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〈日記行為〉とその言説の系譜

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前章では、日本における日記を書くメディア、すなわち〈日記メディア〉について、そ の多様な展開を追ってきた。本章では、それらの〈日記メディア〉を用いて行う〈日記行 為〉に視点を移す。〈日記メディア〉が異なれば、〈日記行為〉も連動して変化すると考え るほうが自然なのかもしれないが、必ずしもそうではない。〈日記メディア〉の違いを超え て継続する〈日記行為〉もある一方で、同じ〈日記メディア〉を用いても、異なる〈日記 行為〉をしている場合もあり得る。そうした個別の行為の違いについては、後の章で詳し く論じるが、ここでは、そうした議論に入る前に、〈日記行為〉に対する「言説」を捉えて おきたい。

〈日記行為〉には、様々な意味づけがなされてきた。たとえば、日記が学校教育で活用 されるときには、何らかの教育的意義が付与されてきたはずである。また、ブログ等のネ ット上での日記が「流行」する過程においては、それを行うことによる効果が、ときに煽 動とも言えるようなかたちで、語られてきたはずである。本章では、そうした「日記」を 書くことによる「効果」や「効用」と呼べるような言説を中心に、前章と同様に、その系 譜をたどっていくこととする。

第1節 自己対話・反省・成長

第一に、「自己対話」や「反省」、「成長」といった言説が挙げられる。これらは、とりわ け近代日記に特徴的な言説として、把握することができる。ブログ等へとメディアのかた ちを変えた日記よりも、紙ベースの原初的な日記を想定したときに、きわめて有効な言説 として立ち現れる、ある意味で日記に対する典型的な語りであり、定番の効果・効用であ ると言える。

日記(近代日記)は、自分以外の誰にも見せないという前提のもとで、私的な事柄が綴 られるという、きわめて私秘的な営みであった。それゆえ、日記をつけることで、自己と 向き合い、自分というものを客観的に捉え、自らを省みることで、自己の成長につながる といったことが、しばしば語られる。先に挙げた「自己対話」や「反省」、あるいは「成長」

という言説群である。このような意味づけが、近代日記の形式的な(メディア上の)特徴 からも、容易になされるわけである。

第 2 章の近代日記の誕生をめぐる系譜のなかでも取り上げたように、日記はもともと神 への告白というかたちで、記述されていた。そのため、日記の普及当初から、日記を書く ことで自らを律することができるという意味で、(神に代わって)「自己監視」を行うのに 適当な手段として、認識されてきたと考えることができる。ディディエ(Didier 1976=1987)

は、このような日記の「自己監視」機能を取り上げ、「日記の執筆が一種の倫理的修練とな っている」と説明している。

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ディディエはまた、日記は自己を統一(統合)する役割を持つと指摘している。日記を 書くことで「自分自身の包括的イメージを得る」ことができるというわけである。ディデ ィエ曰く「その日その日に書かれるこのタイプの文章は本来分割的である。けれども日記 が毎日つけられることによって生じる連続性は、安心感を与えてくれる」。日記は、「一種 の鏡」としての役割を果たしており、「総体として自分を把握」するための方法としても役 立つとされる(Didier 1976=1987: 138)。

小林(2000)は、ディディエが指摘したようなことを、表現を変えて、次のように述べ ている。すなわち、日記を書く主体に着目すると、日記に「書かれる私」と日記を「書く 私」、そして日記を「読む私」という、三つの次元の「私」が考えられる。ここに時間性を 加えると、すでに書かれた「過去の自己」、いま書いている「現在の自己」、そして書かれ たものを読む「未来の自己」という、三つの異なる時間に位置する「自己」の重層性が析 出される。それら三つの自己が絶えず再生産される場こそが、近代日記であるというわけ である。日記は「現在の自己」が「過去の自己」を「未来の自己」に向かって記述するも のであることから、言わば、それら三つの自己を結ぶ「自己のメディア」として、機能し ていると説いている。

小林の論においても象徴的であるように、もはや「日記の消失は自我の消失」であり、「自 我の消失は日記の終わりである」(Didier 1976=1987: 169)と言えるほど、日記と自己(自 我)は不可分の関係にあり、自己との対話を可能にしたり、そのことで自省が促されたり、

あるいは自己の形成や自己成長をももたらすものとして、日記は語られてきたわけである。

このような日記の効果をめぐる言説は、時代を超えて、言わば普遍的にみられるようにさ えなっている。同種の言説には以下のようなものがある。

たとえば古寺雅男(1978)は、日記を「日常の生活の場所で、いつもの自分を、自己反 省的にする一つの有効な方法」だと説いている。ここでもすでに「反省」というキーワー ドが表れている。日記は、「書くことによって、自分が自分に語り、確かめ、応える。いま までばくぜんとしていたことがらを、自分のものとして関係づけてとらえる」ことができ る。「本来的にあいまいなことがらの数々を、わたしたちは文字に書くことによって選び取 って枠付けをする」。「そこに、自己を確認する」のだという。「文字で、文字言語を使うこ とによって、改めて『わたし』を確認する」。その「確認された『わたし』の積み重ね」が、

日記であるということである。古寺はこのように、日記が自己の確認を行うのに有効な手 段であると捉えたうえで、日記こそ「自己形成」に役立つものだと主張している。

古寺は教育学者ということもあり、「自己形成」と言う際には、少年期や青年期をある程 度念頭に置いていることが考えられる。また、1978年という、ちょうど校内暴力が注目さ れ始めた時期の著書ということもあって、それへの処方箋になり得るとの文脈で読まれた ものであることが、推察される。

そのように、日記を青少年期の自己形成の手段と捉える見方は、山田(1978)や坪内

(1993b)などによっても、継承されている。山田や坪内は、日記にこそ「自己形成」の片

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鱗が垣間見られるという前提のもとで日記を分析し、日記から「自己形成」のありようを 読み解こうとしてもいる。とりわけ山田は、古寺の論を引き、自覚的に特定の青年期の日 記を取り上げて、自己形成のありようを検証している。日記が「自己」にもたらす効果言 説は、それだけ強力なものとして浸透しているのである。

そうした日記の「効果」は、当然、実際の教育現場にも取り入れられるものとなる。「自 己形成」や「反省」などは、日記の教育的効果を謳うには最適であるし、「自己成長」など はまさに教育の主眼となるものである。実際にそのような効果がもたらされるかどうかは ともかく、日記が教育に取り込まれる過程で、「言説」として頻繁に謳われるようになるわ けである。

日記を継続して書くことで、自分自身や自分の生活を客観的に把握することができるよ うになるとの一般的な言説はもとより、「日記指導によって、登校拒否がなおった」という ものや、「万引きをやめた」(金城1982:173)というものまで現れる。自身も小学校教諭で 日記指導経験もある金城(1982)は、「しっかりものごとを受け止める子にとって、日記を つづけることは、その人間形成に大きくひびいていく」と述べている。一般に「継続は力 なり」と言われるわけであるが、持続力や耐久力を身につけるということや、習慣化とい ったことも含めて、日記が個人の「成長」を促すものとして、語られていったということ である。その語りは、2010年代になってもなお継続されており、雑誌『作文と教育』(2010 年 5 月号)の日記の特集のなかには、日記を「子どもたちの成長の証」と表現する事例が みられるなど、依然として根強く謳われている事実がある。

ただ、注意しておかなければならないのは、確かに教育は日記を導入し、日記による「効 果」に関する言説もまた取り入れたが、「教育」と言っても、すべてが個人を尊重するとい う現代的な教育に限らないことである。すなわち、戦後民主主義のもとでの教育だけを念 頭に置くのではなく、第 2 章においても明治期から振り返ったように、日本の戦前・戦中 における教育と日記の関係も、視野に入れておかなくてはならないのである。当時は「個 人」としてではなく、「国民」として振る舞うために、日記が用いられていた。日記をつけ ることを通して、「国民」としての規範を身につけることに主眼が置かれていた。その際、

「効果」として謳われたものは、同じ「成長」や「反省」といったものであっても、「国民」

として「国家」に資する成長や、「国民」として「国家」に服する反省だったと言ってよか ろう。その点で、表面的には同じ言説でも、時代が異なれば大いに文脈が異なる点にも、

留意しておく必要がある。

あるいは、第7章で改めて取り上げることになるが、「自己啓発」の文脈で、日記の「反 省」や「成長」が語られることについても、触れておかなくてはならない。とくに2000年 代に入ってから、「日記」をめぐる言説は、大きくその文脈を異にしている。いわゆる「日 記指導」に関する出版物が減る一方で、ビジネス書や自己啓発書のなかで、日記をつける ことが推奨され始めるという傾向が表れているのである。そこでもまた、日記をつけるこ とで自分を確認したり、自分を知ることで人間的な成長につなげようという類いの謳い文