本章では、一九一九年三月の高宗の国葬に合わせて起きた三・一運動そのものではなく、朝 鮮の儒教勢力が独立請願運動――「第一次儒林団事件(=巴里長書事件)」(一九一九年)、
「対日本長書事件」(一九一九年)、「第二次儒林団事件」(一九二五年-一九二七年)――を展 開したことに着目して、一九二〇年代の総督府による儒林懐柔策を考察する。
植民地期の朝鮮における民族運動において、最も消極的であったのが儒教勢力だったという 指摘がある1。「義兵」2運動の鎮圧以後、儒教勢力の活動は、亡命した儒林を中心に海外で行な われたこともあって、朝鮮における彼らの活動はそこで絶えたかのように論じられてきた。そして、
三・一運動の独立宣言書に署名した民族代表の三十三人のなかに、儒教関係の人物が一人も 入っていなかったという事実は、仏教・キリスト教・天道教などに比べて、儒教勢力が民族運動に 消極的だったと評される主要因の一つになっている。
これに対して儒教勢力が民族代表を出していなかったのは、儒教界との事前接触がなかった からであり、それ故に三・一運動における儒教界が消極的であったと考えるのには無理があるとい う研究もある3。三・一運動の地方参加者を視野に入れたとき、当時の郷村社会で影響力をもって いた儒林の役割は過小評価できない。保護条約と併合に際して、最後まで義兵運動を主導した のは儒林勢力であり、儒林は郷校・書院・書堂などの儒教施設を通して、郷村社会に影響を及ぼ していたのである。
このような植民地下朝鮮の儒教に対する異なる評価は、三・一運動後の一九二〇年代におけ る儒教界の活動の見方の違いによる。植民地下の儒教界の活動を中心に時期区分すると、大き く三期に分けることができる。第一期は一九一〇年から一九一八年までの亡命の時期、第二期は 一九一九年から一九三〇年までの儒林の独立請願運動と儒教改革の時期、第三期は一九三一 年から一九四五年までの同化政策と非妥協的抵抗の時期である4。第二期に当たる、高宗逝去 後の一九二〇年代は、儒教界が独自に独立請願を行なった時期であり、総督府は儒教界の独 立請願運動に対応して抑圧策とともに「懐柔策」を展開した時期として注目すべきであるのに、こ れまでそれほど評価されてこなかった。それは文化政治期に行われた総督府の儒教政策のため であるといえよう。この時期の儒教界の活動と、それに対する総督府の対応の実態を考察すること によって、儒教勢力が、先行研究で言われていたように、果たして本当に消極的だったのかを検 討する。
大正デモクラシー期とかさなる一九二〇年代の、総督府による植民地朝鮮統治は、寺内正毅
(一九一〇年一〇月から一九一六年一〇月まで在任)・長谷川好道(一九一六年から一九一九 年八月まで在任)総督時代とは異なり、「文明」を掲げた「所謂カルチュラルポリシー(Cultural Policy)で文明教化の政治」5であったと宣伝された。一九一九年八月一九日の官制改革の詔書 に基づいた総督府の新施政は、「斎藤政治八ヶ年の治績=文化政治」といわれ、「孔孟の教が基 礎」となった徳と礼による統治であると評価された6。先行研究では、三・一運動を境とした政策転 換の要因、内容などが論じられ、統治策は一九一〇年代の支配政策の延長にすぎず、その本質 は変化していないと説明されている7。しかし、この時期には抑圧策に加えて懐柔策が行なわれて おり、その懐柔策において総督府は地方の儒教勢力に注目していた。このことは植民地期の儒 林の評価とかかわっている重要な点である。したがって本章では、先行研究を踏まえながらも、高 宗逝去後の儒教界による請願運動と、儒教内部の革新勢力に対する総督府の儒教政策に焦点 を合わせて、一九一〇年代とは異なる総督府の懐柔策の側面に焦点を合わせて検討する。その ため、まず儒教政策の背景を確認する意味で朝鮮の儒教を概観し、次に朝鮮総督府の儒教認 識と義兵運動鎮圧・儒教施設の機能転換といった抑圧策、最後に儒教界の独立請願運動に直 面して行われた総督府の懐柔策を考察する。
第一節 朝鮮の儒教と儒林
朝鮮で、「性理学」と呼ばれる朱子学=新儒教が成立したのは一六世紀頃といわれている。朝 鮮の儒教は、朱子の議論を重視して守るため、「経学」を中心とし、『朱子家礼』を実践可能なもの にするための理念を提供する方向に展開した8。儒教理念に基づいた支配体制を目指す勢力は
「士林派」9と称された。士林派は地方で、在野の立場から、中央の特権層を批判していたが、
徐々に中央政治に進出し、四回にわたる「士禍」10によって弾圧を受けながらも、最終的には朝廷 の中心勢力になった。政治舞台の中心に登場した士林派は朱子家礼の実践を積極的にとりいれ、
自ら儒教理念の実践者であることを示した。こうして、朝鮮社会の特権階層である「両班」を含む 儒林・儒生と呼ばれた階層が中心となって、儒教に基づいた国家体制を整えた。
儒林は郷村社会の指導者として、地方における自治・文教・産業など諸分野の中心勢力であり、
中央政界にも進出して朝鮮の支配勢力としての位置を占めていた。「成均館」11・「書院」12・「郷 校」13・「書堂」14などの教育機関と「文廟」15は儒教の教育倫理機能のみならず宗教としての機能 を強化する儒教施設であった。とくに、高等教育機関である成均館では、高官の教育の場であり、
毎年春秋二回の「釈奠」には国王が執行することもあったほど重要な儀礼の場でもあった。また、
孔子などの儒聖・儒賢が祀られている文廟は、朱子家礼を実践するための場として設置され、
儒聖を崇拝する儒教儀礼が行なわれた。文廟も儒教的儀礼の場であり、儀礼を通して共同体意 識が高め、儒教の宗教的な機能を担っていた。地方の有力な名望家である儒林は、郷校・書院・
書堂などの儒教施設を通して共同体意識を高めると同時に、地方の郷村社会での影響力を維持 した。儒林はこれらの儒教施設を通して、国家官僚試験である「科挙」に備えた教育と、文廟での 儀礼による民衆の教化活動を担っていた。地方儒林は地域ごとに学派を組織し、官僚を再生産 して中央に供給することで発言力と地位を高めていた。これらの儒教施設は地方儒林の財政基 盤にもなっていた。
ところが、「壬辰・丁酉の倭乱」(文禄・慶長の役 一五九二-一五九八)や「丁卯・丙子の胡乱」
(一六二七、一六三六)など、一六世紀末から一七世紀にかけて、朝鮮社会は相次ぐ戦乱に見舞 われて混乱に陥った。この混乱状況に直面して儒教の内部から変革の動きがあらわれた。一八 世紀には「実学派」16があらわれ、朱子の解釈をめぐって学派を形成し、原理論的な議論を繰り返 していた性理学を非現実的だと批判、実用的な学問を唱えた。その実学派には「経世治用学派」、
「北学派」、「利用厚生学派」と呼ばれる学派が形成された。経世治用学派の実学者は使節として 中国に入っていた。彼らの中には中国で宣教師や書籍を通してキリスト教(=カトリック)に接して キリスト教徒に改宗した者もあり、彼らはキリスト教や西洋文物を朝鮮に紹介するパイプの役割を 担ってもいた。北学派と利用厚生学派は、北京で西洋の科学技術に触れ、「西学」を積極的にと りいれようとし、商工業を重視した社会改革を主張した。最初は少数派であった実学派は、キリスト 教とのかかわりもあって圧迫されたが、改革を目指す少壮派の儒林によって受け継がれていた。
体制維持の側面では有効に機能した儒教の限界が露呈されたのは、外からの圧力と危機に直 面してからのことであった。外圧への抵抗の中心勢力は、忠孝を強調していた儒林勢力であった。
彼らは外国からの侵略があったときには「義兵」を組織して抵抗してきた経験をもっていた。一八 七六年の開国から一九〇五年の保護条約を経て併合に至るまで、儒林は外国の勢力に抵抗する 義兵運動、抗疏などの運動を主導した中心勢力であった。併合によって国が亡びると、義兵を起 こすか(起義)、亡命するか(去而守之)、自決するか(致命)の選択によって、儒林としての節義を 守ろうとした17。とくに、地方儒林が主導した義兵運動は、一九〇七年の軍隊解散後は、訓練され た兵士の加入によってさらに組織的に展開された。しかし、統監府は一九〇九年九月に「南韓暴 徒大討伐作戦」を行ない、そして総督府も一九一一年秋に憲兵警察と朝鮮駐屯軍合同による「義 兵掃討作戦」を展開したため、朝鮮国内の義兵運動は次第に退潮していった。保護期から併合