絵の表現とは人間にとって一体何であろうか。
人間の内的世界にあるものが絵に表現されると、それは客観的で具体 的に存在するものとして、見る人になんらかの意味作用を持つ。
ここに「表現されたもの」を:介した、記号現象としてのコミュこケー ションが成立する。絵がこうした伝達機能を持っていることからr言語
(ランガージュ)としての絵画』という言われかたもよくされる。つまり、絵 の表現をコミュニケーションの手段と考える立場がそこにあるが、はた
してそうした絵の伝達機能とはどのようなものであろうか。
絵の表現は、すべてが最初から伝達を目的として、意識的にまた意図 的に生み出されてくるものではない。また、どのようなものでも表現さ れたものは、その意味作用において伝達の機能を持つのである。
本章では、こうした「絵のコミュこケーション」を、絵とはどういう ものなのか、それを描く人間の問題と、また絵を見る人間の問題とに分 けて捉え、両者を結ぶものが何なのかを考える=わけである。
そこでまず、絵を描く人間にとって、絵に表現するということが、ど ういうことなのかを考え、ついで表現された絵を見る人について、ヤコ ブソンの情報伝達のモデルを引用しながら、その「伝達のしくみ」につ いて学び、「絵の伝達性」というものが、いわゆる「コード」に依存し たものなのか、それともコードの制約が弱く、見る側の主体的な推論に ゆだねらる、 「コンテクスト」に依存したものなのか、その特徴を明ら かにしていきたいと思う。
こうした中から、 「絵」が形象とその全体的関係性において、表面的
な見うる「現前の意妹」と、そこに共示される「非在の意味」とをも つ、二重の意味構造物としてとらえられるのである。
マランはこのことをr絵画の記号学」で、絵がr明示』するものと、
それがr含意』するものとに分けて考え、プーサンやシャンパーニュの 作品を取り上げながら、そのタブローを「形象的テクスト」として読解
し、「非在」の意味であるr含意』を見事に解き明かしてくれる。
こうした事例をみながら、「絵のコミュニケーション」とは、絵が
「明示/表示」するものを「解読」し、その「含意/共示]を「解釈」
する、二重の意味作用によって支えられていることが明らかになるので
ある。
以上のような過程をたどりながら、この章では、人間が絵で表現する ことの意味や意義をおさえ、またそれがどのようにコミュニケーション されるのかといった問題を、「絵」がもつその意味作用から解明してい
くのがねらいである。
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1 絵の表現とは何か
r絵画は言語であるといういい方は、あまりにも長い間都合のいい喩 えとして用いられてきた。相互間にコミュニケーションをかわすため の、そしておそらくは共に存在するための、人間の憎憎にかかわるあら ゆる手段は言語と名づけられていた。』1とムーナンが述べるように、
絵の伝達機能が言語のそれにたとえられて理解されることが多かった。
つまり、絵の表現の機能と目的も、意識的で意図的な伝達のための手 段であるとする考え方がそこにある。しかしこの見解は表現の結果がも たらす記号現象だけに着目したものものなのである。
r絵画がその出発点においては、コミュニケーションの手段ではなく て表出の手段である』ということを見逃してはならない。
コミュニケーションは表出に先立って、表現の目的としてあるもので はなく、まず自己の表出があり、その外示されたものを通して、それを 見た人が「表出されたもの」の意味作用から、任意の解釈においてコミ
ュニケーションが成り立っていると言えるのである。
ともすると、表出とその結果がもたらす伝達性が、それを生みだす動 機までをも包みこみ、同一視されやすいのである。
ムーナンがr絵画の第一の深奥の目的は、コミュこケーションではな くて、自己の純粋な表出』であると語るまでもなく、絵は本源的に自己 の表出それ自体としてまず存在しているのである。つまり表現とは自己 を対象化し、混沌とした自己の内的世界を、外的秩序の世界へと表出す ることにより、自己を具体化し客観化することなのである。
こうした表現の機能を、森田は言語表現を例にしながらll話せるこ と、聞けること 一その人間形成における意味を考える一』2と題して
次のように語っている。
rいったい人間が話すということはどういうことなのか、人が話すと き何が起こっているのかが問われなくてはならない。
いうまでもないが、話すということによって人間は自分の思いや考え
(つまり思想)や対象について自分がだいているイメージ(表象)に表 現を与えるのである。話すことによって、この表現がこれを聞いている 他者に対して与えられるということだけではなく、同時に自分自身に対 しても、話すことによって初めて自分の考えや表象が明確になるのであ
る。
書くことによっても、この後半のことはおこるが、人前で話すことに よってはじめて、自分自身にも明確になった考えや表象を他者と分かつ ことができるようになる。その意味で人間は話すことによって、そのつ ど一つの共同性を生み出すのである。
また人間は話すということによって、自分だけの狭い限られた体験の 世界から解放される。話すことによってそうしなかった場合には隠され たままであり、自分でも予想しなかったであろう思想や経験を自分でも 発見することになる。
思想にしても経験にしても、それは言い表わされることによってはじ めて形をもち、また明瞭さを得るのである。話すということは、何かす でに明らかな形があらかじめ存在していて、これを言い表すというので はなくて、形なきもの、言い表しがたいものに明確な形を与えようとす る努力なのである。この意味で、人問のことばには創造的な力がつけ加 わっている。』
絵の表現においても、その表現:方法や形式は違っていても同様のこと が言える。 森田が述べるような過程において、絵の表現も人間の混沌
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とした内的世界を探究し、形象や色によって構成される絵の形式によっ て明確化され、客観化されることにおいて、作者は自己を把握するので
ある。
そしてこのことをピカソは、「さぐりながら描き、描きながらさぐ る」と語り、表現しようとする自己の内的世界を、さぐりながら描いて 明らかにし、描きながら自分自身の世界をたしかめていく、表現の過程 を見事に言いきったのである。
表現とはこうした自己の表出として、客観的に明確な形が与えられ、
さらにそれが伝達の手段となって、絵を見る人との問に一つの共同性を 生み出す、コミュこケーションとして存在しているのである。
また同時に人間は、この表出を動機づけ意識的、意図的な表出によっ て、最初からコミュニケーションを目的とした、自己を他者に「語る」
表現ができることも事実である。
この意味では絵の表現もコミュニケーションと、表出との二つの機能 を、ちゃんと両立させて兼ねもっていると言えるのである。
しかしこの場合でも、全て相手に理解してもらおうと表現するより も、まず自分自身が納得するために表すのであって、自己表出のなかで 自分の実体が探究され、自分の考えや感じを確認しながら、自らをとら えていこうとする原理には何ら変りはないのである。
これまで見てきたように、表現の本質的な動機は人間の主観的生命の
「表出」にあり、それが具体的に表現されたものの意味作用において、
作者の内的世界を、他者に語るものである「伝達性」を持つことができ るのであると理解されよう。
2 絵の記号 一有縁的記号としての「象徴」一
先に、表現が人間の感じていることや考えていることなど、混沌とし ている主観的世界から表出されたものであり、表現されたものは具体的 で客観的なものとして存在していることを見てきた。
絵として表現されたものは「記号表現」として、絵の作者の主観的世 界にある意味されているものは「記号内容」として、両者が象徴機能に
よって結びついている時、それはまさしく「記号」なのである。
そこで、絵の表現による「絵の記号」ということを措定しようとする とき、それはどのように考えることができるであろうか。そこでまず、
絵で表現したものを記号の分類と、その体系全体に位置づけてみること から始めてみよう。
ソシュールの二分法よる記号分類からすれば、絵はその中に描かれた 個々の形象が、描かれる対象の形や色の類似性において、右翼的な記号
としての「象徴(シンボル)」に分類されるものである。
一:方、パースの記号論からすれば「類像(イコン)」にあたるもので ある。しかし、パースが上記の「象徴(シンボル)」に異る意味を与え ていることは、前章の「記号の分類」でみてきた通りである。
用語はいずれをとっても、ここで共通しているのは、記号内容と記号 表現との結びつきの関係が、:有縁的(心血的)であるという点である。
しかし、ここで両方の用語が錯綜して混乱してもいけない。
これからここではソシュールの記号学やピアジェの発達的記号観に立 った「記号の分類」と「用語使用」をするこにしたい。
「象徴』として捉えられる多くの記号の中でも、「絵で表すもの」は 小さな子どもたちにとり重要な役割を果たしている。