―1920-30 年代のブラジル・サンパウロ州を中心に―
第 1 節 初期移民による請願運動と日本政府
前章では、ノロエステ地方の初期移民たちが、日本の文芸活動をブラジ ルに取り込みブラジル化する過程での苦労と混乱を、俳句を通して解明し た。本章では初期移民たちが農業面でどのような活動をし、ブラジル農業 開発に貢献する基盤を構築してきたのか、彼らの結束を示す事例を通して 解明する。
すなわち、サンパウロ州ノロエステ地方の初期日本人移民たちが、コー ヒー栽培を基幹とした独立自営農民へ移行したばかりの時期に、霜害、干 害など自然災害から被るダメージは、彼らの農業経営を揺るがす事態にも つながった。1924 年末の大干害時には、同州ノロエステおよびソロカバナ 地方の独立自営農民たちが、日本政府へ救済資金を求める請願運動を展開 した。これに対し日本政府は 1926 年 3 月末、コーヒー干害救済低利資金 85 万円の貸付けを決定した。日本政府が在ブラジル日本人移民に低利資金 貸付を行ったのは、この事例だけであった。
サンパウロ州内の初期移民はコーヒー園労働者が中心であり、移民の主 目的は生活資金確保のための一時的出稼ぎの傾向を帯びていた。彼らは契 約期間を満了もしくは満了以前であっても、収入次第で新たな土地への移 動をいとわなかった。彼らがもっとも集中したのが、サンパウロ州北西部 に当るノロエステ地方であった。この地方には 1920 年代には自己の農園 を所有しようとした独立自営農民が集中した。
1924 年末、サンパウロ州ノロエステ地方を中心に発生した大干害に際 し、同地方の独立自営農民たちは結束して日本政府へ救済資金の請願運動 を展開した。これに対し日本政府は、1926 年末から日本人移民、主とし て独立自営農民に対して「コーヒー干害被救済低利資金 85 万円(以下、八 五低資)」を直接貸付けた。在ブラジル日本人独立自営農民による請願運 動は 1922 年と 1930 年にも存在したが、日本政府が資金貸付に応じたのは、
この事例だけであった。
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なぜ、どのようにして独立自営農民は干害救済を日本政府に請願し、要 求を勝ち得たのか、また、なぜ日本政府は「八五低資」にだけ対応したの か。この課題を解明することで日本政府の移民政策の一端を知ることがで きるのではないか、また、請願運動の経験が、独立自営農民たちに、ブラ ジル社会で生き抜くためのどのような方策を創出させたのかを理解するこ とができるのではないかと考えた。
「八五低資」に関する記述は、香山(1934)に初見する1。ノロエステ 鉄道の起点であったバウルー在住の香山には、1924 年当時のコーヒー大 干害は地元の出来事であったことから、より詳細に実態を把握し、『聖報』
にも随時関連記事を掲載し、地域住民との情報交換を密にしていた。竹崎
(1940)は、上塚周平(以下、上塚)と上塚司の書簡を分析しながら日本政 府への請願運動の経緯を詳述しており、上塚と日本との関わり方を知る手 がかりとなる2。清谷(1999)は当時の主要日本語新聞であった『日伯』
と『時報』および『聖報』の請願運動に関する 3 社の論調を比較し、ノロ エステに拠点を置く『聖報』の地域重視型の推進論、サンパウロ市に拠点 を置き、『聖報』の論調に対立する『日伯』と慎重論を唱える『時報』の 論調を詳述している3。しかし、当時の論調の多くは日本政府の関係文書 の確認が容易でなかったこともあり、情報公開が可能となった現代社会で のより正確な史実表記には及ばない。
本章では、帝国議会説明参考資料や衆議院委員会議録など外務省関係史 料、サンパウロ州内の主要日本語新聞などを参考にし、なぜ日本政府は資 金貸付を行ったのか、その背景には何があったのか、日本政府の移民政策 の一端と、資金貸付を受けた自営農民たちが、以後どのような農業経営を 模索していたのか、解明を試みようとするものである。
第 2 節 八五低資問題の発端:コーヒー干害と土地売買
外務省通商局 1923 年 2 月時点でのサンパウロ州における外国人農場所 有状況調べによると、農場総数 79,169 のうち日本人所有の農場数は
1 香山六郎『在伯日本移植民 25 周年祈念鑑』(聖州新報社、1934 年)、597 頁、625 頁。
2 竹崎八十雄『上塚周平』(上塚周平刊行委員会、1940 年)、317-319 頁、 350-354 頁。
3 清谷益次『新聞は移民にとって何であったか(二)』(サンパウロ人文科学研究所、
1999 年)、3-5 頁。
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1,167 でサンパウロ州全体の 1.5%、農場面積は 1,074 万 8,987ha でわずか に 0.4%(43,239ha)にすぎず、1908 年の移民開始から 15 年経過した日本 人の農業経営は確立していたとは言い難い4。その日本人農場の主作物は コーヒーであった。コーヒーは幼木を植栽してからおよそ 3 年で成木とな り結実する。幼木や成木の開花時に霜害に見舞われると、霜害の程度にも よるが、新芽は枯死し 2.3 年は結実しない。霜害のあと干害が発生すると 凶作となるのが一般的であったから、コーヒー栽培農民は収入源確保のた め、米、トウモロコシ、綿花などを間作した。
サンパウロ州では 1918 年 6 月、1921 年 9 月、1923 年7月と数年おきに 霜害が発生していた。特に 1923 年 7 月には 2 度も大霜害に見舞われ、こ れに関連した干害が深刻になるのは 1924 年後半からであった5。この状況 は当時のノロエステ沿線の日本人概況からも判別できるものであった(表 7-1)。
まず 1924 年と 1927 年とを比較したとき、家族数やその人数は約 1.8 倍 に増加したが、地主数は 1.3 倍にとどまり、土地所有面積は横ばい状態で あることがわかる。このことはノロエステ地方への日本人移民の移動は多 かったが、家族数の増加に比べて地主数が伸び悩んでいることを示し、独 立自営農民数が急増しているわけではないことがわかる。一方、コーヒー 樹は 1924 年に比べて 1927 年には 2.3 倍と倍増している。これは 1924 年 当時の幼木が収穫可能な成木になったことや、新たに幼木が植栽されて増
4 通商局「サンパウロ州における外国人農場所有状況(1923 年 2 月現在)在バウルー帝 国領事館多羅間鉄輔代理副領事報告」『通商公報』(外務省、1923 年)。
表 7-1 ノ ロ エ ス テ 沿 線 日 本 人 概 況
出典:香山六郎『ノロエステ日本人年鑑』(聖州新報社、1928 年) (注) 1アルケール≒ 2.5ha,1 俵=60 ㎏
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加したと見ることができる。これらから 1924 年から 1927 年の間に何らか の自然災害があったと推察され、新聞記事や当時の在サンパウロ領事館斎 藤和総領事(以下、斎藤総領事)の本国への打電などを総合して、これがす なわちコーヒー大干害による結果であると判断できる。斎藤総領事の本国 への打電は以下のようであった。そこにはノロエステ地方の在ブラジル日 本人農民の生活困窮ぶりが報告されており、現地日本語新聞の報道を裏づ けている。
最近 6-7 か月に亘るサンパウロ州内地の大旱魃は 30 年来見ざる所にして […]、珈琲は至る所新旧樹を問わず凋落の色を呈し、蕾の儘枯死墜落する ものあり、来年の収獲は[…]半作又は三分の一作に止まる可しと予想せら る(通商局第 3 課、1924 年)6。
1924 年のノロエステ地方のコーヒー収穫高は表示されていないが、
斉藤総領事の本国への打電の一文「半作又は三分の一作にとどまる可し」
から推計して、その収穫量は約 20 万俵ほどとなる。1924 年のコーヒー干 害が、ノロエステ地方の独立自営農民の経済的困窮をもたらしていたこ
とは明らかであったといえる。
この 1924 年のコーヒー大干害の誘因となった 1923 年 7 月の大霜害以前、
サンパウロ州内の日本語新聞には、好景気に沸くノロエステ沿線を中心と した土地売却広告が頻出する。独立自営農民の基本的経営は、自分の土地 を所有し契約農民(コロノ)を雇用してコーヒー栽培をすることであった から、彼らは次期の収穫を見込んで土地購入に躍起となっていたのだ。こ の動きを土地ブローカーは見逃すはずはなく、土地売り広告を頻繁に紙上 掲載していたといえる(図 7-1)。
図 7-1 には、ノロエステ沿線の土地売買人の名前と駅からの距離、土地 の価格が掲載されている。それによると、ノロエステの玄関口に当たるバ ウルーからビリグイに至る約 200km 間の、駅前を除いた半径 20km 圏内の
5 「旱魃」『聖報』1923 年 12 月 14 日第 113 号。
6 通商局「在サンパウロ斉藤総領事電報.1924 年 11 月-旱魃とその影響(伯国)」『通商 公報』(通商局第 3 課、1924 年)。
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図 7-1 北西線土地売一覧 『聖報』1923 年 7 月 13 日第 91 号より抜粋
価格の単位はレイス。ポルトガル語では、「千=ミル」といい、
1 ミル=1000 レイスとなる。土地の表示価格は1アルケール当たり。
比較的利便性の高い土地が、1アルケール(約 2.5ha)当り 300 ミルレイス 程度で 売り出されていたことがわかる。当時の 1 円は約 3,500 ミルレイ ス前後(横浜正金銀行リオデジャネイロ支店調べ、以後、正金リオ支店)で あったから、10 銭で 2.5ha の森林が購入できたことになる。『聖報』紙上 に頻出した国崎重次をはじめとする土地売り広告掲載者は、独立自営農民 であると同時に土地ブローカーであった。彼らは一方で土地の売買に焦り、
もう一方ではコーヒー干害での収入減による土地代金の未払いなど、困窮 状態をどのように立直すかと思案し焦燥していたのだ7。
独立自営農民にとって自然災害の到来はわかっていても避けようがなか った。被害が出ることは分かっていても「土地を持とう!いつかは売れる から」という独立への絶ちがたい夢と野望が、彼ら自身を苦しめていたと いえよう。サンパウロ総領事館でもこの窮状を把握し日本政府へ打電して はいたが、日本人移民の生活支援対応策までには至らず、実情把握の甘さ を露呈していたことは前述(通商局 1924)の通りである。
7 「如う切り抜けるか」『聖報』 1925 年 5 月 15 日第 178 号。