• 検索結果がありません。

聖州新報創刊から廃刊まで、戦後の香山

第 1 節 本章の目指すもの

前章では「一渡航者」から「一移民」 としての自覚が高まる中で、

「一移民」から「一新聞人」として立ち上がろうとした背景には、香 山の移民に対する意識の変換が存在したことを論証してきた。

本稿では香山が「一新聞人=情報提供者」としての意志を固めた後、

日本語新聞・『聖報』を立ち上げ、1)地方紙としてどのような特徴を 持たせ、何をアピールしようとしたのか(バウルー時代)。また、2)

なぜバウルーからサンパウロ市に進出したのか(サンパウロ時代)。3)

第 二 次 世 界 大 戦 後 、 再 刊 し な か っ た 背 景 に は 何 が あ っ た の か な ど 、

『回想録』から抹殺された多数ページに及ぶ『清書原稿A』を注視し、

従来の『回想録』を越えた新たな香山像を描くことを試みる。

香山研究、特に初期の新聞を分析した研究は、『聖報』社員として 香山と接点のあった清谷(1998)に顕著である以外ほとんどなく現在に 至っている。清谷は戦前は『聖報』の記者として、戦後はサンパウロ 新聞記者として、ブラジル短歌界における歌人・香山との接点を持っ ていた人物であったことから、香山を「終生文学青年的心情を持って いたのではないか」と評し 、『聖報』は文学的要素の多い新聞と特徴 づけている1。また、 深沢(2010)は、日 本 語新聞の時系列的・ 総論的 記述はしているが、新聞人・香山論を展開するまでには至っていない

2。近年 、「ブラジル移民 100 周年」を 記念して、香山の母校・熊本 濟々黌同窓会が、藤崎康夫ニッケイ新聞東京支社長を講師に、香山を 再認識する講演会を開いたのは、香山研究上の明るいニュースといえ よう3

1 清谷益次「新聞は移民にとっての何であったか」『人文研』No.2(サンパウロ人文科学研究所、

1998 年)、8 頁。

2 深沢正雪「日系メディア史」ブラジル日本移民百周年史編纂・刊行委員会編『ブラジル日本移 民百年史』(ブラジル日本移民百周年史編纂・刊行委員会、2010 年)、93-95 頁、101-102 頁。

3 日本フェアトレード委員会特別講演「1908 年第 1 回伯剌西爾笠戸丸移民」、講師:ニッケイ新 聞東京支社長・藤崎康夫氏、2005 年 6 月。

72

第 2 節 聖州新報創刊(バウルー時代:1921-1934 年)

2-1 新聞創刊の要因

『聖報』は、主要日本語新聞がサンパウロに拠点を置いていたのに 対し、ノロエステ地方のバウルーという地方都市に根拠を置いていた ことから、サンパウロ州内の日本語新聞の中で最古の地方新聞といえ る。『聖報』の創刊要因を、香山自身の生活史から浮上してきた要因 、 および生活環境から派生してきた要因に分類すると以下のようになる。

香山自身の生活史から浮上してきた要因については、第 2 章におい て、1)父親・香山俊久の『不知火新聞』発行、2)9 歳の時の九州日 日新聞の植字工の経験、3)大学時代の雑誌編集・出版の経験、第 3 章において、4)移民船「笠戸丸」内での船内新聞発行、5)大阪朝日 新聞ブラジル通信員としての実績など 5 つの要因を分析し、香山には 幼少時より新聞づくりの素地があったことを論証してきた。

一方、生活環境から派生してきた要因としては、以下の 8 項目を列 挙した。すなわち、第 3 章において、

第 1 に、香山にはノロエステ開拓のピオネイロとしての自負があり、

日本人移民の実態、すなわちブラジルの主流言語であるポルトガル語 の新聞がまったく読めず、日本語の情報に飢えていた彼らに、いち早 く対応したいとの強い願望と使命感があったこと。

第 2 に、ノロエステ地方への日本人の集住が進み、地域情報を即時 に伝達すれば購読者を獲得できるのではないかとの香山の経営試算が あったこと。事実、香山が最初に『聖報』を起ち上げたビラ・ファル コン地区は、バウルー駅南部、バウルー川岸のノロエステ線とソロカ バナ線の中間に位置し、両線の離発着を容易に知り得る場所であった。

第 3 に、1921 年 1 月のバウルー領事館開設により、日本からの情 報を迅速・的確に購読者に提供できると判断したこと4

第 4 に、香山が、ブラジルの独立記念日である 9 月 7 日を『聖報』

創刊日とすることで、新聞創刊の意義を見出そうとしていたこと。

第 5 に、1917 年、第一モンソン移住地で借地農をしていた時、在

4 在バウルー領事館には副領事多良間鉄輔、書記生古関富弥、別井元女が配属されていた。外務 大臣官房人事課『外務省年鑑』(外務省、1922 年)、161 頁。

73

サンパウロ総領事館・三隅棄蔵通訳官からの、植民地実態調査依頼を 完遂したことなどがあげられる。三隅は熊本県下益城郡杉合村生まれ で、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、サンパウロ総領事館に 勤務し、1918 年、同領事館副領事としてリベイロンプレート分館勤 務となっていた5。香山は調査内容を 1 月ばかりで一覧表に作成し て三隅に送付し、彼からすぐ謝意を表す返事 を受け取ってい た6。こ の作業の完遂が香山に以後の新聞発刊や年鑑作成などへの自信を持た せたと考えられること。

第 6 に、香山は「ブラジルにおける大和民族の植民地」と題し、ペ ンネーム「聖州子」で大阪朝日新聞(通称:大朝)に通信していた。こ の記事は、当時文部省派遣でロンドンにいた土屋員安叔父からの手紙 にも好評と記されていた。三隅からの調査依頼を完遂した充実感だけ でなく、大朝新聞のトップ記事に掲載されたことが、新聞発刊に一歩 を踏み出す要因の一つとなった。後見人・叔父からの通信は、叔父に 香山のブラジルでの活躍が認められたことを示すものであり、香山に とってこれ以上嬉しい出来事はなかったといえよう。しかし『清書原 稿A 』の筆者ジェニー脇坂は、大阪朝日新聞から送られてきた新聞 には、香山の名もペンネーム(聖州子)も出ていなかったという。内 容を読めば父親の書いたものと分かるが、名前が出ていなかったこと は非常に残念であったと述懐している7。『回想録』の中には香山は大 満足をしていたと書かれているが、その家族はそうでなかったことも 事後判明したことになる。

第 7 に、創刊直前、当時のサンパウロ総領事館総領事藤田敏郎と奇 遇 な 縁 が あ っ た こ と で あ る 。 香 山 が 東 京 で 苦 学 を 強 い ら れ て い た 1906 年当時、その援助を惜しまなかった友人・関力男(旧姓・太田)

の妻チカの叔父・関当純が藤田敏郎の実兄であることを知っていた8。 香山が京都在住の折、関力男は員安叔父の家の書生だった関係で、藤

5 外務大臣官房人事課『外務省年鑑』(外務省、1923 年)、316-317 頁。

6香山六郎『回想録』(サンパウロ人文科学研究所、1976 年)、281-282 頁。

7 香山六郎の次女、ブラジル国籍名ジェニー脇坂(旧香山)、日本国籍名ジェニー秋子香山(2017 年 10 月現在 92 歳)との国際電話インタビューにより確認。2015 年 10 月 22 日。2017 年 12 月 9 日。

8 香山、前掲書 6)、102 頁。

74

田総領事は香山の門出を危ぶみながらも祝儀を忘れず、新聞名『聖州 新報』の揮毫を快諾していたこと(図 4-1) 。

図 4-1 藤田総領事の揮毫とさまざまな広告 1923 年 2 月 23 日第 71 号

第 8 に、香山はエニックメディアであるはずの既存の日本語新聞が、

日本国民の生活と移植民生活の真相を伝えないことに不満を抱く移民

75

の一人になっていた ことである9。香山は、既存紙ばかりか領事館員 や海興の役員たちからも、移民蔑視の臭気を嗅ぎ分けていたのだ。ブ ラジル社会に内在する階級差別意識を、移民を統轄する在ブラジル日 本人たちも甘受していたことへの不満が香山を揺り動かし、移植民生 活に即した新聞を発行する決心をさせたといえよう。

これら諸要因から、移民の目線で移民たちに情報を提供するのは香 山にとって当然の行為であり、その意味で香山は移民との共生を常に 心掛けた新聞人であったといえる。

2-2 日本語新聞概要

2-2-1 ノロエステ地方の発展

1910 年代後半からコーヒー園のコロノとしてサンパウロ州のコー ヒー園に入植した日本人移民たちは、自営農を目指して、コーヒー適 地と云われていたノロエステ地方に進出するようになっていた。この 移民たちの移動と定着は、エスニックメディアとしての日本語新聞の 創廃刊を左右した。主流言語であるブラジル・ポルトガル語の新聞の 読めない日本人移民にとって、ブラジルのエスニックメディアとして の日本語新聞は、不可欠の情報源であったのだ。新聞には情報伝達の 即時性・俊敏性・公平性などが要求されるが、新聞社側には購読料や 広告料収入を経営財源としなければならない事情があるため、新聞は 購読者の増大によって組織や技術強化を図りつつ、購読者とともに発 展してゆく流動性あるメディアでなければならなかった。

1958 年の移民 50 年祭を期したブラジルの日系人実態調査や、1964 年の同調査から推定された 1925 年当時のサンパウロ州の日本人人口 は 37,222 人、そのうちノロエステ地方には 28.8%が集住し、1935 年 には 148,280 人のうちの 30.6%ともっとも高い集住率を示していた (図 1-2)10。これらのデータから、当時の日本語新聞各社がノロエス

9 エスニックメディアについて白木繁彦は、「当該国家内に居住するエスニック・マイノリティの 人々によって、そのエスニシティの故に用いられる情報媒体」と規定している。白木『エスニ ックメディア研究』(明石書店、2004 年)、3 頁。

10 Teiichi.Suzuki, Mobilidade de dos Imigrantes Japoneses no Estado de SãoPaulo,1915-1955:IMIGRACÃO JAPONESA NO BRASIL(ブラジル日系人実態調査委員会:資料編、1964 年)