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絹織物に対する住民の意識と生産者の取り組み

ドキュメント内 Microsoft Word 実習報告書 (ページ 189-199)

近藤 奏絵 1. はじめに

近年、後継者不足や需要の低下、消費者の嗜好の変化に伴い、伝統産業が低迷してい る。伝統産業の一つである、絹織物業についても、農林水産省生産局特産振興課の「養 蚕に関する参考統計」と「蚕糸

さ ん し

業需給・価格動向調査」によると、絹織物を支える養蚕

農家戸数は2000年3280戸から2005年には1591戸、繭

まゆ

生産数量も1244トンから626 トンと減少している。その結果、絹織物の工場が廃業に追い込まれたり、他の会社によ る合併や吸収が行われたりしている。

城端も古くから絹織物の産地であったが、やはり、最近は衰退の傾向にある。しかし、

現代の趣向に合わせて、絹を使った製品を製造することで絹織物の伝統を守っていくと いう試みが行われている。この報告では、聞き取りを行った絹織物に携わる人々と絹織 物の町であった城端の一般住民を対象に、絹織物についての認識を記述し、両者を比較 し、現代の城端と絹織物の関わりを明らかにしてみたい。

2. 絹織物の概要

この報告書の冒頭でも触れられているように、県南西部に位置する城端は、善徳寺の 門前町として、また近隣の産物が集まる市場町として栄えてきた。城端で絹織物がはじ まったのは、戦国時代末期と伝えられている(『城端起源伝記』に拠る)。城端は、絹の 原料となる繭や生糸の産地であった五箇山と隣接しており、絹織物の産地としての環境 は整っていた。

しかし、城端だけではなく日本全国で事情は同じであるが、現在、使われている絹は 輸入に頼っている。織物工場は平成の大合併以来、吉村絹織と松井機織場の2軒が続け ている。

2-1. 絹織物の歴史

城端の絹織物は、今から約430年前、天正5年(1577年)畑氏によってはじめられ たと伝えられている(『城端絹起源伝記』)。その後、当時、城端地域を治めた加賀藩前

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田氏により保護され発展してきた。周囲から移り住む人が増え、町もにぎわいを見せて いった。元禄6年(1693年)、城端の人口やそこに住む人々の職業などを記した「元禄

げんろく

品 々 帳

しなじなちょう

」には、総戸数689戸のうち375戸が絹織物関係する職業であったと残されて いる。人口の半数以上が絹織物に関わっていたことになり、当時の盛んであった様子が 分かる。城端で作られた絹織物は、加賀藩の特産物として、京都の問屋で取引されてい た。京都へ送られた後、多くは加工され、産物が多く集まる江戸へ送られた。このよう に、上方だけではなく、江戸へも広がっていき、絹織物業は城端の経済を支えていた。

2-2. 絹の現状と国内生産との比較

下の表1からわかるように、現在の日本では、絹の原料である繭は群馬県を中心に生 産されている。群馬県の生産量は全国の半分近くを占め、福島県、埼玉県と続いている。

しかし、群馬県を中心に生産している繭は、全国の絹の需要の1割にとどまっている。

その他の9割は外国からの輸入に頼っている。最大の輸入国は中国で、ブラジル、ベト ナムなどからも輸入している。

全体の9割を輸入に頼っているのは、国内の養蚕家

よ う さ ん か

が減少したためである。また、国 内生産の場合、様々な安全点検や審査が必要で、手間や時間がかかる。一方、輸入され た絹は、そのような点検や審査を通過してから入ってくるので、すぐに使うことが出来 る。調査では、コストの面でも、中国産の繭は安価で手に入れやすいという話を生産者 から聞いた。自家生産でやっていきたいが、多くの労力と時間がかかるのだと言う。

表1.  全国の繭の生産量と絹織物の生産量

全国(t) 625 全国(t) 3,026

群馬県 278 京都府 1,729

福島県 75 福井県 184 埼玉県 54 新潟県 182

全農2005年全農販売繭数量実績、農畜産業振興機構2005年全国絹織物産地における 生糸玉糸消費状況

(「大日本蚕糸会」より作成  http://www.silk.or.jp/kaiko/kaiko_okurimono.html)

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図1. 国別上位3か国の絹織物輸入数量の推移

(「(社)日本生糸問屋協会」より作成

http://homepage1.nifty.com/nittonkyo/orimonoyunyuukuni8.htm)

2-3. 絹織物に関する活動

城端の絹織物に目を向けてみよう。毎年の春と秋に、城端の中心部に位置する水月寺

すいげつでら

で天神講

てんじんこう

という祭りが行われている。水月寺は絹業繁栄の神として崇敬されている。近 年、繊維産業の中心が化合繊維やニットに変化していることもあり、現在は城端近隣の 繊維に関わる人々が中心に守っている。  また、この水月寺は、菅原道真公を祀ること から、水月庵天満宮とも呼ばれている。菅原道真は文章博士であったことに由来し、天 神講に合わせ、小学生による書の奉納も行われている。これには、城端小学校の児童が 参加し、選ばれた児童に対して、水月寺本堂で表彰式が行われる。この大会は大正4年 から続いており、昨年、10月に行われた書の奉納は100回を超える。

この競書大会について、小学5年生4人と3年生1 人の女子に話を聞いた。彼女た ちは、「小学1年生から6年生まで全校生徒が学年ごとに異なる題を書いて、その中で 字の上手な人が選ばれ祭りに参加する。出展できなかった人でも、祭りには参加できる よ」と言い、「城端の小学生はみんな(天神講の祭り)知っているよ」と話していた。

この水月寺の天神講は、城端で絹織物を始めて以降、絹業を生業とする人々が多く参詣し、

現在も毎年行われている。

3. 住民の絹織物についての語り

前述のように、現在の日本では絹の原材料となる繭は、多くは中国やブラジルといっ た外国からの輸入に頼っている。また、絹織物の生産量も減少している。城端でも、合

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成繊維やその他の新素材の発展により、かつての工場は新しい繊維会社に合併されたり、

廃業に追い込まれたりしている。

3-1. 住民の認識

住民への聞き取りを行うと、かつて城端では絹織物が盛んであったことは知っている が、絹織物業に直接に関わったことのある人はほとんどいなかった。城端に60年近く 住んでいるが、絹織物に関わったことがない70代の女性は、「城端と言えば絹織物で本 当に盛んだった。いくつも工場があって多くの人が働いていたね」と話す。60 代以上 の住民は城端に絹織物の工場がいくつもあり、盛んだった当時の様子を知っている人が 多い。70代の男性は絹織物の衰退について、「現代は着物を着ず、洋服を着ているから」

と言い、「昔は上新田町にはいくつもの工場があって、盛んだった」と話す。また 70 代の女性は、「昔は絹織物の工場が沢山あった。今は着物をめったに着ないね」、「絹織 物は盛んだったと聞いているが、私の祖母の代の頃が一番栄えていたと聞かされた」と 言う。年配の住民たちには、昔の城端は絹織物が盛んであったと当時のことを話した後 に、時代の変化で和服を着る機会がなくなってきたので絹織物産業が衰退したと話す人 が多い。

70代の女性Aさんは、直接に絹織物と関わった人である。Aさんは、中学卒業後、

絹織物工場で働いていた。A さんによれば、「工場では娘から嫁の年代の人が多く働い ていた。中には城端に住んでいる人だけではなく、周辺の百姓の娘から中年まで幅広く 雇っていた。30人から50人の従業員の工場もあれば、多いところでは100人近くの人 が働いていた工場もあった」と言う。またAさんは、「城端中心が特に栄えていたけれ ど、町外れに行っても機織りの音が聞こえていた」と言い、「40年以上前には十数軒の 絹織工場があったのだけどね」と話していた。また、「子どもの頃、夏用や冬用の着物 を持っていて冠婚葬祭や祭りの時に着ていた」と言う。しかし、「今も着物を持ってい るが、ほとんど着ていない」、「洋服の方が楽だから」と話す。

別の70代の女性Bさんも絹織物工場で働いていた経験を持つ。Bさんは昭和34年 から定年までの30年以上を女工として働いていた。「朝6時から夜10時まで朝と夜の 二交代制、週替わりの仕事だった」、「娘時代から結婚後の期間働いていたそうで、1度 辞めたとしても、再度復帰できるほど、仕事が十分にあった」と話す。Bさんが勤めて いた工場では、中学卒業から60代までの70人から80人の女工が働いていたと言う。

  一方、若い世代の住民は、60 代以上の人たちのように、かつて絹織物業が盛んだ った時代は直接には知らない。40 代の住民に、機織り体験や絹の関連商品の販売して いる織館という施設に行ったことがあるかと尋ねると、40 代女性は「城端の絹織物は 知っているが、直接は関わらないよ。お客さんや親戚が来て行くところがないと言う時 に連れて行く程度」、「私は入ったことはないけど、子どもが機織りの体験をしたことが あるくらい」と言う。また、もう一人の40代女性は、「この辺りの地元のお母さん方は 直接(絹織物に)関わることはめったにないと思うよ。織館に勤めるか、工場か、どこ

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