本章では、植民地本国である日本における内務省主導の「三教会同」と、朝鮮版大逆事件とし て知られている「一〇五人事件」が同時に進行していた点に着目し、一九一〇年代に総督府がキ リスト教に対して行なった抑圧策と懐柔策を考察する。
併合された時点での朝鮮におけるキリスト教は、約二十二万信徒を有する宗教に成長し、教 育・医療などの社会事業を通して朝鮮社会に影響を及ぼす宗教団体になっていた1。改革を目指 す指導層が保護期からキリスト教会にあつまり、民衆も教会の福音宣教と社会事業の活動を通し てキリスト教会につながっていた。このような朝鮮のキリスト教成長の原動力は欧米の宣教師の活 動であった。
ところが、併合後の総督府の対キリスト教政策は、統監府時代の「文化政治」期の懐柔・放任策 から抑圧策へ転換した。総督府のキリスト教抑圧策がキリスト教の最も盛んな朝鮮の西北地方の キリスト教関係者を抑えるために「捏造」された一九一一年の「一〇五人事件」である。この事件は 植民地朝鮮におけるキリスト教弾圧として国際社会に伝えられた。
朝鮮における一〇五人事件が国際世論に報道されていたそのとき、植民地本国では内務省主 導の「三教会同」が、各界の反対に直面しながらも開催された。一九一二年二月二五日に開かれ た三教会同は、宗教界から民衆教化運動への協調を引き出すために開かれたものであったが、
日本政府のキリスト教に対する認識が、三教会同の過程で明確にされた。この会合で日本政府は 外国からの圧力のためとはいえ、神道・仏教と同じくキリスト教を「優遇」するようになったのであ る。
併合直後の日本国内と植民地朝鮮における宗教政策をみると、朝鮮ではキリスト教抑圧策が、
他方、日本ではキリスト教の地位向上とも言える宗教政策がとられた。ここで、日本の三教会同が、
一〇五人事件によって後押しされた形で行われていたことを見逃すにはいかない。総督府のキリ スト教弾圧が一〇五人事件によって国際問題化した際、日本政府はキリスト教弾圧という印象を 払拭するために三教会同を開いたのである。三教会同の開催は日本政府の宗教政策の転換を 示すものであり、総督府のキリスト教抑圧策も転換せざるを得なかった。
従来の一九一〇年代の朝鮮に関する研究は、軍事的・経済的な支配体制の強化という側面か ら、武力支配の様相を解明することを中心として行なわれ、一定の成果をあげてきた2。しかし、民
族運動の抑圧という側面を強調し、この時期の統治を、単純に武力によるものと限定する見方は、
日本の植民地統治の全体像を単純化することになりはしないだろうか。総督府はキリスト教宣教 師と国際社会の世論を意識した宗教政策を一九一〇年代半ば以後からとるようになったが、この ような総督府のキリスト教政策は、抑圧による支配策とは異なる統治策であった。武力以外の統治 方式として宗教政策が採用されていたがゆえに、仏教・キリスト教・天道教などの宗教勢力中心の 一九一九年の三・一独立運動が起こったのではなかろうか。
以下では、三教会同と一〇五人事件を通して、総督府のキリスト教政策の転換を考察する。そ のためにまず、朝鮮におけるキリスト教の状況と、総督府がキリスト教を警戒するようになった過程 を検討する。次に、一〇五人事件と三教会同の経過をみて両者の関係を検討し、最後に総督府 が抑圧策に加えて懐柔策を取り入れる過程を考察する。
第一節 キリスト教の成長と統監府の政策
(一) 朝鮮キリスト教の特徴
鎖国策をとっていた朝鮮が開港したとき、キリスト教は「アヘン」と同じようなものとして警戒され ていた。しかし、朝鮮社会の混乱が高まっていくなか、徐々に教勢を伸ばしていった。この時期の キリスト教の朝鮮普及の経路は三つあった3。それは、ハングル翻訳聖書商人4、次に海外に滞在 していた知識人層のキリスト教への改宗後の帰国、そして欧米、とくにアメリカ宣教師による経路 である。この三つの経路のなかで朝鮮キリスト教の主流となったのは、宣教師を通して開拓された 教会であった。
朝鮮のキリスト教成長と宣教師の関係を論じる際、欧米宣教師による社会救済活動と同時に、
自給・自立を掲げた「ネヴィウス方式の宣教政策」5に基づく福音宣教活動が行なわれていた点に 注目すべきである。ネヴィウス方式の宣教とは、宣教本国からの援助に頼らずに宣教活動が展開 されるもので、宣教師は宣教地の信徒とともに教会を設立しなければならなかった。キリスト教会 の自立のために宣教師は教育・医療・福祉事業のような社会事業活動を行なっており、そのため 多くの知識人がその活動に自発的に参加し、民衆もそれを歓迎して受け入れた。従来の朝鮮の 教育は特定階級が官吏になるためのものであったが、平等を掲げたキリスト教は一般民衆にも教 育の機会を与えた。当時のキリスト教団体による学校の設立は教会設立と並行して行われた事業
であって、一九一〇年までには初等教育機関を含めて総数八二二校が全国に設立されていた。
教育機会の拡大によって儒教社会で閉ざされていた朝鮮の女性が教会に導かれることとなった。
また、西欧の近代医学を導入して病院を設立したことは、「近代化」に関心を持っていた朝鮮の 人々に広く歓迎された。京城に滞在していた言論人であった山縣五十雄は宣教師の活躍を次の ように記している。
「彼等宣教師の多くが一意専念、一身の安楽を犠牲として献身的に終生鮮人の教化に努力し、
霊的に彼等を導くのみに止らず、病める者に医療を施し孤児を養育し、不具者を救済する等の博 愛事業を遂行するにあるのである。特に彼等宣教師より我等内地人が学ばねばならぬ一の大なる 教訓は彼等が此等の事業に一生を費すのみならず子は親の遺志を続ぎて相変らず鮮人の為め に働く事である。彼等にとりて伝道事業は腰掛けの事業でない、朝鮮は出稼ぎ場所でない、其事 業は一生の事業で朝鮮は彼等の永住の地、墳墓の地なのである。」6
山縣五十雄は、朝鮮キリスト教の急成長の要因の一つとして、外国宣教師の献身的な「博愛」
事業をあげ、欧米のキリスト教宣教師が朝鮮人から信頼を得て教勢を伸ばしていたことを認識し ていた。
宣教師による布教は、一八八四年に長老派の医師アレン(Allen)の朝鮮入国を皮切りに、翌一 八 八 五 年 に 長 老 派 の 宣 教 師 ア ン ダ ー ウ ッ ド ( Underwood ) と メ ソ ジ ス ト 派 の ア ペ ン ゼ ラ ー
(Appenzeller)夫妻、そして医師スクランタン(Scranton)が入国して朝鮮宣教の歴史の幕を開けた。
つづいて一八八八年にはバプテスト、一八九〇年に聖公会、一八九六年に南メソジスト、一九〇 七年にホリネス、一九〇八年には救世軍などに属する宣教師が朝鮮に入ってキリスト教の布教を はじめた。なかでもアメリカの長老派とメソジスト派は活発に布教し、両派の開拓宣教は、宣教開 始から一〇年すぎた一八九五年の段階で、一五九〇人の信徒を獲得するほど成長した。その後、
甲午農民戦争・日清戦争とつづくなかで、一九〇〇年にはその一〇倍の信徒数一万九五一五 人を数えるようになった。一九〇五年には五万二三一三人になり、一九一〇年には二二万六七 九一名(長老派一七万六三五六人、メソジスト五万四三五人)に達した7。この成長率は、世界の キリスト教の宣教史上類まれなものであった。
朝鮮の初期キリスト教会の構成は主に民衆を基盤にしていたが、それは朝鮮キリスト教青年会 の理事であった白楽濬の描写から読み取ることができる。
「最初は政府と関係を持ったが、この新しい宗教はおもに素朴で貧しい人々の間に伝えられた。
朝鮮人たちは教えられる通りにあまり疑いを持たずに信じた。彼らは教えられたように行動した。
そして『みことばを行なう者』になろうと努めた。イエス自身も農村出身であった。そのために彼のた とえや説教は朝鮮農民たちにたやすく受け入れられたし、その人格は彼らにおいて生き生きとし たものであった。朝鮮人は福音と使徒行伝を都市人であるパウロの精妙な神学よりずっとたやすく 理解した。彼らは闘争の中で福音の単純な教えを受け入れることで、慰めと平和を発見した。彼ら はこの知識を自分一人のみで保っているのではなく、その話を彼らの友人と隣人に伝えた」8
外圧と官吏の暴政が、朝鮮の「素朴で貧しい」民衆をキリスト教教会に向かわせた要因であった。
官吏による暴政を避けるため、民衆に加えて、改革の必要性を意識した開化派知識人もキリスト 教会に集まった。開化派知識人が教会に目を向けたのは日清戦争後であり、改革を目指す知識 人はキリスト教会を開化・救国の手段として認識していた9。宣教活動の初期段階のキリスト教は排 斥され、東学などが民衆の支持を得て成長していたが、「甲午農民戦争」および日清戦争後にな ると状況が変わって、開化派の知識人層がキリスト教を受け入れた。こうして朝鮮のキリスト教会の 人的構成は身分の上下に偏ることなく広がり、朝鮮の改革を望む勢力はキリスト教会で民衆と連 携することになった。
朝鮮においてキリスト教成長を象徴するのが一九〇七年の「大復興(リバイバル)運動」、一九 一〇年の「百万人救霊運動」であった。次の表一はこの時期のキリスト教の成長率を示している。
表一 大復興期の朝鮮教会成長率
年代 教会数 伝道人数 洗礼教人 学習教人 献金(元)
1905 321 470 9,761 30,136 1,352,867 1907 642 1,045 18,964 99,300 5,319,785 増加率(%) 200 222.3 194.2 329.5 393.2
注: 閔庚培『韓国基督教会史』(延世大学出版部、ソウル、一九八二年)。
朝鮮での大復興運動は、「現在キリスト教が朝鮮の姿(character)を変えている」と報じられるほ どであり、百万人救霊運動は、キリスト教の信徒が百万に達すると保護国になった国が救われると いう目標が掲げられて展開された10。朝鮮の知識人と改革勢力などの指導層だけでなく、民衆も キリスト教を受け入れていたため、二つのリバイバル運動が続けられた。