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ブラジル移民知識人香山六郎の言動

-移民俳句と日本語新聞を通して-

第 1 節 初期移民の文芸活動

1908

年に開始された日本人のブラジル移民は、第二次世界大戦前

18.8

万人に達した。1908~1924 年の初期移民時代、彼らの多くはコー ヒー農園契約労働者としての家族移民であった。彼らは契約労働が終わ ると耕地請負農や借地農、さらには自作農へと転換していくのが通例で あった。この開拓生活のなか彼らは紙と鉛筆一本で短歌や俳句・川柳・

詩などの短詩系移民文芸を創作していた。これらの創作活動は現在のブ ラジル日系人社会にも脈々と受継がれてきている。なぜ彼らは、遠く日 本を離れたブラジルにおいても移民文芸を創作したのだろうか。彼らが 創作活動を起こす発端となった契機や、文芸活動を支援する何かが存在 していたのではないだろうか。

本章では、第二次世界大戦直後頃までの短詩系移民文芸のなかで、特 に親しまれていた移民俳句を事例とし、彼らの文芸活動の精神的支柱と 後方支援策を探求することで、初期移民の日本観とはどのようなもので あったのかを考察する。考察にあたり、第 1 回ブラジル行移民船・笠 戸丸の自由渡航者であった香山六郎(以後、香山)を主要対象者とした。

香山は移民生活体験者でもあり、初期移民知識人として日本語新聞『聖 州新報』(以後、『聖報』)を創刊し、ブラジル日本人移民の在り方を論 じていた人物であったからである。

移民知識人について佐々木剛二は、移民としての主体性や情緒的経験 を強く保持しながら、大多数の移民とは異なった客観性や合理性への志 向性を持ち、積極的に移民社会とそれをめぐる状況に介入する人々と定 義づけ、さらに移民社会内部における農民層と知識層との差異も論じて いた 1。本章では、この移民社会とのかかわりや、その社会に内在する 社会的差異の存在を示唆した移民知識人の一人が香山であったと捉え る。

1 佐々木剛二「統合と再帰性─ブラジル日系社会の形成と移民知識人」『移民研究年 報』17 号(日本移民学会、2011 年)、23-24 頁。

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では、なぜ香山でなければならないのか。香山について清谷益次は「終 生文学青年的信条を持っていた」と評し、「日本語新聞を創案した日本 人のなかで、移民たちと共に生活する経験を有したのは唯一香山だけで あろう。その言動には泥臭さを感じさせるものがあるが、それは移民の 心情的・肉体的労苦を、自らの体感として理解していたからではなかっ たか」とも述べている 2。清谷は戦前、香山を社主とする『聖報』の社 員であったこと、戦後はサンパウロ新聞社員として『聖報』時代の古機 材を利用し新聞編集に携わっていたこと、さらには短歌を通して香山と 交わりを持っていたことなどから、香山のよき理解者の一人であった。

すなわち、移民知識人としての経験と移民生活者としての体験の双方を 兼備した人たちの文芸活動に、初期移民の日本観が表象されるとするな らば、この 2 つのコンセプトを兼備した初期移民知識人は香山以外に 存在しないのである。

第 2 節 初期移民俳句と移民知識人

香山は

1886

1

月、熊本県玉名郡高瀬町で父・香山俊之、母・伊喜 の次男として誕生した。幼少時に両親を亡くしたため、母方の叔父・土 屋員安の後見により、彼は日本大学・大学部商科付属殖民科に籍を置く までに成長した 3。香山の青少年期は日清・日露戦争の勝利に沸いてい た時期で、多くの少年同様、彼も軍将校になることを夢見ていた。しか し、海軍での身体検査不合格により夢は消え去り、香山は徴兵検査を忌 避するための最終手段として日本脱出を試みるに至っていた4

1908

4

月、香山はペルーへのゴム採取移民副監督として渡航する はずだったが、出航延期となったため、急きょブラジル行第 1 回移民 船・笠戸丸に自由渡航者として乗船した。日本出港時、香山は皇国殖民 合資会社の水野龍との契約により、同船していた同県人で熊本済々黌の 同窓生でもあった同会社サンパウロ代理人上塚周平(以後、上塚)の書

2 清谷益次「新聞は移民にとっての何であったか」『人文研』No2(サンパウロ人文科 学研究所、1998 年)、7-8 頁。

3 半澤典子「香山六郎と聖州新報(一)」『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要史 学編』13 号(京都女子大学、2014 年)、12-22 頁。

4ジェニー脇坂「海外雄飛」『清書原稿 A』(私家本、1976 年)、430 頁

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記生として働くことになっていた 5

上塚と共にサントス港に着いた香山は、その時の様子を

「サントスに笠戸丸着きぬ星ふる夜」、

「吾が骨を埋めよ青山秋の晴れ」 と詠んでいる6この句と同時 期に上塚(雅号は瓢骨)の詠んだ

「涸れ滝を見上げて着きぬ移民船」と

「ブラジルの初夜なる焚き火祭かな」の句は、ブラジル俳句界で は広く知られているが、香山の句はほとんど知られていない7。これら の句には、50 余日もの航海の末、移民たちを無事にブラジルに到達さ せた達成感と、この事業にかかわった人々への上塚と香山両人の感謝の 気持ちが表出している。読者にも安堵感を与えるこれらの佳句は、ブラ ジルの情景を読み込んだブラジル移民俳句の先駆けと位置づけられる。

地球儀を見ればわかるように、ブラジル・サンパウロ州は日本の対蹠 点に位置する。そのため、笠戸丸がサントス入港した

6

月のサンパウロ 州は、コーヒーの収穫晩期の秋になる。香山の初句には、長い航海の末 に秋の夜空に星がきらめくサントス港に到着した時の安堵感以外に、こ れで徴兵は回避できたという精神的束縛からの解放感や安堵感も表現 されているようだ。

2

句目には、ブラジル到着時の晴れ晴れとした自分 の気持ちと秋晴れが掛け合わせて表現され、「吾が骨を埋めよ」の

7

文 字で永住も覚悟の内であったことを暗示している。事実、香山は

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歳 で没するまで帰化もせず一度も母国を訪問せずにブラジルの土と化し ている。これはブラジル到着直後の句であったから、彼が本音でブラジ ルへの永住を考えていたとは断言できないが、自由渡航者であったこと から香山の目的は、いわゆる家族移民の出稼ぎ的渡航とは基本的に異な

5 上塚周平(1876-1935)は熊本県下益城郡出身。東京帝国大学法科卒業。1908 年皇国殖民合資会社の現地代理人。1918 年にイタコロミー植民地、続いてリン スに第二上塚植民地を建設。生涯妻帯せず質素に暮らし移民の生活を見守ったこ とから「移民の父」と称される。なお、熊本県立濟々黌高等学校同窓会(一般財 団法人多士会館)によれば、 上塚は 1896 年 3 月(第 6 回)、香山は 1906 年 3 月(第 16 回)の卒業生であった。上塚の在校時代の校名は熊本県尋常中学校、香山の時 代は熊本県立中学濟々黌と称していた。

6 ジェニー脇坂『香山毒露俳句集』(私家本、2008 年)、1 頁。

7 栢野桂山「俳諧小史」『ブラジル日系コロニア文芸』上巻(サンパウロ人文 科学 研究所、2006 年)、155 頁。

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っていたと考えるのが妥当であろう。佐々木は香山のような渡航者を

「学術的・批評的」な機能を持った広義の「移民知識人」と定義し、前 述の契約移民・家族移民とは異なった移民層であると記述している8

香山が自由渡航者意識から移民意識へ転換する契機となったのは、

1908

年 9 月、モジアナ線のズモント耕地からの脱耕 9 家族 27 名が

配耕された、ノロエステ線サン・ジョアキン耕地での通訳兼監督の体験 にあった9。この

9

家族と香山こそがノロエステ線最初の日本人入植者、

すなわちノロエステ線日本移民の先駆者なのである。この先駆者として の自負、移民をリードしつつ常に移民と共に生きようとする移民知識人 としての姿勢が、その後の香山のブラジル生活の精神的支柱になってい ったといえよう。「日の丸旗を柳行李の底に秘む移民」、

「神戸出た事などわめきカフェ摘む」、

「家族移民のカフェ耕地に郷愁なし」の

3

句は、香山が 移民監督・通訳をしていた時の句で、彼自身というより移民たちの行為 を傍観するなかで創作された句である10。香山は出稼ぎ目的でブラジル に来た移民たちが、柳行李の底に潜めてきた日章旗を日々意識すること で、日本人としてのアイデンティティを確認する行為を温かく受け止め、

彼らとの労働のなかに喜びと充実感を表現している。また、香山は神戸 出港時の移民たちの不安と希望の混じり合った複雑な心境を、広大な耕 地で声張り上げながらコーヒー摘みをしている現在の彼らの姿に重ね 合わせて「わめき」と表現し、さらに、彼らの厳しくとも明るく暮らし ている様子に安堵し「郷愁なし」と言い切っている。これらの句は、初 期移民が直面する生活への不安や希望を表現しているのであるが、それ はすなわち香山自身の移民先駆者であり、また、移民知識人であるとの 移民意識の表出であったともいえよう11

1912

年、移民会社の倒産により失職した香山は、上塚らと共にサン

8 佐々木剛二、前掲書 1)、25-26 頁。

9 香山六郎『在伯日本移殖民 25 周年記念鑑』(聖州新報社、1934 年)、32-33 頁。

1 0 ジェニー脇坂、前掲書 6)、1-2 頁。

1 1 渡部南仙子「香山毒露翁」間嶋稲花水『ブラジル俳句百年』(ブラジル俳文

学会、2008 年)、53 頁。