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続いて、「社会の可視化」に関する論点に移る。3章において取り上げたように、〈日記行 為〉をめぐる言説においては、記録すること、あるいは記録されたものに対する、社会的 価値の高まりがうかがえた。たとえ個人的な記録であっても、過去の社会状況を知る手が かりになったり、いま現在の社会のありようや、今後の社会の動きを見通す手立てにもな り得る。逆に、社会的な記録として役立てられるよう、個人的な記録を提供する動きもみ られる。また、そういった動きに伴う〈日記メディア〉や〈日記行為〉への(社会的な)
意味づけから、現代の社会のありようを読み解くこともできるだろう。
5章では、「可視化」をめぐって、「情報化・データ化」および「フラット化」を戦略的に 利用しながら、自己の可視化を達成する例をみた。6 章では、「情報化・データ化」・「フラ ット化」に対して抗うことで、他者との関係や距離の取り方を制御しながら、関係の可視 化を行う例を取り上げた。続く本章では、とりわけデジタル化された記録と「社会」との 関わりについて、社会の構想といった視点も含めながら、検討していく。
第1節 個人の記録と社会の記録:自己目的化する記録と収集 1-1 記録の自己目的化
すでに3章においても触れたように、〈日記行為〉は「記録する行為」でもある。日記に はいわゆる「diary」として私的な感想や思いを綴るものもあれば、「journal」としてその 日の出来事などの客観的な事柄を淡々と記録するものもある。もちろん「日記」と呼ばれ るものが、それら二つにきれいに分類できるものではなく、むしろそれらが混在したもの こそ、日記らしい日記と呼べるのかもしれない。ただ、思いや感想などであっても、その 日その瞬間の感情を、言語化するというプロセスを通して、客観的なかたちで「記録」し たものであることには変わりない。質的な違いはあれ、日記という方法を使って、日々何 かを「記録」しているわけである。
近年、その「記録する行為」が積極的に促されるようになっている。ビジネスの場でメ モを取ったり、日報をつけたりといったことはともかく、日常生活の場面でも「記録する こと」が促され始めている。一つは 3 章においても取り上げたように、いわゆる自己啓発 書のような類の本の中で、日記が推奨されるようになっていることが挙げられよう。「人生 に成功をもたらす」などといった過剰な煽りとともに、日記を書くことが奨励されている。
それらは、専ら「記録すること」に重きが置かれている。日記はあくまでもそのための手 段に過ぎない。
同じように、デジタルの記録も促されている。これも先に触れたとおり、「ライフログ」
と呼ばれる、生活のあらゆる情報(行動や購買の履歴など)を、デジタル化して記録しよ うとするものが、典型的な例として挙げられる。いずれも次節で詳しく取り上げるが、も
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はや「記録すること」じたいが目的になっているような節もある。
そのような煽りを含んだ言説だけでなく、実質的にもそうした傾向はみられるようにな っている。たとえば、ネット上の日記と言われる「ブログ」は、ツールが先にあり、それ を利用するために使ってみるという、始め方が多い。「Twitter」や「Facebook」等のSNS も、友だちに紹介されるなどして何となく始め、それを使いこなすために積極的に利用す るというパターンが多い。つまり、手段が先に存在し、強い目的意識は持たずに使い始め るわけである。それがブログ等のように「記録すること」につながるツールであれば、結 果として「記録すること」が促されることになる。それを行うことで何かを成し遂げると いうような目的意識も、それによって何かが得られるという見返りの期待もなく、記録す る行為をするために記録する、という自己目的化した記録行為が果たされるようになるわ けである。
もともとネット上のツールじたい、そのような利用のされ方が多かった。自己目的なコ ンサマトリーな利用が、パソコン通信の時代から指摘されている。先に示したとおり、「遊 戯的」で「自己目的的なコミュニケーションの場」として描かれてきた。利用のきっかけ をめぐる語りにおいても、そのようなものが目につくようになっている。「何となく」だと か「軽いノリで」というきっかけが多く、利用を継続することで、結果としてそれじたい を楽しむという、自己目的なものになってしまうのである。
川浦ら(1999)はウェブ日記を続ける理由として、書き手が自己開示の機能を見いだせ ることと、読み手に理解されているという満足感を挙げている1が、それらは継続に至る動 機づけに過ぎず、結局は長く続けていると、更新することや継続することじたいが目的に なるという側面は大いにあると考えられる2。定期的にコメントが付けられ、読み手の期待 を背負うと、もはや記録(更新)させられている状態であるとも言える。
程度の差はあれども、以上のような、何らかの(目的達成のための)手段としての記録 から、記録のための記録へ、という記録行為の意味変容は、確実に起こっていると考えら れる。ただ、逆に言えば、そういったものこそ個人的な記録の特徴なのであり、何らかの 目的を持って記録することは、「俗」なる行為として、むしろ異質な記録行動なのかもしれ ない。ある意味で、純粋な記録行為という次元に、今の記録行為は置かれていると言える のかもしれない。
1-2 収集の自己目的化
日記を「記録」という視点から捉えたとき、もう一方で、「読む」あるいは「収集する」
1 ウェブ日記の書き手に対する質問紙調査による結果をもとに導き出している。
2 川浦らの理屈でいくと、一度自己開示の機能が見いだせたり、読み手に理解されていることの満足感が 得られると、更新の継続につながる。ただ、自己開示できているかどうかや、理解されたかどうかの確 証は得られず、絶えず問い直される再帰的なものとなる。また、ゴールがなく、容易に達成できない課 題でもある。それゆえ、達成と不安の連続により、いずれは継続のための継続、更新のための更新にな らざるを得ない部分は大いにあると考えられる。
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対象であると考えることができる。3 章で取り上げたように、「読む」対象としての日記の 価値は、歴史的な価値が上乗せされることで、さらに高まってきている。
収集の対象となるのは、何も著名人の日記だけに限らない。確かに著名人の没後に発見 された日記などは、書き手に対する付加価値があるため、当然価値の高いものとして、収 集の対象となるが、それだけでなく、いわゆる庶民の日記も、読み物として読まれ、収集 の対象になっている。すでに述べたとおり、日記収集家の青木正美や、「日本日記クラブ」、
「女性の日記から学ぶ会」などの団体が、庶民の日記の収集を進めている。
ただ、それらはあくまでも物理的な「モノ」の収集である。中身への関心も当然あるが、
それよりもまず「モノ」の存在に対する評価が先行する。古いものであればあるほど、歴 史的価値が付与されて、書かれた内容だけでなく、どんな書き方をしているかなど、形式 的なことへの関心が加わる。その意味では、青木の本業がそうであるように、有限で稀少 な古書を収集するような感覚も、含まれているのかもしれない。
一方、デジタルメディアを用いて記録される日記に目を移すと、ブログ等はまさに「読 み物」となる。一部のブログには「読者登録」という機能があるなど、「読む」側の視点が 初めから想定されている。そこで「収集」されるのは、物理的な「モノ」ではなく、かた ちのない「情報」である。読み手は素朴に他者の日記を「読み物」として楽しんでいる場 合もあるが、書き手に関する情報を(意図してかどうかは別にして)結果として「収集」
することになる。
多くのブログには「RSS」というものが備わっており、「RSS リーダー」というRSS を 読み取るツールを使えば、登録されたブログの更新情報などを自動的に「収集」すること ができる3。何らかの目的を持って、同じ系統のブログから情報を収集するには、最適なも のになっている。
あるいは、Twitter などは、「フォロー」というかたちで登録すれば、その人のツイート
(投稿)が、タイムラインと呼ばれる自分専用の閲覧画面に、自動的に流れてくる仕組み になっている。「読み物」として受容することが想定されているだけでなく、「収集」もあ らかじめ実装されているわけである。「情報」という次元に移ることで、いよいよ「収集」
は加速することになる。
ブログ等のRSS リーダーや、Twitterに、いくつもの「収集」先を登録しておくと、一 ずつチェックしに行くことなく、一度に多くの情報を「収集」することができる。その反 面、収集された情報の処理に追いつかなくなるという弊害も起こり得る。デジタルツール はいくらでも「収集」は続けるが、それを読んで理解する人間の脳が追いつかなくなるの である。複数のデジタルメディアを駆使し、政治や経済、社会時事に関する情報から、友 人の近況や現況、関心事まで、様々な情報を収集し、処理するとなると、まさに収集され たものに振り回されることになり、「収集のための収集」になってしまう。そこに、「Facebook」
や「mixi」、「LINE」といった個別にアクセスして、自ら収集しなくてはいけないツールが
3 「RSS」および「RSSリーダー」については5章2節を参照。