ヒュームの経験論的な知覚論によれば、われわれの単純な観念は対応する単純な印象か ら派生する。これが彼の「第一原理」である。だが、そこには、単純な印象と単純な観念の 間の異なる二つの関係が含まれる。すなわち、「類似性テーゼ」によれば、両者は互いに対 応するのだが、「因果性テーゼ」によれば、前者から後者は派生するのである。さて、彼自 身の二分法を用いれば、これらのうち、前者のテーゼは「観念の関係」であるが、後者のテ ーゼは「事実の問題」である、と言える。なぜなら、「類似性テーゼ」には、――彼の経験 論では、――反例が(思考)不可能だが、「因果性テーゼ」には、――「青の欠けた色合い」
のような、――反例が(思考)可能だからである。とはいえ、そもそも、思考が(不)可能 であると、何が(不)可能であるのか。あるいは、思考が可能でないことは、本当に可能で ないのか。これらが本章の前半で考えたい問いである。また、本章の後半では、これらの考 察を下敷きに、彼の経験論(的な知覚論)がいかにして可能となるのかを探ってみたい。
1.「思考可能性の原理」
われわれは、「観念の関係」と「事実の問題」を分けるために1、いわゆる「思考可能性 の原理(the conceivability principle)」を用いる。すなわち、「観念の関係」の反例(や否定)
は、矛盾を含意するので、思考が可能でないが、「事実の問題」の反例(や否定)は、矛盾 を含意しないので、思考が可能である。だから、「類似性テーゼ」と「因果性テーゼ」はそ れぞれ「観念の関係」と「事実の問題」と見なされるのである。
また、ヒュームは、有名な「帰納の問題」を論じる際にも2、「思考可能性の原理」を巧 みに用いる。もし仮に「自然の歩みが常に斉一的に同じであり続ける、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
」(T 1.3.6.4)ことが 確実であるなら、われわれの帰納的な推論には合理的な根拠があると言える。だが、そのよ うな「自然の斉一性(the uniformity of nature)」は、彼によれば、「観念の関係」でなく、
「事実の問題」である。なぜなら、「われわれは少なくとも自然の歩みの変化を思考するこ とができる」(T 1.3.6.5)からである。こうして帰納(的な一般化)の正当化の試みは暗礁 に乗り上げる。彼の「思考可能性の原理」によれば、「われわれが思考することは何であれ、
少なくとも形而上学的な意味では、可能である」(A 11)からである。
あるいは、彼の知覚論や因果論に援用される「分離可能性の原 理(the separability
principle)」にも「思考可能性の原理」は不可欠である3、と言える4。彼の「分離可能性の原
理」は次の二通りに表される。すなわち、第一には、「…異なる対象はすべて区別でき、区 別できる対象はすべて思考や想像で分離できる」(T 1.1.7.3)が、――彼によれば、その逆、 もまた真である」(ibid.)ので、――第二には、「…[思考や想像で]分離できる対象はす べてまた区別でき、区別できる対象はすべてまた異なる」(ibid.)、と。これらのうち、「思 考可能性の原理」が直に働くのは、もちろん後者である。というのは、第二の「分離可能性
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の原理」では、互いの分離が思考できることは、互いに異なると区別できる、とされるから である。
また、そのため、前者の「分離可能性の原理」を支えるのは、「思考可能性の原理」の逆 であることになる。たとえば、われわれが白い大理石の球を見るときに受け取るのは、ある 一つの丸い白の印象のみであるが、それでもなお、われわれは丸さ(の印象)と白さ(の印 象)が異なると区別できる(cf. T 1.1.7.18)5。もちろん、このとき実際に丸さ(の印象)と 白さ(の印象)を分離できるわけではない。われわれが知覚するのは、一つの(複雑な)印 象なのである。だが、われわれは、それら(の印象)は、――それぞれ形と色であるのだか ら、――互いに異なると区別する。だから、丸さ(の印象)と白さ(の印象)は、互いに異 なる二つの(単純な)印象なのである。さて、ここで、第一の「分離可能性の原理」に従え ば、丸さ(の観念)と白さ(の観念)は思考(や想像)で分離することができる6。すなわ ち、われわれはそれら(の観念)の分離を思考することが可能なのである。しかし、このこ とを支えるのは、「思考可能性の原理」でなく、「思考可能性の原理」の逆である。という のも、「思考可能性の原理」は思考が可能なことを可能とするからである。丸さと白さは、
それら(の印象)の区別が可能であるから、それら(の観念)の分離が思考可能である7。 すなわち、そこでは(区別が)可能なこと(の分離)が思考可能であるとされる。だから、
ここに働くのは「思考可能性の原理」の逆なのである。
ようするに、第一の「分離可能性の原理」では、(印象の)区別が可能であることは、(観 念の)分離が思考可能であるとされるが、第二の「分離可能性の原理」では、(観念の)分 離が思考可能であることは、(印象の)区別が可能であるとされる。また、このとき、前者 の「分離可能性の原理」には、「思考可能性の原理」の逆が働くが、後者の「分離可能性の 原理」には、「思考可能性の原理」が働く。こうして、知覚の単純と複雑の区別は、知覚の 印象と観念の区別を横断するのである。
だが、「分離可能性の原理」は、単純な知覚と複雑な知覚を区分するためだけに、使用さ れるわけではない。たとえば、『人間本性論』第一巻の第二部では、「分離可能性の原理」
(の対偶)が用いられ、空間や時間(の分割不可能な最小体)とそれらを満たしうる諸対象
(や可感的な諸性質)が互いに不可分であることが論じられる8。あるいは、『人間本性論』
第一巻の第三部では、(第二の)「分離可能性の原理」が用いられ、原因と結果の間には論 証できる必然的な結合がないことが示される。彼によれば、われわれは、原因(とされる対 象)と結び付けることなしに、結果(とされる対象)だけが突然に生じる、と考えることが できる(T 1.3.3.3)。すなわち、原因(の観念)と結果(の観念)の分離は「…想像には明 白に可能である。そして、それゆえに、これら[原因と結果]の対象の実際の分離も…可能 なのである」(ibid.)。
さて、このように彼の議論には「分離可能性の原理」がしばしば用いられるが9、そこに はもちろん「思考可能性の原理」(や「思考可能性の原理」の逆)が働いていなければなら ない。ヒューム自身は以下のように述べている。
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明晰に思考されることは何であれ存在しうる。そして、ある仕方で明晰に思考されるこ とは何であれ同じ仕方で存在しうる。これはすでに承認された一つの原理である。さら に、異なることはすべて区別でき、区別できることはすべて想像で分離できる。これが もう一つの原理である。私が両者から結論するのは、われわれの知覚は、…すべて互い に異なるのだから、互いに区別され分離でき、分離して存在すると思考されうるのだか ら、分離して存在しうる…、ということである。(T 1.4.5.5)
たしかに、(第一の)「分離可能性の原理」では、互いに区別されることは、互いの分離を 思考することが可能であるとされる。だが、そのような分離が、思考や想像でなく、本当に 可能であるとされるには、ここにさらに「思考可能性の原理」が作用しなければならない。
さもなければ、そうした分離は思考や想像で可能である(とされる)にすぎないからである。
そのため、「分離可能性の原理」を十分に機能させるには、そこに「思考可能性の原理」(や その逆)が不可欠であることになる。――しかし、「思考可能性の原理」(やその逆)が機 能するのに、「分離可能性の原理」は不可欠でない。――だから、「思考可能性の原理」は
「分離可能性の原理」よりもさらに基礎的なのである。
とはいえ、どうして「思考可能性の原理」はそれほどに信頼されるのか。たしかに、「思 考可能性の原理」は、――たとえば、デカルトが、それを用いて、有名な心身二元論を論じ たように10、――当時からすでに確立された原理であった、とは言える11。つまり、ヒュー ムが言うように、「精神が明晰に思考することは何であれ可能的な存在の観念を含む、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
こと、、
、 換言すれば、われわれが想像することは、、、、、、、、、、、、
何であれ、、、、
絶対的に不可能、、、、、、、
なわけ、、、
で、 は、
ない、、
こと、、
は、形 而上学で確立された原則なのである」(T 1.2.2.8)。そして、彼によれば、そのような確立 された原理には、――教育や嘘つきが反復から同意を生み出すように(T 1.3.9.19)、――
反復から生じる同意が伴われうる12。すなわち、「われわれが幼少の頃から慣れ親しんでい る意見や物事の考え方は、非常に深く根付いているので、…われわれがそれらを根こそぎに するのは不可能なのである」(T 1.3.9.17)。「思考可能性の原理」は先人たちが反復して きた伝統的に確立された原理である。だから、それは彼に同意され信頼されるのである。
しかし、さらに言えば、「思考可能性の原理」は彼の「第一原理」に適うもので(も)あ る。というのは、それを「第一原理」に照らして見れば、可能性(の観念)とは、われわれ の知覚から独立であるのではなく、われわれの思考や想像の感じ(の印象)から生じるもの である、と言えるからである。ヒュームは必然性については次のように述べている。
…二の二倍を四に等しくする必然性や、三角形の三つの角を二直角に等しくする必然 性は、われわれがこれらの観念を考察し比較するところの知性(understanding)の作用 にのみ存する13。同じように、原因と結果を結び付ける必然性…は、一方から他方へと 移行する精神の決定に存する。原因の効力や活力は、原因それ自体や神に委ねられるの