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日記の文化社会学

- 45 - 第1節 日記をめぐる研究の諸相

前章までにおいて、〈日記メディア〉の系譜と〈日記行為〉をめぐる言説について概観し てきたが、ここでは、それらをめぐる学術的な研究の状況を把握しておきたい。日記に関 する研究は大きく文学研究、歴史研究、社会学的研究、そして日記の実態調査といった分 類ができ、実に多岐にわたっている。それぞれ順に見ていこう。

(1)文学研究

まず、最も多くを占めるのが、文学研究である。いわゆる「日記文学」に相当する、「作 品」として鑑賞や批評の可能な「日記」を対象に、個別の作品の研究や内容分析といった ものが中心となっている。ただ、それらのほとんどは、近代(明治)以前の作品である。

あくまでも古典文学研究の一環であり、当然ながら「日記」という存在そのものに対する 関心はみられない。

文学研究のなかでも、近代以降の日記に対する研究は、少ないと言われる(キーン 1988)。 一因として、「文学作品」の領域に収まらないもの、すなわち「近代日記」が含まれてくる ことが挙げられる。近代日記はあくまでも(プリミティブな意味での)「日記」であり、文 学的ではない。ゆえに、文学研究の対象になりにくいのである。書き手が作家などでなく、

一般の庶民となれば、なおさらそうなるだろう。1980年代に、著名な作家や芸術家、ある いは政治家などの日記が公刊されるケースが増えたが、それでもその数および日記の記述 量は膨大であり、十分に「研究」されるにはいたっていないのが実状である。

とはいえ、日記研究の全体を見通すと、やはり文学的な研究が多数を占めることには変 わりないのであるが、それに比して、「日記の動機、スタイル、書く時刻、まとめ書き、省 略、隠蔽、永続の条件、さらには外国人の日記との本質的な相違などという、日記固有の、

いわばハードウェア的な問題を考察した『日記論』というべきものが、ほとんど書かれた 形跡がない」(紀田 1988: 233-4)。これは、文学研究では解決し得ない課題であると同時に、

文学研究に偏重する日記研究が共通して抱えなければならない問題であると言える。

(2)歴史研究

日本における伝統的な日記が、「日記文学」という文脈において語られるという特性から、

必然的に平安時代以来の「日記」(と題された作品群)もまた、日記研究の対象になる。そ れゆえ、歴史学においても、「日記」が研究の対象になっている。

すでに前章までで示したように、日記は主に歴史的な「記録」や「資料」として扱われ ている。最近では、国際日本文化研究所が文学研究者と歴史学者の共同研究により、日記 を「総合的」に探究しようとする動きもみられる(倉本 2011)。いずれにせよ、日記の「ハ ードウェア」的側面について考察した研究はみられず、紀田が指摘した同じ課題が共有さ れる。

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(3)社会学的研究

一方、社会学においては、これも前述したように、生活史研究などで「記録」や「資料」

として用いられることが多い。通常、社会学における質的研究では、参与観察やインタビ ューなどによって「データ」を取得するが、それらは観察者(研究者)が記述したデータ である。それに対して日記は、研究対象者がみずから記述したものであり、調査者のバイ アスが除外される。その点で、「純粋に対象者の主観的側面を分析し解釈することが可能な データ」であり、「質的研究における分析と解釈の問題を特化して扱うには格好の材料とな る」(近藤 2005)。にもかかわらず、十分に活用されてきたとは言いがたい。「資料」や「記 録」として用いる研究でさえ、それほど多くの蓄積がみられない。ましてや「ハードウェ ア」として日記を考察した研究など、決して十分に行われているとは言えず、ほぼ皆無だ と言ってもいいぐらいであった。

近年になってようやくそういった視点に立つ研究も、わずかながら現れてきた。近藤康 裕(2002)は、これまでの社会学における研究が、日記を「記録」として扱う程度に留ま っていたことを指摘し、日記そのものの社会学的な分析(「日記の社会学」)の可能性につ いて論じている。また、小林多寿子(2000)は日記を「自己のメディア」としてとらえ、

日記論の展開を試みている。

欧米ではディディエ(Didier 1976=1987)が日記の持つ特性や機能の多様性について、

文学研究とは異なる視点で論じているが、日本においても、西川祐子(2009)が文化論的 観点から、日本独自の歩みを進めてきた日記を多面的に論じようとしている。西川は「日 記帳」というメディアに着目し、それが「国民化」を促すものとして機能してきたさまを 描き出している。日記が個人で秘密に行うものでありながら、それが社会的な慣習として 定着することで、国民国家における個人としての規範を内面化し、やがて「国民」として 振る舞うことを促すという仮説が軸になったものである。〈日記行為〉を社会的な営みとし て相対化したところに、従来の日記研究にはない視点がみられる。

(4)日記の実態調査

西川(2009)は、日記を「メディア」という観点だけでなく、「行為」という点も含めな がら論じてはいるが、依然として〈日記メディア〉の研究のみならず、〈日記行為〉の研究 もまた発展途上にあると言わざるを得ない。そもそも〈日記行為〉の実態さえ、十分に把 握されていないからである。日本において〈日記行為〉は、一つの文化と呼んでもおかし くないほど定着しているものであるが、日記人口などを示すデータはなく、日記に関する 大規模な調査は一度も行われていない。つまり、〈日記行為〉の(マクロな)実態は、不明 なままなのである。

ただ、日記に関する調査が皆無というわけでなく、ごく限られたサンプルによる調査で あれば、いくつか参考になり得るものは存在する。最も古いものとして、1969年の雑誌『言

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語生活』編集部による調査が挙げられる。これは『言語生活』の読者カードの一部を利用 したアンケートとなっており、サンプルは偏ったものになるが、当時の〈日記行為〉の実 態を知る一つの手がかりにはなるだろう。回答した約300人中、約8割が日記をつけてい るという結果が示されている。うち半数以上がほぼ毎日つけており、その割合は年齢層が 上がるにつれ高くなっている。また、若年層には客観的な記録よりも「感想」が多いとい う結果や、毎日日記をつける人は市販の「日記帳」を用いるのに対して、それ未満の人に はいわゆる「大学ノート」が多いという、興味深い結果も示されている。

他に、米山誠(1988)や佐々木真一(1994)の調査もある。米山(1988)は名古屋の中 高生および大学生を対象に、1977年と81年、88年の3回に分けてアンケート調査を実施 している1。1977年では中高生とも4割以上が日記を書いていると答えていたが、1988年 には中学生で 17%、大学生でも 34%と、少数派になっている様子がうかがえる。佐々木

(1994)は、日記を書いた経験のある大学生に対するインタビュー調査で、日記の意義に 関する心理学的な考察を試みている。

ただ、ブログ等のネット上の日記が普及して以降、従来の日記の「実態」が当てはまる のかどうかは分からない。その点で、他の領域の研究と同様に、今後の調査研究の余地は 大いにあると言えよう。

もちろん、〈日記メディア〉の変容は、日記に関する研究に大きな影響を与えることは言 うまでもない。ここでは、主として紙ベースの日記に焦点を当てて、先行研究の状況を把 握しようとしてきたが、ネット上の日記を視野に入れると、決してそこに留まってはいら れなくなる。われわれは、紙ベースの日記のみを対象とするのではなく、むしろ今日のネ ット上の日記へと続くものとして、紙ベースの日記をとらえているからである。ゆえに、

ネット上の日記も含めた先行研究の状況を把握しておかなければならない。

しかしながら、紙とネットを架橋した研究は、今のところみられない。あるかにみえて も、いずれか一方に偏りがちなのである。ネット上の日記に至っては、メディア研究のな かのインターネットを対象とした研究の一部として埋没してしまっており、「日記」を中心 に据えた研究はあまり行われていないのが現状である。そのため、少なくともわれわれが ネット上の日記をとらえる際には、まずもってメディア研究に目を向け、その研究の動向 を把握しておくことが不可避となる。次節では、そのメディア研究の展開をとらえる。

第2節 メディア研究の展開

ネット上の日記は、ブログのような日記に適合的なツールができる前から、「ウェブ日記」

というかたちで、ネット上に多くみられたものであったことは、前章までで触れたとおり である。ここでは、やや遠回りになるが、あえてそれより以前のものまで遡って、メディ

1 対象者は名古屋大学とその附属中学・高校の在学者の一部となっている。なお、1977年は中高生のみ。