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「帰納の認識論的な問題」の懐疑論的な解決

ドキュメント内 第2部 帰納を巡る認識論的な問題 (ページ 84-104)

「帰納の問題」とは(標準的には)「帰納の認識論的な問題」である。それが認識論的で あるのは、それが帰納的な推論や信念(そのもの)の正当性に関わる問題だからである。帰 納(的な推論や信念)の正当性が問われるとき、個別的な信念(を推論する帰納)の正当性

(の問題)は一般的な信念(を推論する帰納)の正当性(の問題)に帰着する。「帰納の認 識論的な問題」とは、帰納的な一般化の正当性の問題なのである。では、われわれ(の帰納)

はどうして個別的な経験から一般的な法則へと飛躍しうるのか。「自然の斉一性」(の正当 性)はここに要請される。しかし、「自然の斉一性」には(合理的な)正当性はない。なぜ なら、「自然の斉一性」はそれ自体が帰納的に推論される信念だからである。帰納的な一般 化の正当性に関わる「認識論的な問題」は(合理的には)解決され(え)ないのである。そ のため、本章では、「帰納の認識論的な問題」の懐疑論的な解決(sceptical solution)を検討 してみたい1

1.懐疑論的な解決と自然(本性)主義

われわれの帰納(的な推論や信念)には「認識論的な問題」がある。すなわち、それは帰 納的な一般化の正当性の問題である。個別的な帰納(から推論される信念)の正当性はすべ て一般的な帰納(から推論される信念)の正当性に回収されるからである。しかし、われわ れはどうしても帰納的な一般化を(合理的には)正当化できそうにない。なぜなら、「自然 の斉一性」に(合理的な)正当性がないからである。たしかに「自然の斉一性」は「…帰納 の基本原理であり一般公理である」(Mill 1973, 307)。なぜなら、「自然の斉一性」が(合 理的に)正当(な信念)であるのなら、帰納的な一般化は(合理的に)正当化され(う)る からである。また、ミルが言うように、われわれはたしかに自然の歩みにいくつもの斉一性 を見いだすことができる2。だが、もしミルが、そのことから、帰納的な一般化は(合理的 に)正当化され(う)る、と考えるのなら、それはもちろん誤謬である3。というのは、ヒ ュームが言うように、われわれの経験する(個別的な)諸斉一性から「自然の斉一性」が生 じるのなら、「自然の斉一性」はそれ自体が帰納的に推論される(一般的な)信念であるこ とになるからである4。すなわち、「自然の斉一性」それ自体が帰納的に推論される信念で あるから、「自然の斉一性」は帰納(的な推論や信念)を(合理的に)正当化し(え)ない のである。

では、われわれは「帰納の認識論的な問題」に一体どのように向き合うべきなのか。たと えば、もしも、原因と結果の間に必然的な結合(を生む力)があるのなら、あるいは、「観 念の関係」が「自然の斉一性」を論証するのなら、原因と結果の必然的な結合や「自然の斉 一性」は、言わば「帰納の認識論的な問題」の「正面からの、、、、、

解決(straight solution)」(Kripke

1982, 66)になる5。すなわち、帰納的な一般化に何らかの(合理的な)正当性が与えられ

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(う)るのなら、そのときには、「帰納の認識論的な問題」は正面から解決される、と言え る。だが、われわれには、原因と結果の間に必然的な結合(を生む力)を発見することもで きないし、「自然の斉一性」を「観念の関係」から論証することもできない。だから、「帰 納の認識論的な問題」は正面からは解決され(え)ない。すなわち、帰納的な一般化は(合 理的には)正当化され(え)ないのである。そのため、われわれが進むべきはもちろんこの 方向ではない。そうではなくて、われわれが(ヒュームと共に)歩むべきは、懐疑論的な解 決の方向なのである。

そもそも、懐疑論的な解決が始められるためには、懐疑論的な問題には正面からは答えら れないことが、受け入れられなければならない6。すなわち、「帰納の認識論的な問題」の 懐疑論的な解決は、帰納的な一般化が(合理的に)正当化され(え)ないことを認めること から、始められることになる。だが、「帰納の認識論的な問題」の懐疑論的な解決は、帰納 的な一般化の正当性の問題を受け入れるとしても、それでもなお、われわれの帰納(的な推 論や信念)に何らかの正しさを与え(う)るものでなければならない7。さもなければ、そ れは解決..

にはならないからである。

だが、「帰納の認識論的な問題」が懐疑論的に解決されると、われわれの帰納(的な推論 や信念)はどうして正しくなるのか。たとえばクリプキ(Saul A. Kripke)は次のように述べ ている。すなわち、「…われわれの通常の実践や信念は、――反対に[正当化を要求する必 要があるように]見えるけれども、――懐疑論者が擁護できないことを示した正当化を要求 する必要は[実は]ないがゆえに、正当化されているのである」(ibid.)、と。「帰納の認 識論的な問題」は帰納的な一般化に(合理的な)正当性を要求する。しかし、実はわれわれ は、そのような(合理的な)正当化をすることなしに、帰納的な推論から信念を正しく得る ことができる。すると、われわれが帰納的な推論から正しく信念を得るためには、「帰納の 認識論的な問題」が要求する(合理的な)正当性はそもそも必要がないことになる。すなわ ち、「帰納の認識論的な問題」の懐疑論的な解決では、帰納的な一般化の正当性の問題その ものが言わば解消されるのである8

ところで、ヒューム自身の懐疑論的な解決は、自然(本性)主義的な解消である、と言え る9。なぜなら、彼の懐疑論的な解決では、因果(的な帰納に推論される)信念や「自然の 斉一性」の信念は、――合理的な正当性(や不当性)があるものでないが、――われわれが 人間の(自然)本性から抱かざるをえないものだからである10。すなわち、彼によれば、わ れわれが原因と結果の関係から帰納的に推論するとき、「…われわれの想像は、第一の[原 因の]対象から第二の[結果の]対象へと、自然な移行によって移るのだが、この自然な移 行は、[理性的な]反省の先に立ち、[理性的な]反省に妨げられない」(T 1.3.13.8)の である。また、それゆえに、われわれの「自然の斉一性」の信念には、「…まったく何の証 明の余地もありえないのだが、…われわれは何の証明もなしに[自然の歩みが斉一であるこ とを]当然とする」(A14)のである。

われわれが(自然)本性から信じざるをえない信念は「自然的な信念(natural belief)」と

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呼ばれる11。たとえば、因果(的な必然)性の信念や「自然の斉一性」の信念の他には、外 的な対象の存在の信念が「自然的な信念」に含まれる12。すなわち、外的な対象が存在する ことは、――(合理的な)正当性(や不当性)があるわけではないが、――「…われわれの あらゆる論究において当然としなければならない」(T 1.4.2.1)のである。そのため、「自 然的な信念」はわれわれのあらゆる思考や行為の基礎となる13。たとえば、ヒューム自身が 言うように、因果的な(帰納に推論される)信念は、「…われわれのすべての思考と行為の 基礎であるので、[われわれ]人間の自然本性は、それがなくなると、直ちに枯れ滅びるに ちがいない」(T 1.4.4.1)のである。

すなわち、彼の自然(本性)主義では、因果的な(帰納に推論される)信念や「自然の斉 一性」の信念は、われわれ人間の(自然)本性に絶対必要な不可避の「自然的な信念」であ るので、そもそも合理的な正当化(や理性的な懐疑論)が及ぶものではない14。だから、「帰 納の認識論的な問題」は、正面から(合理的に)解決され(う)るのではなく、――正面か らの解決を試みる徒労と共に、――自然(本性)主義的に解消され(う)るのである。

2.精神の決定と因果的な必然性

さて、自然(本性)主義による「帰納の認識論的な問題」の懐疑論的な解決は、帰納的な 一般化の正当性の問題を解消するだけでなく、帰納(的な推論や信念)の正しさを確保しな ければならない。では、ヒューム自身はそれをどのように成し遂げるのか。われわれはどう したら帰納的な推論から信念を正しく得ることができるのか。

実のところ、われわれはすでに彼の答えを知っている。というのは、彼(の知覚論や因果 論)によれば、原因と結果の関係から信念を推論する帰納(こそ)が正しい帰納だからであ る。もちろん、われわれが原因と結果の間に見いだせるのは、必然的な結合でなく、恒常的 な連接である。しかし、彼によれば、「われわれは、一方の印象から…他方の信念に移行す るとき、理性によって決定される(determin’d)のでなく、習慣(custom)によって決定される のである」(T 1.3.7.6)。なるほど、習慣とは「過去の反復から何の新たな推論もなしに生 じる」(T 1.3.8.10)ものである。そして、原因と結果の恒常的な連接とは、原因と結果の 連接が過去に反復されていることである(T 1.3.6.3)。そのため、「…[原因と結果と見な される二種の対象の連接の]頻繁な反復の後では、…[われわれの]精神は、一方の対象が 現れると、それに常に伴っていた[もう一方の]対象を考えるように、また、それをより強 い光の下で[生き生きと]考えるように、習慣によって決定される」(T 1.3.14.1)のであ る。

とはいえ、因果的(な帰納から推論される)信念が、何の(理性的な)正当化もなしに、

自然と生じるためには、過去に反復された原因と結果の恒常的な連接の習慣だけでは、十分 であるとは言えない。なぜなら、それらの観念...

の恒常的な連接が(たんに)考えられる(だ け)なら、そのときには、一方から他方への習慣的な移行(customary transition)はそのま

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