第 1 節 皇国殖民合資会社の内部事情 1-1.遅れた出航
香山を乗せた笠戸丸は 1908 年 4 月 28 日神戸港を出航し、太平洋・
インド洋・大西洋を経由し、52 日かけてブラジル国サンパウロ州サン トス港へ同年 6 月 18 日到達している1。予定より 12 日も遅れていた。
この遅れは移民たちのブラジルでのコーヒー収穫作業の遅れへと繋が り、収入に関わる重大問題となり、最悪の事態である移民の入耕地で のトラブル発生の原因の一つになってしまった。その遅れた理由を以 下に論証する。
外務省通商局史料『皇国殖民株式会社業務関係雑件』によれば、 皇 国殖民株式会社は 1903 年 8 月 27 日付、斎藤修一郎以下 8 人発起人に より「移民取扱業許可申請書」および「皇国殖民株式会社定款」ほか を外務大臣小村寿太郎に提出・許可され、1904 年 3 月 31 日「開業届」
の提出、営業保証金 3 万円の納入後、東京市京橋区鎗屋町 10 番地に開 業していた。取締役会長は澤 宣量、資本金 20 万円、本社株式総数 8000 株、1株 25 円であった。発起人の一人であった水野龍は 500 株 分を出資し、発起人総代として「総代届」を外務大臣に提出している2。 1905 年 7 月皇国殖民株式会社の営業権及び業務代理人を引き継ぎ、8 月には合資会社に変更した。業務代理人 19 人の中に上塚周平の名前も 見られた3。
移民輸送会社としての体裁を整えた皇国殖民合資会社は、熊本県を 初め全国 11 県に出張所を開設し移民募集活動を展開している。1908
1 水 野 龍 「 笠 戸 丸 航 海 日 記 」 内 山 勝 男 『 日 本 移 民 5 0 周 年 記 念 か さ と 丸 』( 日 本 移 民 5 0 年 祭 委 員 会 、 1 9 5 8 年 )、 1 9 - 2 3 頁 。
2 外務省通商局「移民取扱業願ニ関スル件第 798 号」(1903 年 10 月)、「移民取扱業 許可申請書」、「総代届」(1903 年 8 月)、「皇国 殖民株式会社定款」、「開 業届」
(1904 年 3 月)、「保証金納付ノ件」(1904 年 4 月)『皇国殖民株式会社業務関係 雑件』単巻、 3.8.2.0-196(外交史料館)。以後外務省通商局は通商局と略す。
3 通 商 局 「 業 務 代 理 人 許 可 出 願 之 件 」『 皇 国 殖 民 合 資 会 社 業 務 関 係 雑 件 ( ニ )』
3.8.2.0-217(外交史料館、1908 年)。水野龍が業務担当社員を代表し桂太郎外務 大臣に提出した。
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年 2 月から 1909 年 1 月までに同届を提出した県は、熊本、山口、鹿児 島、沖縄、新潟、宮城、福島、愛媛、滋賀、岡山、兵庫の 11 県であっ た4。1907 年 9 月、水野龍はブラジルへ出向き翌 1908 年 1 月 3 日帰国 している。その目的は、1907 年 11 月 6 日、サンパウロ州政府と皇国 殖民合資会社との間での向こう 3 年間に日本移民 3,000 人の輸送に関 する移民契約書の正式調印にあった。調印文書には
サンパウロ州統領ドクトル・ジョルジ・チビリッサ、農商工務長官ドク トル・カルロス・ジ・ポテリョ、日本東京皇国殖民会社社長ニシテ該会 社ノ代表スル全権ヲ有スル水野龍諸氏列席ノ上(略)会社ヲ代表シテ各契 約当事者ノ承認セル左記条件ニ依ル所ノ日本移民輸入契約ニ調印センカ 為ニ渡来セシコトヲ宣言シタリ(略) 5
とある。本契約の第 1 条には、移民とは農業労働に適する者 3 人~10 人から成る家族移民 3,000 人のことで、12 歳以上 45 歳までの男女で 上記労働に適する者と見なし、会社は彼らをサントス港まで運送する 義務を有すとある。第 2 条では、石工大工又は鍛冶のような農業以外 の移民も受領するが、その数は移民総数の 5%を超過してはならない と規定。第 3 条には、移民の輸入は 1908 年より始め毎年 1,000 人を限 度として輸送する。第 1 回移民は本年 5 月中、当州に到着することな どとある。水野はこの契約書を持って急ぎ帰国し次の対応を迫られて いたのだった6。
条約締結文中における「皇国殖民会社」という表現は非常に曖昧で ある。この会社は 1903 年開業当時は「株式会社」組織であった。その 当時の会社設立発起人代表は水野龍であったが、取締役会長は澤宣量 であった。1905 年、株式会社から合資会社へ転換し移民取扱営業権を 譲渡されたが、その時点での水野龍の役職は無限責任社員であった。
4 通商局「出張所設置移籍廃止等届出ノ件」『皇国殖民合資会社業務関係雑件(ニ)』
3.8.2.0-217(外交史料館,1908 年)。
5 通商局「伯国サンパウロ州政府ト本社トノ間ニ締結セル契約書譯文」『皇国殖民 合資会社伯剌西爾国移民取扱一件』3.8.2.0-243(外交史料館、1908 年)。
6 通商局、前掲書 5)に同じ。
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1908 年には無限責任社員並びに業務執行社員として松井淳平が加わり、
水野は業務執行社員の肩書だけとなった。以後、諸書類末筆に記載さ れる名前は業務執行社員の松井淳平がほとんどである。また既版のブ ラジル移民関係書などには、「皇国殖民会社社長水野龍」の名前が頻出 するが、外務省や警視総監と皇国殖民合資会社との文書中にはそのよ うな役職名は登場しない。社長名は前出の「日本東京皇国殖民会社及 ヒサンパウロ州政府間ニ締結シタル日本移民三千人ヲサンパウロ州ニ 輸入スル契約書」の文頭と文末に「皇国殖民会社長水野龍」とあるの みである。しかし、皇国殖民会社は前述のとおり 1905 年以降合資会社 であったから、1906 年のブラジルとの移民輸入契約時には、「皇国殖 民合資会社」でなければならず、合資会社であれば社長・水野龍は存 在せず、あくまでも無限責任社員の一人にすぎなかったはずである。
ところが締結文には「社長」と記され、締結時の会社名も「皇国殖民 会社」とのみ記され、合資会社とも株式会社とも明記していない。正 式名称と通称とが混同された契約書であったことになる。
帰国した水野は早速、東洋汽船株式会社から同社の汽船「笠戸丸」
を 4 月 10 日に横浜港から出港させる契約を交わすと同時に、安楽警視 総監に報告する一方、地方の出張所を通じて契約移民 1,000 人を募集 している7。「伯剌西爾移民募集地方別予定表(1908 年 3 月)」によると、
前記の全国 11 の出張所等から募集した移民内訳は予定数 1,000 人、予 備員 200 人の合計 1,200 人で、大工左官等の農業以外の移民割合も移 民総数の 5%を超過せず、この時点では契約予定人数を上回った募 集 が行われていたことがわかる8 (表 3-1)。表 3-1 によれば、州政府との 契約履行のため、1 カ月足らずの間に移民を全国から募集していたが、
特に 4 月 11 日と 14 日との募集数の変動が大きいことに気づく。沖縄 県の場合、僅か 1カ月足らずで 100 人もの応募者が増減し、石工左官な
7 通商局、前掲書 5)より、「契約書」は東洋汽船株式会社社長浅野總一郎から皇国 殖民合資会社宛書簡。「御請書」は皇国殖民合資会社業務執行社員松井淳平から警 視総監安楽兼道宛て書簡(外交史料館、1908 年)。「笠戸丸」とは、日露戦争時バ ルチック艦隊所属の病院船「カザリン号」のことで、東洋汽船株式会社が払下げ 移民船に改装していた。
8 通商局、前掲書 5)より「伯剌西爾移民募集地方別予定表御届」(外交史料館、
1908 年)。東京朝日新聞 1908 年 2 月 26 日付 4 面「伯西移民開始」など。
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通 商 局 『 皇 国 殖 民 合 資 会 社 伯 剌 西 爾 国 移 民 取 扱 一 件 』 3 . 8 . 2 . 0 - 2 4 3
( 外 交 史 料 館 、 1 9 0 8 年 ) よ り 作 成
ど農業移民以外の予定数も予定数の 3 分の 1 に激減しているなど不自 然である。また、出港時の 1 家族の平均人数は 6.9 人となり、出港時 総数 781 人と 165 家族平均人数 4.7 人を大きく超えている。サンパウ ロ州政府との移民契約第 1 条では「農業労働に適する者 3 人~10 人 により成る家族を組織」とあるので契約違反ではないにしても、いわ ゆる構成家族ではないかとの疑問は残る9。結果、4 月 14 日現在の渡
9 内山勝男「笠戸丸便第一回伯剌西爾行移民名簿」『かさと丸』(日本移民 50 年祭 委員会、1958 年)73 頁によれば、沖縄県島尻郡大里村の照屋堅喜を家長とする 一家族は、家長夫婦と夫婦の従兄弟 16 人で、その姓は照屋以外に宮城、仲本、
大城、知念、新里、伊良、安谷の7姓が記されており、構成家族であることが明 らかであった。
表 3-1 伯剌西爾移民募集地方別豫定者数の変動(1908 年)
府 県 名 3 月 1 8 日 現 在 4 月 1 1 日 現 在 4 月 1 4 日 現 在 予 定
数
大 工 ・ 左 官 ・ 石 工 等
予 備 員
予 定 数
大 工 ・ 左 官 ・ 石 工 等
予 備 員
予 定 数
大 工 ・ 左 官 ・ 石 工 等
予 備 員 沖 縄 2 5 0 5 0 4 0 0 3 0 ≦ 8 0 4 0 0 9 8 0 鹿 児 島 1 7 0 2 0 ≦ 3 4 2 7 0 7 ≦ 5 4 2 5 0 2 0 5 4
広 島 1 8 0 2 0 ≦ 3 6 3 3 5 6 4 7 1 3 6
山 口 1 0 0 5 2 0 3 9 4 7 7
熊 本 1 0 0 5 2 0 8 0 4 1 6 1 6
福 島 5 0 1 0 1 0 5 2 1 2 1
新 潟 4 5 9 9 2 2
宮 城 2 5 5 6 1 1
高 知 3 0 6 3 0 6 6
山 梨 3 0 6 0 0 0
愛 媛 2 0 4 2 1 4 2 7 0 4
東 京 0 0 7 1 1
合 計 1 0 0 0 2 0 0 1 0 0 0 1 9 8 7 2 4 4 2 1 9 8
総 数 1 2 0 0 1 1 9 8 9 2 2
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航者予定数は 724 人、予備員数 198 人を加えても総数は 922 人にとど まり、サンパウロ州政府との契約条件の一つである移民数 1,000 人を 下回ってしまった。契約条件を満たせず資金調達に翻弄された皇国殖 民会社は、出港予定日遅延に伴なう移民たちの神戸での宿泊代金の工 面にも困惑し、その保障をめぐって外務省との交渉が行われており、
予定日の 4 月 10 日に出航できなかったことが判明した1 0。皇国殖民 合資会社は、4 月 21 日神戸港出航への変更認可を願った「移民出発 期日延期願出之件」と「期日延期ノ為ニ生スル移民費用ニ関スル件」
などを安楽警視総監宛に提出し、総監は石井通商局長に宛て「移民取 扱人皇国殖民合資会社ヨリ南米伯剌西爾国行移民出発期日延期ノ件ニ 附別紙ノ通申出候ニ就テハ至急御意見承知致度此段及照会候也明治 41 年 4 月7日」という文書を送り、経営難に陥っていた皇国殖民合 資会社の経営確認をしていたことも判明した1 1。また、総監から同通 商局長宛てによれば、皇国殖民合資会社が移民より神戸滞在中の宿泊 費を徴収するとの聞き込みに対し、会社側にそのような事はしないよ う外務省へ内報する通信もあり、これらについて皇国殖民合資会社側 は「答申書」を安楽警視総監に提出し、宿泊料は負担することを誓っ ている1 2。
答申書
今般本社取扱舞楽而留国渡航移民止宿料負担方ノ儀ニ付御尋問の処右ハ 本月二十一日出帆予定期日ニ有之候間二十二日以後出帆迄延期中ノ移民 止宿料ハ当然本社ニ於テ負担ノ心得ニ有之候右御尋問ニ付答申候也
明治四拾壱年四月二十五日
東京市麹町区八重洲町一丁目一番地
皇国殖民合資会社業務執行社員 松井淳平 警視総監安楽兼道殿
1 0 通商局「移民出発期日延期願出之件」『皇国殖民会社伯剌西爾国移民取扱一件』
3.8.2.0-243、(外交史料館、1908 年)。香山『回想録』(サンパウロ人文科学研 究所、1976 年)118 頁によれば、宿泊料 1 日 1 円 50 銭とある。
1 1 「移民出発期日延期願出之件」と「期日延期ノ為ニ生スル移民費用ニ関スル件」
は、1908 年 4 月 6 日付で安楽警視総監宛提出されている。前掲書 10)、(外交史 料館、1908 年)。
1 2 通商局「答申書」、前掲書 10)、3.8.2.0-243、(外交史料館、1908 年)。