1945 年 8 月 15 日の終戦宣言のラジオ放送を聞いた翌日、香山は今 まで発行してきた新聞すべてを、息子の夫陽と敏信に手伝わせて、自 宅裏庭で焼却処分してしまっている67。貴重な歴史資料は、いとも簡 単に灰燼に帰してしまったのである。
第 5 節 戦後の香山の動向 5-1 著作への執念
本論は、戦前のノロエステ地方の日本語新聞をテーマとし、サブテ ーマに「香山六郎と聖州新報」を掲げているのだが、戦後の香山につ いて少し述べることで、戦前の香山理解の深化に繋がるものとの発想 から記述することとした。戦後、香山は昔の新聞仲間からの誘いを受 けて、長男の夫陽とともに新設された新聞社を訪問している。しかし、
釈然とせず結果的に新聞界には一切関与しなかった68。新聞再刊の資 本を持たなかった香山は、新たな未来をツピー語研究や俳句などの文 芸活動に生き甲斐を求めていた。
研究欲旺盛な香山は、1949 年には仲間の支援を受けながら『移民 四十年史』を、1951 年にはツピー語研究の集大成としての『ツピー 語単語集』も発刊している69。しかし、このもっとも楽しく研究して いた項目について、『回想録』には、わずか1ページしか記述されて いない。『清書原稿A』では 10 ページに亘って詳細に記述されており、
『回想録』が香山の思いを十分に伝えていないのではないかとの疑問 が残る。戦後の香山の活動を知る重要な手掛かりは、この時点で『回 想録』から抹消されてしまっていたのだ。
香山は、1953 年 4 月 28 日頃から両眼を患い治療を受けたが、逆に 症状を悪化させ両眼とも盲目となってしまった。さらに治療ミスによ
66 キストは、ヴァルガス政権の新体制から発生したと云われている。
67 香山、前掲書 6)、398 頁。ジェニー脇坂、清A1047 頁。
68 ジェニー脇坂「パウリスタ新聞新築落成」『清書原稿A』(1962 年)、1567-1569 頁。
69 ジェニー脇坂「ツピ―語の研究」『清書原稿A』(1962 年)、1553-1564 頁。香山、前掲書 6)、 434-435 頁。
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って聴力も失い盲聾唖者となってしまった70。
1956 年、70 歳を迎えた香山は、笠戸丸出帆 48 年目の記念日に『回 想録』の執筆を開始している。執筆にあたって香山は毎日規則正しい 作業日程を立てていた。ある日の香山の作業予定を残存する筆跡コピ ーから確認すると、「今日のプログラムマ 十二月十一日」とあり、3 つの作業内容が箇条書きされているが、定規をあてて書いた字でとい われても、一般人にはほとんど読めない筆跡である。そこには、たど たどしくもキチンと表記しようとしていた香山の意志が表出していた
71。これを関係者たちは「香山象形文字」と呼んでいたようだ 。この 文字を解読できたのは次女のジェニー秋子と 1971 年 7 月以来、香山の 秘書を務めていた桜庭マス江以外ほとんどいなかったという。
盲目になっても書き続けたのが、今日の『回想録』の原本である。
香山にとって『回想録』は香山自身の50年史である。香山は50年 史を書く際「移民史は労働史だ。真の闘争史だ。俺はありのままの歴 史を、自然物の 闘争 史を書こう 。」と決 心している72。凄まじ いばか りの闘争心を掻き立てていたことが十分に伝わってくる名言である。
その意味で香山は後世にまで貴重な資料を残した初期移民知識人であ ったといえよう。
1968 年、叙勲対象者となったが自らの意志で辞退している。笠戸 丸前後の移民で叙勲を辞退したのは「移民の草分け」と称された鈴木 貞次郎と香山の二人だけである。政治的形式に囚われない、自由な意 志で執筆活動を続け生き続けた香山らしい決断であった。
5-2 香山とその家族
『清書原稿A』で 50 ページほど削減されていたのは、家族や友人た ちとの思い出や文芸活動の部分であった。『回想録』では、ブラジル 時代の香山と日本の親族との通信は、幼少時の後見人であった土屋員
70 ジェニー脇坂「体調の崩れ」『清書原稿A』(1962 年)、1501-1505 頁が、香山、前掲書 6) 、435-43 頁では「盲目」というタイトルに書き直されている。
71 香山、前掲書 6)、表見返しの挿入写真に「筆者の筆跡」あり。
72 ジェニー脇坂、清A1392-1395 頁。香山、前掲書 6)、434 頁。
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安叔父がロンドンからあてた手紙の一文しか記述されていない73。し かし、『清書原稿A』には、米姉と俊雄兄が戦後、台湾から帰国し、
米姉が 82 歳の時、癌で死亡したこと、肺結核を患う兄からの依頼で、
日本では購入できない高価なアメリカ製結核治療薬を送っていたが、
その兄も 79 歳で死亡したことなどが詳述されていたことも判明した。
夫陽の日本留学に対しても 、『聖報』の「祖国便り」を通して、親族 との交流が適切になされていたことも判明した。香山の日本脱出原因 が徴兵忌避であったことから、結果的に香山は一度も帰国することは なかったが、1964 年の東京オリンピックの時には一時帰国にこだわ っていた。逆にそのこだわりが、日本との通信を欠かさなかった姿勢 に繋がっていたのである。日本人としてのアイデンティティを持ち続 けようとした香山の心理が読み取れる事例である。
香山はひたすら家族を愛し、妻タニの前夫である故橋口重正との 3 人の子供たちも養子として育て上げ、ブラジルでの生活基盤を堅固に する努力を惜しまなかった。 1958 年現在、妻タニの前夫との子供 3 人を含めて、子供 7 人と孫 19 人曽孫 2 人というグランデ・ファミィ リア(grande família:大家族)を構成していた(表 5-2)74。
香山はブラジル移住当初の一渡航者気分からブラジルの大地に完全 に根を張り、子孫を繁栄させた移民に変容していた。このことは香山 が如何に人々との関わりに恵まれ、その関わりを大切に繋ぎ通して、
ブラジル社会に根付いた移民であったかを知る証となろう。
香山は社員の人格も尊重していた人物と捉えられる。社員との険悪 なイメージは『回想録』を読む限りにおいては殆ど表出しない。「来 る者は拒まず去る者は追わず」の精神を心得ていたのだ。三浦が香山 の『聖報』発刊に当って「チョウチョトンボも鳥のうち」と徹底的に 揶揄した時も、香山がサンパウロに進出してきた時の『聖報』壊滅作 戦で社員 2 人を引き抜いた時も、集金員の伊丹金蔵が、集金作業の傍 ら三浦の『日伯』社から著書を出版していたことなどにも激怒しなか ったところに、常に社員を信頼し社員との一体感を共有する姿勢を崩
73 香山 、前掲書 6)、282 頁。ジェニー脇坂、清A299 頁。
74 ジェニー脇坂「吾児等の成長」『清書原稿A』(1976.年)、1007-1114 頁。
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さなかった香山の信念を窺い知ることができる。
第 6 節 小括
香山が「一新聞人=情報提供者」としての意志を固め、ノロエステ 地方に『聖報』を起ち上げた理由の根底にあったものは、香山自身の
「ひたむきさ」であったと纏める。如何なる誹謗嘲笑も心の奥に押し 込め、新聞へひたむきに情熱を傾けていたことが、同じ辛苦を積んで きた移民たちに共感と賛同を得て受け入れられていたからだ。地方紙 としての特徴を持たせるために、俚謡など移民にとって身近な生活の 歌を文芸欄に掲載し、八五低資問題では、地域住民と一体化して行動 できる、ノロエステ地方人の結束力をアピールしていた。この移民の 目線で移民に情報を提供しようとする香山の姿勢が、エスニック・マ イノリティとしてブラジル社会に生き続ける人々に受け入れられたこ とは、香山の本望ではなかったか。
サンパウロに進出する際は、社会の趨勢を鋭く捉え、本音を見せず に達成していた。戦後、新聞を再刊しなかった理由は意外に簡明で、
将来を見据えた楽しい人生計画をクリアしたかったことにあったこと も判明した。
香山をそこまで駆り立ててきた背景には、家族の存在の重みが感じ られる。家族愛、社員愛、同胞愛の存在とその全てに通ずるものは、
清谷が発したように「青年のようなひたむきさ」であったといえる。
1973 年 11 月 2 日、香山の妻タニが 91 歳で冥界入りし、1976 年 4 月 6 日、香山も 90 歳で死没した。その香山の告別式に、ジェニー・秋 子・脇坂の夫の脇坂勝則が「あなたはいつも頑ななまでに移民である ことに固 執し ました75。」と弔辞を述べ て いるが、この一文にこそ香 山の人間性が高く評価され凝縮されているといっても過言ではない。
しかし、『回想録』には『清書原稿A』の肝心な家族愛や同胞愛の部 分が大幅に削除されていたことが明確となり、『回想録』は香山の闘
75 香山、前掲書 6)、まえがきⅠ頁。
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表 4-2 香山六郎の家族(1958 年、笠戸丸移民 50 周年記念当時)
香山六郎関係戸籍謄本および香山『回想録』、ジェニー脇坂『清書原稿 A』、ジェニー 脇坂へのインタビューと事後確認により作成。誕生月日不明は 0/0 で表記。
番号 親子関係 子・配偶者 孫・配偶者 誕生 その他(曽孫・一部戦後状況)
1戸主:
香山六郎 1886/1/5 1913年11月結婚、1976年4月6日
死亡(享年90歳)
2 妻: タニ 1882/7/11 1913年11月再婚、1973年11月2 日死亡(享年91歳)
3 養子1 敏信 1903/8/2 熊本県天草郡深海村生
4 配偶者 鶴子 日本人
5 孫(女)1 ラウラ・一枝
6 孫(男)1 敏雄
7 孫(男)2 敏政 1942/0/0 双生児1
8 孫(男)2 敏幸 1942/0/0 双生児2
9 孫(男)3 智俊
10 養女1 ローザ・ 芳子 ######### ノロエステ線サンジョアキン植民地生
11 配偶者 パーシー・W・ジョンズ イギリス人
12 孫(男)1 W・J・重政 曽孫(男:W・J・3世)あり
13 配偶者 ノルマ イタリア系ブラジル人
14 孫(女)1 ネイリー・栄子
15 孫(女)2 ドロシー・恵子
16 養女2 フランシス カ・ 静子 1911/1/21 リオ・デ・ジャネイロ州イグアッペ植 民地生
17 配偶者 ダリオ・P・アルメイダ ブラジル人
18 孫(男)1 ドルバル・敏信
19 孫(男)2 ジゼウ
20 孫(女)1 エレーナ・ミドリ 曽孫(男:セジオ2世)あり
21 配偶者 セジオ スペイン人(カナリア島)
22 長女 セ リーナ・ 露子 1914/1/2 サンパウロ市生、1944年結婚、
土曜会員.
23 配偶者 尾関興之助 1912/0/0 日本人1925年6月、しかご丸、土 曜会員、コロニア文学貢献者
24 孫(女)1 稲子 1942/0/0
25 孫(男)1 ハジメ
26 長男 夫陽 1917/4/20
ソロカバナ線モンソン移住地生、
1939年結婚、土曜会員、1998年 死亡(享年81歳).
27 配偶者 実子 日本人(台湾生)、旧姓富田
28 次男 エイトール ######### ノロエステ線エイトールレグール植
民地生、1943年結婚
29 配偶者 季子 日本人(バストス移住地)
30 孫(女)1 アリセ・美保 1944/0/0
31 孫(女)2 モエマ・アケミ
32 孫(男)1 エイトール・J・
以和男
33 孫(女)3 エレニーニャ
34 孫(男)2 功
35 配偶者 日系伯人女性
36 次女 ジェニー・ 秋子 #########
ノロエステ線バウルー生、1955年5 月20日結婚(29歳)、サンパウロ 大学文学部教授、土曜会員
37 配偶者 脇坂勝則 1923/0/0
広島県生、1927年父母と共に移 住、ブラジルに帰化、コチア組合、
土曜会員、君塚慎在伯日本大使 秘書、人文研理事長(1996-1999).。2017年11月15日死亡(享 年94歳)。
38 孫(女)1 ターニャ 1956/0/0 サンパウロ生まれ、土木建築技師