- 59 - 第1節 自己の可視化と自己構築
1-1 日記による自己の可視化とは
まずは、「自己」という視点から「日記」をとらえる。本論文は、日記を「自己を可視化 する装置」と考え、その過程を、日記を媒介とする自己の構築の実践によって、描き出す ことを狙いとしている。
では、「日記が自己を可視化する」とはどういうことなのか。改めて、その問いから確認 しておこう。日記は通常、ことばによって表現され、文字によって記述される。その日の 自分の出来事や行動について、あるいは思いや考えといった内面的なことについて、こと ば・文字を通して物語るものが日記である。日々記述される日記には、「自己」に関する何 らかの素材が散りばめられている。それらが断片的なものではなく、連続し一貫したもの として「自己」を描き出すのは、日記が後述するような「物語」的構造を備えているから である。日記は言語を通して物語的に記述されるがゆえに、あるいは物語的に読み返され るがゆえに、一貫した自己を「可視化」できるのである1。
もちろん自己を可視化する要素を持つものは、日記に限定されない。日記のような言語 行動を伴うものばかりではなく、非言語的な方法も考えられる。たとえば、写真や絵画な どが挙げられよう。日記のように自らが個人的に行うものに限っても、セルフポートレー トのような写真や、自画像のような絵画が、相当する。言語ではなく、イメージによる可 視化である。また、衣服・ファッションというのも考え得る。消費社会化した現代におい ては、ファッションはより一層、自己を表現するアイテムとして欠かせないものになって いる。視覚的に自己を主張するものがファッションであると言えよう。あるいは、表情や しぐさ、話し方なども、自己を表出させるものとして挙げることができる。
ただ、ファッションやしぐさなどは、自分自身が確認するものというよりは、他者が見 て感じ取るものである。そこには自分が意図しないものも含まれている。無意識に伝達し てしまっているものも多分にある。また、写真や表情などは、一瞬のもので、ある一瞬を 切り取って作り上げたにすぎないものである。そこにもまた、自分では確認できないもの や、意図しないものが含まれていたりする。それが言語を用いる方法との最も大きな違い であるだろう。
言語は人間が獲得した最も原初的で、最も高等な表現手段の一つである。近代的自我は、
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という命題によって「発見」されたと言われるが、
そうした西洋的な主体感覚に敏感に反応した近代日本の文学者たちは、この命題どおり、
自身の思いや考え(内面)と向き合い、格闘することで、自我の確立を目指した。そこで 手段となったのが、「ことば」であり、「物語」であった。昨日の自分と今日の自分、去年
1 「ことば」には「文字」も含まれ、「物語(語り)」には口頭で「話す」ことと文字によって「書く」こ とが含まれる。すなわち、「ことば」・「物語」が上位概念である。「ことばによって語ること」を「文字 によって書くこと」に限定したものが、「日記」であると言える。
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の自分と今の自分が同一であり、一貫したものであると認識するためには、「物語」が不可 欠であった。自己の同一性、すなわちアイデンティティを維持するためには、自己につい て物語ることが必要だったのである。その一つの方法が「日記」であった。
日記は、物語(物語ること)を「書く」ということによって実行する。後述するように、
自己物語論的な観点によると、自分自身について語ることによって自我は確立されるが、
日記は、自分自身の行いや考えという物語を「自己物語」として記述することによって、
それを達成しようとする営みであると言える。その「効用」を狙って、日記を意識的に行 なおうという試みが、教育における日記の導入であったということである。
第 3 章において示したように、日記は自己形成を促すものとして、学校教育で積極的に 取り入れられてきた。自分自身の行動や考えを見直し、記述するのが日記である。それを 子どもらに課すことで、自らを省みる機会を持たせ、人間的な成長を促そうというのが狙 いである。その自己省察の積み重ねが、揺るぎなく健全な自己の形成を促すという教育的 効果を期待したものである。今日、その「効果」は、子どもだけでなく大人にも期待され、
自己啓発書においても日記の記述が推奨されるなど、「日記」と「自己」は、一層強く結び つけて捉えられるようになっている。社会の流動性が増し、自己の存在が不安定になるこ とに伴い、自己省察の一助となる日記の効用は、改めて注目されるようになってきている のである。
このような日記の効用に依拠した実践を、どのように捉えることができるだろうか。ブ ログのようなネット上の日記が拡がるなかで、それらも含めた広義の日記実践を「自己」
との関わりにおいて検討するためには、何らかの理論的補助線が必要となる。その一つが、
自己物語論であると言えよう。
1-2 自己物語論と社会学的自己論
「自己は自分自身について物語ること(自己物語)を通して産み出される」(浅野 2001:
4)。これが自己物語論の核となる命題である。日記はまさに自分自身についての物語を記 述したものであり、「自己形成」が効用として語られるのは理に適ってもいる。自分が何者 であるのかは、自分自身について物語ることでしか説明できないというのが、自己物語論 の立場である。人生における数あるエピソードの中からあるものを選び出し、それらを紡 ぎ合わせるといった「エピソードの選択と配列」によって、自己は支えられているのであ る。
浅野(2001)によると、「自己物語」と言う際の「物語」には、次の三つの特徴があると いう。それは「視点の二重性」、「出来事の時間的構造化」、「他者への志向」というもので ある。
第一の点は、物語が、「語り手」の視点とは別に「語られた物語の登場人物」というもう 一つの視点を生むということである。自己物語で言うと、「語る自己」と「語られる自己」
とに置き換えられる。自己について物語るということは、これら別々の存在である自己を
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同一化し、一貫したものとして「連関させる」ことを意味する。
第二の「出来事の時間的構造化」とは、文字通り、「諸々の出来事を時間軸に沿って構造 化する語り」のことであり、物語においては、「無数の出来事から意味あるものだけを選び 出して相互に関連づけ」がなされるという指摘である。つまり、「出来事をありのままに描 く」のではなく、物語の結末(すなわち現在)から逆算されたかたちで、(出来事が)選択・
配列されるということである。自己物語に置き換えると、常に現在の視点から都合の良い
「物語」(過去のエピソード)が選択され、現在の自己に対して説得的に紡ぎ合わされると いうことになる。この点は、日記に対しても当てはまるものである。
そして、第三の「他者への志向」とは、物語じたいが本質的に他者に向けられたもので あることを指している。このことは第二の点、あるいは第一の点とも関連することである が、物語は「聞き手」に向けて語られるものであるため、聞き手となる「他者」を納得さ せるように語る必要があるということである。そのためには、他者と物語の前提となる価 値観などを共有する必要があり、他者の視点を予想し、それを取り入れながら語る必要さ え出てくる。自己物語においても同じように、自己を語る際には、他者による承認が必須 条件になるということである。詳細は後述するが、「日記」というものを考えたとき、この
「他者」という視点は重要な意味を持つことになる。
浅野によると、少なくともこれら三つの特徴を備えたものが「物語」として定義される。
自己を語るという際にも、これらの特徴が内在されていることが確認できる。たとえば面 接での自己PRの場面や、自身の過去の経験談を話す場合などを想像すれば、いずれの特徴 も含まれていることがよく分かる。人は、このような構造をもった自己物語を語ることを 通して、自分というものをひとつのまとまりのあるものと認識し、自己の構築を図ってい るわけである(浅野 2001: 5-13)2。
このように、自己を「実体」ととらえず、「自分自身についての物語(自己物語)」を通 して構築されるものとする見方は、他の論者にも共有されており、同種の議論が展開され ている。たとえば、鷲田清一(1996)は、「自己のアイデンティティとは、自分が何者であ るかを自分に語って聞かせる説話である」というレインの言葉を引き、「じぶんは在るとい うよりも、むしろ語りだされるもの」である(鷲田 1996: 70-2)。また、「語り」に際して は、同じ物語を共有する他者の存在が必要であるとも指摘する(鷲田 1996: 96-7)。
片桐雅隆(2000)も同じように、自己は、自己を位置づける語彙や役割、物語などのシ ンボルを通して構築されるものだと論じる。そのうえで、自己を語る語彙や言説に着目し、
それらの歴史的・社会的な変化をとらえている。また、加藤晴明(2001)も片桐の議論を 引き合いに出しながら、電話やネット、ラジオにおける自己語りを例に、自己の構築につ いて検討している。いずれも、広い意味で「物語」が「自己」を作るという自己物語論に
2 なお、浅野(2001)はそれらに加えて、自己物語には「語り得ないもの」が常に存在し、その「語り得 なさ」(=非一貫性)を隠蔽することによって、物語による自己の一貫性を保持しているという指摘もし ている。