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本章では、日中戦争期に神社増設が行なわれたことに着目し、朝鮮総督府が展開した神社政 策を考察する。総督府が神社の導入と増設を朝鮮支配の最終段階で展開するようになった過程 を追って、日本の朝鮮統治における神社政策のもつ意義を検討する。

日本は植民地を獲得するとその地に官幣大社を設置し、各地の総鎮守とした。日本政府が設 置した官幣大社は、その地域のすべての神社の頂点に位置づけられた1。一九〇一年に台湾神 社(一九四四年六月に台湾神宮に改称)、一九一〇年に樺太神社、一九二五年に朝鮮神宮、一 九三八年に関東神宮、一九四〇年に南洋神社が設置されたが、それらは政府設置神社であった。

近代日本の植民地のなかで、南北の拠点であった台湾と朝鮮の総鎮守として設立された台湾神 社と朝鮮神宮は、日本の支配を受けてすぐに設置されたのではなく、さらに、台湾神社の設立か ら時間差をもって朝鮮神宮が設立されている。台湾と朝鮮の神社に関する規定は「台湾ニ於ケル 神社祭式規定」(一九一四年十月)、「神社寺院規則」(一九一五年八月)としてそれぞれ制定さ れていたが、これによって直ちに植民地への神社増設が本格化したのではなかった。

そもそも日本国外の神社は在外邦人のためにつくられたのであり、神社の基盤がない植民地 への神社の普及は困難であった。日本の神々を奉祭している神社は、植民地の人々に受け入れ られるようなものではなかったのである。植民当局と本国神社界との間の意見の対立が、一九二 五年の朝鮮神宮の鎮座祭の前に明らかになった。それは朝鮮神宮の祭神を巡ってであり、朝鮮 の始祖である檀君を加えて奉祭すべきだと主張する一部の神道家に対して、総督府は檀君の奉 祭を認めなかったのである。総督府が神社普及を狙っていたのであれば一部神道家の要求を受 け入れてもおかしくなかったのであろうが、総督府は拒否したのであった。総督府が植民地の「同 化」を目指すなら、神社を植民地民に受け入れられる形にして普及するのが当然であったが、総 督府がその要求を拒んだことは、朝鮮への神社導入に積極的ではなかったことを意味する。

朝鮮における本格的な神社導入は、一九三六年八月の「改正神社規則」によって神社制度が 整えられてからであった。第七代朝鮮総督南次郎による朝鮮統治の目標は、「普通の治安さえ完 全には保たれておらず」という状況の朝鮮を、「陛下の行幸」と「徴兵制度」の実現が可能な植民 地につくりかえることであった2。南総督の掲げた二大目標達成と合わせて神社増設は遂行され た。

日中戦争勃発後の日本の植民地支配に関する従来の研究では、「大陸兵站基地化」3、あるい は、「皇民化」政策を中心として議論している。前者は主に戦争遂行のための動員体制を重視し た見方であり、後者は併合以来の支配の基本方針であった同化の最終段階としての支配強化を 論じた見方である。そしてこの時期の宗教政策に関する先行研究には、皇民化運動の一環として の神社参拝強制と、それに対する抵抗を描いているものが多かったが、近年になって植民地神 社の歴史や祭神に関する研究成果が発表されて海外神社・植民地神社の実態が明らかにされて いる4。以下では、総督府が朝鮮の宗教統制の最終段階として神社を如何に導入・拡大したのか に焦点をあわせ、まず、朝鮮における神社の状況、次に総督府と朝鮮神宮との対立、最後に総督 府が神社を積極的に導入・拡大していく過程を追い、神社政策の意義を考察する。

第一節 朝鮮における神社概観

海外の神社は、台湾や朝鮮などに居留する日本人が、日本の神々を祀る祠・遥拝所をたてた ことからはじまった。朝鮮では、一六〇九年日に朝両国間の貿易再開した後、倭館に常駐する日 本人が、航海安全を願って金刀比羅大神を奉祀した小祠を釜山鎮に建て、一六七八年に倭館を 龍頭山麓に移したときに、対馬藩主宗義真が金刀比羅神社を建てて運営した。この祠は一八九 四年に「居留地神社」と改称され、一八九九年に「龍頭山神社」と呼ばれるようになった5。このよう な例外を除くとほとんどの海外の神社は、明治以降に設置されている。

江華島条約締結後に日本人の朝鮮滞在が増えると、日本人居留地を中心に日本の神々を祀 っていた「居留民設置神社」に分類される神社・祠が増え、併合時には三一社になっていた。これ らの祠と遥拝所は、のちに社殿などの施設を整え、公式の認可を得て神社となっていった。この 時期の神社は日本人居留民を対象にしており、居留地の日本人が航海安全のために祠をたてて いた。当時は日本国内のような神社制度もなく散在していた。

居留民設置神社が総督府の管理下に入ったのは一九一五年八月の「神社寺院規則」の制定 からであった。総督府は、「神社は国家の宗祀にして、尊厳なる我が国体の成立、光輝ある国史 の成跡と表裏一体を成し、敬神の本義を明徴して、斯道の興隆を策するは亦国民思想涵養上緊 切の要務」6であるとして、「神社寺院規則」を発布した。神社と「内地」仏教の寺院に関する神社 寺院規則によって、総督府は神社の目的、祭神、維持方法から廃止合併などに対する規定を定 め、崇敬者三〇人以上の連署があれば神社設立を許可するとした。

一九一七年三月、総督府は「神祠ニ関スル件」を発布し、「神社ニ非ズシテ公衆ニ参拝セシム ル為神祇ヲ奉祀スルモノ」を神祠とし、一〇人以上の連署をもって条件を整えれば許可すると定 めた。総督府が提示した要件を満たせなかった小祠は神祠とされたが、祠も神社同様の機能をも つものとして公認した。総督府は、「神社寺院規則」と「神祠ニ関スル件」を通して神社の設置を

「許可制」にし、神社の基準を明確にして居留地に散在していた神社を管理監督下に置いた7。 神社に関する法制化が一段落すると、「朝鮮神社」の設立が本格的に進められることになった。

朝鮮の総鎮守としての社の設立計画は一九一二年から進められ8、一九一七年に「神祠ニ関スル 件」が発布されてから具体化した。内務省、神社調査会、総督府が連携しながら朝鮮神社の設立 を進めた。一九一八年三月三〇日、長谷川好道総督は、水野錬太郎内務大臣に朝鮮神社の祭 神に関し照会した。水野が神社調査会に諮問したところ、調査会は天照大神と明治天皇の二柱 を祭神とするとの答申を出したので、七月になって総督府は朝鮮神社の設立を進めた。

内務省と協議した結果、長谷川総督は原首相に一九一八年一一月二八日付で、「朝鮮神社 創立ニ関スル件」(内秘第四二四号)を提出した。それは以下の通りである。

「朝鮮全土の民衆の一般に尊崇すべき神社なく、民心の帰一を図り忠君愛国の念を深からしむ る点において遺憾とする所なき能はず。依て此の際国風移植の大本として内鮮人共に尊崇すべ き神祇を歓請し、半島住民をして永へに報本反始の誠を致さしむるは朝鮮統治上最も緊要の事 と存候、就ては茲に皇祖にまします 天照皇大神と鴻徳偉業前古未曾有にして朝鮮の民衆に対 しまた無比の仁恵を施こし給へる 明治天皇の二神を奉祀致度見込を以て社殿造営費を大正七 年度より同十年度の予算に計上致候に付、社地を京畿道京城府南山に相し前記二柱の神を祭 神として二座に奉祀し社号を朝鮮神社と定め社格を官幣大社に列せられ候様、御詮議方御取計 相成度候也。」9

朝鮮神社は朝鮮統治上の要として位置づけられ、総督府は、朝鮮全土に「忠君愛国の念を深 からしむる」ために天照皇大神と明治天皇の二柱を祭神する神社設立を提案、三・一運動直後の 一九一九年七月一八日の「朝鮮神社創立ニ関スル件」(内閣告示第一二号)をもって朝鮮半島の 総鎮守たる「朝鮮神社」設立を告示し、朝鮮半島の総鎮守たる朝鮮神社を京城府南山に設立し、

社格を官幣大社とすることが告示された10。天照大神と明治天皇を祭神とする官幣大社朝鮮神社 は一五六万余円の造営費をかけて造営され、一九二五年一〇月一五日に朝鮮神社から「朝鮮 神宮」と名称が改められた。だが、朝鮮における神社設立が、朝鮮神宮設置後すぐに本格的に開

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