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合意形成プロセスにおける風土論分析

これまで多様な主体による平等性を前提とした、円卓会議方式の合意形成プロセスを 3 事例、分析し、従来の前提や制度的手法の抱える問題が明らかになった。

前章で得られた知見を整理すると、第1に、議論空間に存在する解けない二項対立によ る合意の困難性、第 2 に、議論空間における自省的態度のあらわれ方の問題、すなわち、

議論として自省的態度の表出だけでよいのか。第3に「共生」社会への展望が提示される ものの、スローガン化している点である。そして円卓会議方式では、合意を形成するとい う普遍性は、その自明性を失っていることを示唆した。

概して円卓会議に限らず、市民参加型会議における議論では多くの先行研究にあるとお り、ハーバーマスが発展させてきた熟議理論に沿った形で、市民参加の促進や議論形態の 仕組みづくり、コミュニケーションの必要性等に関心が払われてきた。ただし、前章まで を振り返れば、議論の制度的方法を向上させて合意が得られたということと、合意した内 容通りに以後の社会が実現したかは、別であると分かる。

そこで本章では、従来の制度的諸原理の合意形成プロセスから、規範倫理の原理へと転 回させる必要性の観点から、合意形成の内実の変革としての風土論に着目したい。

5-1 風土を擁護する理由

前章では、合意形成の困難性の克服においては、参加者の「知」の衡平性の観点を議論 に取り入れること、その具体化に向けては人々に内在するエートスも、「知」と認識すべき であると述べた。このような合意形成の規範的原理を再定式化することとは、議論の参加 者が問題の文脈の検討に際して風土の議論を導入することを意味する。

そこで本節では、なぜ合意形成にあたり、環境と人間の論理、あるいはコミュニケーシ ョン論173ではなく、風土論が分析の枠組みとして適切であるとするのかの理由を述べるこ とにする。その際の補助線として、①利害統合の理論、②エートスの規定的契機および要 因、③議論の場への規範的判断への要求、④風土の基本的性質――の4つの役割を考察し、

その後、合意形成において風土を擁護する理由を述べていく。

5-1-1 利害統合の理論としての風土

議論の場における合意形成の困難性は、次の2つの意味で興味深い。

173 近年、コミュニケーションの中でも、社会の問題に対する解決を目的とした「環境コ ミュニケーション」と題した著書等、多く刊行されてきている。大学のカリキュラムに おいては、「環境コミュニケーション論」「環境コミュニケーション学」の講義も増え始 めている。これについては環境省の『環境白書』に詳しい(「5-1-5」参照)。また、

J・ハーバーマスのコミュニケーション的行為については、序章で述べたので、ここで は触れない(「0-1-3」参照)。「科学技術環境コミュニケーション」については、「5

-4-2」参照のこと。

第1に、主に専門家や学識経験者による狭い科学的合理性によって合意が形成される一 方、非専門家や市民の発話は合理性のない素人の意見であるとして、常に議論の中心から 離れた立ち位置を余儀なくされる点である。

第2に、専門家と素人市民、目的合理性と実践合理性、自然と社会、科学技術と社会と いった恒常化した二元論が存在した点である。その結果、受益と受苦は決して等質な社会 的圏域であるわけではなく、受益と受苦の和を按分するような合意では合意自体の普遍性 はないにも関わらず、「共生」といった1つの範疇に収めた議論に至るのである(「4-5」

参照)。つまり多様な主体が参加をしても、「多様な発想」によって合意が形成されること はない(「4-3-2」参照)。

このような二分法の「場」に対する解決の途として、関係論によって乗り越える必要が あるとの指摘は既になされている。鬼頭秀一は人間と自然の二分法を脱却するにあたって、

「生業」の営みを提案している(鬼頭 1996:120)。鬼頭の指摘からは、人間活動に由来す る地域社会の問題を超克するためには、我々の自律的な労働が試みられなければならない という反省的自我が示唆される。

また、フランス人の日本研究者であるA.ベルクの場合、二分法を乗り越えるコンセプト として風土を提示している。

「地球は動かない(フッサール、1934)。

それでも地球は回っている(ガリレオ、1633)。

どちらが正しく、どちらが間違っているのか。

風土の現実は、この種の二者択一ではできていない。

風土――ひとつの社会と、空間および自然との関係――は、いわばフッサールに とっての地球であると同時にガリレオにとっての地球でもある。すなわち、感覚 的であると同時に事実に基づき、主観的でかつ客観的、現象的でかつ物理的なの である」(ベルク1994:15)

つまりベルクは、風土を人間の主観性であると見てはいるが、ある程度自己の客観化が 可能な主観性だと捉えて、古典的な「正か誤か」の二元論の図式に対しては、風土で答え ようとする。それゆえにベルクは、風土を固有の両義性を引き受けるものとして捉えてい ない。風土が主観的かつ客観的、現象的かつ物理的であるというベルクには、風土の特性 については、「現代の科学と近縁関係がないわけではなく、二元論を超えて、人を取り囲む 物と人との絆を考えるべき」との着想がある(ベルク 2002:265)。このようなベルクの着 想に寄り添えば、市民や非専門家が論拠とする関係論と、専門家が論拠とする科学的実在 論の2つの側面が融合するような「多様な発想」の鍵は、風土にある。ベルクの言う二者 択一ではない発想には、反目する者が、絶えずダイナミズムに影響を及ぼし合う可能性へ

の期待がある。同様の着想をする尾関周二も、近年の環境問題に対する克服の方向性とし て、「『人間中心主義か、自然中心主義か』といった二者択一に陥ることなく、『人間と自然 の共生』についての社会哲学的な視点」(尾関2007:28)を打ち出している。

このように風土論は、二項対立構図の別方向にある「知」を、双方向からの議論とさせ る要素がある。なぜなら風土は、専門家があたかも決定論として主張する科学的合理性に 対して、非専門家や市民が対話可能な合理的思考を確保する理論であるからだ。すなわち 合意形成にあたっては、風土論によって問題の本質を捉えることで、自己の立場の放棄に よることなく、衡平な議論が期待出来るのである。

5-1-2 エートスの規定的契機・要因として風土

非専門家や市民にとって揺るがない合意形成の姿勢とは、彼らの主体性に添った議論を することであった。次節で検討する和辻哲郎の風土論は、人間中心主義的な価値観からで はない人間の主体性を説いている。

ここで若干、和辻風土論を先取りすると、和辻は著書『風土――人間学的考察』におい て、風土の現象として「寒さ」という気候の現象学的分析を試みている。和辻は、一般に

「物理的客観としての寒気が、我々の肉体に存する感覚器官を刺激し、そうして心理的主 観としての我々がそれを一定の心理状態として経験する」(和辻1979:10)とみなされる「寒 さ」に対して、「外から客観が迫り来る」(和辻 1979:10)と捉えることは、志向的関係に ついての誤解に他ならないと言う。我々は、寒さの「感覚」を感じるのではなく、「直接に

『外気の冷たさ』あるいは『寒気』を感ずるのである。すなわち、志向的対象において感 ぜられたるもの』としての寒さは、『主観的なもの』ではなくして『客観的なもの』なので

ある」(和辻1979:11)という。和辻によればこのような客観的な寒さを体験するのは、「単

に我れのみではない。我々は同じ寒さを共同に感じる。だからこそ我々は寒さを言い現す 言葉を日常の挨拶に用い得る」(和辻1979:13)と言うように、挨拶という社会性によって 保障される。したがって「寒さ」とは、客観的な温度や湿度を意味するのではなく、間柄 としての我々自身の志向性として了解された「感じ」なのである。

ここから和辻は「自己了解の仕方としての風土」というテーゼを導き出した。和辻によ れば「人間の自己了解」の型である「風土の現象」は、「文芸、美術、宗教、風習等あらゆ る人間生活の表現のうちに見いだすことができる」(和辻1979:17)という。それのみなら ず、「村落の位置、家屋の構造、道路網の組織、耕作の仕方、作物の選択などの多くのこと 柄について実践的了解として人々に作用する」(和辻 1949:143)のである。例えば、日常 の暮らしの中で山岳美を愛でることや、海辺の波音を愉しむことも、自然風物に人生を重 ねる意味では身体的関わりとしての風土の自覚である。これは、つまり、風土が意思や思 想における規定的な契機となることを意味する。

和辻が言うように「感じ」が介在する場合、「我れ」のみでは成立しないとすると、山や