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「自然の斉一性」と帰納的な一般化の正当性

ドキュメント内 第2部 帰納を巡る認識論的な問題 (ページ 71-84)

われわれは因果的な推論から信念を得る。すなわち、われわれの想像は、原因と結果の関 係に導かれるときに、現実と信じられる(内容の)観念を生むのである。だが、因果的な推 論(や信念)は、本質的に帰納的な推論(や信念)であるので、いわゆる「帰納の問題」を 逃れえない。なぜなら、原因と結果の関係は「観念の関係」ではないからである。ここにヒ ュームの「帰納の問題」が生じることになる。すなわち、原因と結果の関係が知識でなくな るところから、彼の「帰納の問題」は始まるのである1。では、ヒューム自身は「帰納の問 題」をどのように論じるのか2。また、そもそも「帰納の問題」とはどのような問題である のか。本章では、彼の「自然の斉一性(the uniformity of nature)」の議論を通し見て、いわ ゆる「帰納の問題」が(標準的には)どのような問題であるのかを突き止めておこう。

1.帰納と信念

ヒュームの「自然の斉一性」の議論を追う前に、彼自身の(帰納的な)信念の定義を見直 しておきたい。というのも、いわゆる「帰納の問題」が問い質すのは、帰納的な推論と信念 の(合理的な)正しさだからである。もちろん、彼の知覚論と因果論に倣えば、信念(の観 念)は因果的な帰納に生じるものである。しかし、(因果的な)帰納に生じる信念はどうし て正しいといえるのか。また、(原因と結果の関係に基づく)帰納的な推論はなぜ正しいと されるのか。このように(因果的な)信念や推論の(合理的な)正しさが「帰納の問題」で は(標準的には)問われるのである。

さて、われわれが(因果的な)帰納に求めるのは、直接の経験である(印象や記憶の)現 実でなく、直接の経験でない(信念の)現実である。だが、もちろん、帰納の結論が正しく なるためには、帰納の前提が正しくなければならない。さもなければ、帰納的な推論は、信 念の観念でなく、空想の観念を生むことになるからである。それゆえに、われわれが帰納的 な信念を正しく得るには、われわれの推論(や想像)は、第一には、前提の印象や記憶に支 えられなければならないが3、第二には、原因と結果の関係に導かれなければならない4。わ れわれの帰納的な推論は、これら二つの要件が満たされるときに、現実と確信できる信念を 生むのである。

すると、われわれの帰納的な信念はそれら二つの観点から定義されることになる。まず第 一には、帰納的な信念(の活気)は、知覚の活気という観点から言えば、生き生きと感じら れなければならない。さもなければ、われわれはそれを現実と信じられないからである。(正 しい)帰納の結論は、空想でなく、信念である。もちろん信念には(空想よりも)活気がな ければならない。だから、(正しい)帰納的な推論は印象や記憶を前提としなければならな い。なぜなら、印象や記憶は信念を活気付けるからである。帰納的な信念は、印象や記憶の 現実(の感じ)に与るから、生き生きと感じられ、現実と確信されるのである。

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また第二には、帰納的な信念は、知覚の内容という観点から言えば、原因と結果の関係か ら導かれなければならない。われわれは想像(の内容)を自由に変えられる。そのため、わ れわれは、何らかの関係(や原理)に基づかなければ、想像(の内容)を決めることができ ない。そこで、原因と結果の関係がわれわれの想像(の内容)を決定する指針となる。すな わち、われわれ(の精神)は、原因からは結果を想像し、結果からは原因を想像する(よう に決定される)のである。かくして、(帰納的な)信念は、活気と内容の二つの観点から、

定義付けられる。つまり、(帰納的な)信念とは、「現前する印象[や記憶]と[因果的に]

関係する…生き生きとした観念」(T 1.3.7.5)なのである。

だが、因果的な帰納から推論される信念は、どうして正しいとされるのか。もちろん、そ れは生き生きと感じられるので、われわれはそれを現実と信じる。しかし、なぜそれを現実 と信じることが正しいとされるのか。そもそも、帰納的な推論や信念は、原因と結果の関係 に基づくと、どうして正しいとされるのか。そこには何か正当な理由があるのだろうか。原 因と結果の関係から帰納的に推論される信念は、本当に(合理的に)正しいといえるのだろ うか。

なるほど、もし仮に原因と結果の関係が必然的な結合であるのなら、原因と結果の関係か ら帰納的に推論される信念は必ず正しいことになる。けれども、われわれは、原因と結果の 間に、それらの必然的な結合(を生む因果的な力)を観察できるわけではない。そうではな くて、われわれが原因と結果の間に発見できるのは、それらの(過去の)恒常的な連接に他 ならない。そのため、もちろん、原因と結果の関係はわれわれの経験しているところでは同 じである、とはいえる。しかし、経験しているところではそうであるからといって、どうし て経験していないところでもそうであるといえるのか。原因と結果の関係は、必然的な結合 でなく、恒常的な連接である。すると、もしかしたら、原因と結果の関係はわれわれの経験 していないところでは同じではないかもしれない。だとすれば、どうして、原因と結果の関 係はわれわれの経験していないところでも同じである、といえるのか。因果的な帰納には何 らかの(合理的な)正当性があるのだろうか。

2.「自然の斉一性」と「観念の関係」

では、なぜ原因と結果の関係から帰納的に推論される信念は正しいとされるのか。もしか したら、因果的な帰納には、何か合理的な正当性があるのだろうか。以下(の第2節と第3 節)では、ヒュームの「自然の斉一性」の議論を追いかけながら、なぜ「自然の斉一性」の 原理が因果的な帰納を正当化し(え)ないのかを見ていくとしよう5

まず、彼(の知覚論や因果論)によれば、――本論文でもすでに確認したように、――われ われ(の精神)が(感覚の)印象や記憶(の観念)から原因や結果(の観念)を想像しうる のは、「…過去の経験、、

、すなわち、われわれがそれらの恒常的な連接、、、、、、

を覚えていることに基 づいている」(T 1.3.6.4)。だが、われわれが因果的な帰納から原因や結果(の信念)を推

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論することには、何か正当な理由があるのだろうか。あるいは、彼に倣って言えば、われわ れの想像をそのように決定するのは、われわれの理性によるのだろうか(ibid.)。

ヒュームは次のように述べている。

もし理性がわれわれ[の想像]を決定するのなら、理性は、われわれが経験していない、、、、、、、、、、、、

事例はわれわれが経験している事例に類似して、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

いなければならない、、、、、、、、、

、そして、、、

、自然の歩、、、、

みは常に斉一的に同じであり続ける、、、、、、、、、、、、、、、、

、という原理に基づいて、そうするであろう。(ibid.)

つまり、われわれの因果的な帰納に正当な理由があるのなら、それはいわゆる「自然の斉一 性」の原理に基礎付けられていなければならない。われわれは、「自然の斉一性」の原理な しには、原因と結果が、――経験しているところでは、恒常的に結び付いている、とはいえ るが、――経験していないところでも、必然的に結び付いている、とはいえない。だが、も しも、われわれの経験していない事柄がわれわれの経験している事柄に似ているのなら、わ れわれが、経験している原因と結果の恒常的な連接から、経験していない原因と結果の必然 的な結合を導くことには、合理的な正当性があることになる。すなわち、われわれの因果的 な帰納は、自然の歩みが斉一的に同じであるのなら、合理的に正当化され(う)ることにな る。

とはいえ、「自然の斉一性」とは、どのような原理であるのか。つまり、それが因果的な 帰納を正当化するとしても、それ自体は正当であるのか。そもそも「自然の斉一性」はどの ようにして得られる原理なのか。ここでヒュームが拠って立つのは、「観念の関係」と「事 実の問題」の二分法である6。すなわち、「自然の斉一性」の原理とは、「観念の関係」に 生じる知識であるのか、それとも、「事実の問題」に生じる蓋然性であるのか(ibid.)。

すぐに容易に気が付くのは、「自然の斉一性」は「観念の関係」からは論証されないことで ある。なぜなら、われわれは、原因と結果の分離を思考し(T 1.3.3.3; T 1.3.6.1)、「…自 然の歩みの変化を思考することができる」(T 1.3.6.4)からである。すなわち、仮に「自然 の斉一性」が「観念の関係」に生じる知識であるとすれば、それに反することは、矛盾を含 意し、思考さえ不可能になる(cf. 4.1.2)。しかし、われわれは自然の歩みが斉一的でない ことを思考できるので、「自然の斉一性」は「観念の関係」から論証される知識ではないこ とになる。そして、ヒューム(の「思考可能性の原理」)によれば、われわれに自然の歩み の変化の思考が可能なことは、「…そのような変化が絶対的に不可能なわけではないことを 十分に証明する」(ibid.)のである。

だが、われわれは本当に斉一的でない自然の歩みを思考できているのか。もちろん因果的 な帰納から推論された信念も実際には的中しないことはある。しかし、このときに、われわ れは、自然の歩みが変わったから、われわれの信念が外れた、と考えるわけではない。そう ではなくて、われわれは、そのときには、われわれの信念(を導いた原因と結果の関係)が 間違っていた、と考えるのである。すると、そもそも自然の歩みは斉一的でしかありえない

ドキュメント内 第2部 帰納を巡る認識論的な問題 (ページ 71-84)