われわれの帰納(的な推論や信念)には、一般化の正当性の問題と未来の経験の問題があ る。前者の論点になるのは、(帰納的な)推論や信念(そのもの)の正当性である。そのた め、本論文はこれを「帰納の認識論的な問題」と名付ける。われわれの帰納はそこで正当な 一般化を求める。なぜなら、それが帰納の正誤を左右するからである。すなわち、われわれ の帰納の正誤(の問題)は一般化の正当性(の問題)に帰着する。だから、一般化の信念を 推論する(2)の帰納に「認識論的な問題」は生じるのである。後者の論点になるのは、わ れわれの(過去と)未来の経験のあり方(の差異)である。そのため、本論文はそれを「帰 納の形而上学的な問題」と名付ける。われわれの帰納はそこで経験への的中が問われる。な ぜなら、それが帰納の当否を左右するからである。われわれの帰納には、正誤の問題とは独 立に、経験的な当否の問題がある。だから、次の一回の信念を推論する(1)の帰納に「形 而上学的な問題」は生じるのである。とはいえ、それが本当に問題になるのは、未来向きの 帰納(だけ)である。なぜなら、過去は(もう)本当は経験されないが、未来は(まだ)本 当に経験されるからである。過去向きの帰納は、言わば「帰納の懐疑論」にはなるが、本当 は「帰納の問題」にはならない。われわれの本当の「帰納の問題」になるのは、未来向きの 帰納なのである。以上から、本論文は「帰納の問題」を(一般化の正当性の問題よりは)未 来の経験の問題と考える。そこで、帰納と時間を巡る問いを本章で三つほど論じてみたい。
だが、それらはすべて今まで棚に上げてきた問いである。そのため、ここではそれらの問い が解き明かされるわけではない。あるいは、ここではそれらがどのような問いであるかさえ 描き出せないかもしれない。しかし、それらが帰納と時間を巡る問いであるなら、ここで少 しでもそれらに切り込んでおきたいのである。
1.未来はなぜ経験されるのか?
「帰納の認識論的な問題」は、――合理的には解決され(え)ないが、――懐疑論的には 解決され(う)る。すなわち、――帰納的な一般化(および「自然の斉一性」)に合理的な 正当性はないが、――われわれの帰納は、原因の印象から自然と結果の信念を推論するとき には、あるいは、確率論的な定義や理想的な基準に合致するときには、正当である(といえ る)。だが、「帰納の形而上学的な問題」は(懐疑論的にも)解決され(え)ない1。なぜな ら、われわれがどんな解決を試みようと、われわれから独立に印象は生じるからである。も ちろん、われわれが本当に経験できるのは、未来の印象(だけ)である。とはいえ、われわ れ(の知覚)に未来の印象(を原因とする観念)はない。だから、われわれの経験する印象 はわれわれ(の知覚)から独立に生じるのである。
だが、どうして未来の印象は生じる(といえる)のか。なぜ未来に印象が経験される(と いえる)のか。なるほど、もしも(未来に)印象が経験されないのなら、そのときには、ヒ
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ュームの経験論(的な知覚論)はそもそも成立しない。なぜなら、彼の(経験論的な)知覚 論では、(なぜか経験される)印象と(印象から派生する)観念だけが、われわれの(精神 の)有する知覚だからである。では、彼の経験論(的な知覚論)では、彼の経験論(的な知 覚論)が成立しないことは(思考)不可能なのだろうか。それとも、(未来に)印象が生じ ないことは(思考)可能なのだろうか2。そもそも、(未来に)印象が生じることは、「観 念の関係」であるのか、それとも、「事実の問題」であるのか。
(未来の)印象が生じることが「観念の関係」であるなら、(未来の)印象が生じないこ とは(思考)不可能である。すなわち、そのときには、(未来の)印象は生じなければなら ないのである。しかし、(未来の)印象が生じることが「事実の問題」であるなら、(未来 の)印象が生じないことは(思考)可能である。なぜなら、そこには「帰納の問題」がある からである。われわれは、これまでは(未来の)印象を経験してきたから、これからも(未 来の)印象を経験していく、と考える。もちろんこれは正しい...
帰納である(といえる)。だ が、正しい帰納が外れうるのである。すなわち、これからは(未来の)印象は生じないかも しれないのである。
とはいえ、未来に印象が生じなくなると、われわれ(の知覚)は一体どうなるのか。むろ んわれわれはそのときには印象を経験しなくなる。しかし、われわれがそのときにすべての 知覚を失うとはかぎらない3。なぜなら、そのときには、印象は生じ(え)ないが、観念は 生じ(う)るからである。もちろん、観念が(類似する)印象から生じることには、立証的 な正しさがある(といえる)。しかし、それは「事実の問題」なのである。だから、観念だ けが生じることは十分に(思考)可能なのである4。
未来に観念だけが生じることになると、未来に印象は生じないことになる。だが、印象が 生じなくなるとき....
は、そもそも未来である(といえる)のか。たしかにわれわれは今そのよ うな未来を思考できる。しかし、それは未来である...
が、それは今になる...
。なぜなら、今にな らないときはそもそも未来ではないからである。だが、今(ここ)を含意する印象が生じな. いとき...
に、今(ここ)はある(といえる)のか。
彼の(経験論的な)知覚論に即して言えば、われわれの印象には必ず今(ここ)が含意さ れる。しかし、彼の(経験論的な)知覚論を離れて言えば、われわれ(の精神)に印象が生 じることと、(世界の)ある時点が今であることは、それぞれが独立の互いに異なることで あるかもしれない。すると、観念だけが生じるときに(も)、今はある(といえる)ことに なる。そして、それゆえに、印象が生じなくなるときは、やはり未来である(といえる)こ とになる。すなわち、(われわれの)印象とは独立に(世界に)今があるのなら、未来に印 象は生じなくなるかもしれないのである。
だが、観念だけが生じるときは、どうして今である(といえる)のか。もちろん、(世界 に)今があることが(われわれの)印象に依存するのなら、印象が生じないときには、今が ない(といえる)ことになる。そして、今にならないときが未来でないなら、印象が生じな くなるときは、やはり未来でない(といえる)ことになる。すると、観念だけが生じるとき
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に、なぜ今がある(といえる)のか。もしかしたら、そのときには(観念が)生じる感じ..
が ある(といえる)のかもしれない5。すなわち、観念が生じるときには、観念が生じる感じ の印象が生じる(といえる)のかもしれない。すると、そのときには、もちろん今がある(と いえる)ことになる。しかし、それでは、本当に観念だけ..
が生じることにはならない。
では、印象が生じなくなるためには、観念もまた生じなくなる必要があるのか。――それ とも、観念が生じるときには、(観念が)生じる感じの印象は生じないのか。――だが、印 象と観念がどちらも生じないことは、そもそも(思考)可能であるのだろうか。われわれ(の 知覚)がまったくの無であることは(思考)可能なのだろうか。なるほど、無の観念は(思 考)不可能であるかもしれない。しかし、――無(の観念)が複雑でないのなら、――無(の 観念)の思考が不可能であるとしても、無(の印象)の経験は可能であるかもしれない。も ちろん、印象が生じないときに、無(の印象)は経験されない。すると、そのときは、無(の 印象)さえ生じない無である(といえる)のか。そして、そのときには、やはり今はない(と いえる)のか。そうなるときは、やはり未来でない(といえる)のか。
2.過去と未来の何が異なるのか?
われわれの経験のあり方は(なぜか)過去と未来で(非対称的に)異なる。すなわち、わ れわれには、過去の経験は不可能であるが、未来の経験は可能である。あるいは、われわれ には、過去の経験は可能であったが、未来の経験は不可能であった。だから、われわれの帰 納には「形而上学的な問題」が生じるのである。もし仮に過去の経験と未来の経験がどちら も同じように(今は)不可能であるだけなら、われわれの帰納に「形而上学的な問題」は生 じない。われわれの過去と未来の経験の差違こそが「帰納の形而上学的な問題」の論点なの である。
もちろん、われわれの帰納に「認識論的な問題」が生じるのは、われわれの過去と未来の 経験のあり方が(非対称的に)異なるからではない。すなわち、われわれの過去と未来の経 験の差異は「帰納の認識論的な問題」の論点にはならない。なぜなら、それは帰納的な一般 化(の正当性)の問題だからである。
とはいえ、「形而上学的な問題」は未来向きの帰納に(だけ)生じる。そのため、過去の 経験が可能だったことや、未来の経験が不可能だったことは、そこに(それほど)与するわ けではない。すなわち、「形而上学的な問題」が過去向きの帰納に生じないのは、われわれ に過去の経験が不可能だからである。過去向きの帰納は、正当な一般化との合致は問われる が、過去の経験への的中は問われない。過去向きの帰納には、正誤の問題はあるが、当否の 問題はないのである。あるいは、「形而上学的な問題」が未来向きの帰納に生じるのは、わ れわれに未来の経験が可能だからである。未来向きの帰納は、正当な一般化との合致も問わ れるが、未来の経験への的中も問われる。未来向きの帰納には、正誤の問題とは独立に、当 否の問題があるのである。