれぞれにおいて推進することが必要と 結論づけ、同年7月に提言としてまとめている。

首相官邸ホームページ

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/wanokuni/010710/report.html

102 ローマ・クラブが『成長の限界』(ローマクラブ編 1972)において、世界人口、工業 化、汚染、食糧生産、資源利用の成長率が不変のまま続いた場合、地球上の成長は限界 に達するとの警鐘を鳴らしたのが1972年である。また1972年にストックホルムで開催 された国連人間環境会議では、「かけがえのない地球」が強調された。