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終わりに

ドキュメント内 金沢医科大学報第116号 (ページ 57-60)

留学記が雑多な文章の集まりに なったことをお許しください。最後 になりましたが、今回の留学をお許 しいただき、また限りないお力添え をいただきました竹越襄先生ならび に循環器内科学教室の皆様方に改 めてお礼申し上げます。また小田島 理事長をはじめ本学内および関連 施設の皆様方、さらには日米のロ ータリー財団関係者の方々に心か ら感謝申し上げます。アメリカで生 活できたことは、不惑を超えた私に とりまして極めて貴重な体験であり ました。留学の希望をお持ちの皆 様、年齢を理由に躊躇う必要はあ りません。新しい世界を経験できる ことの素晴らしさを強調し、私の留 学報告を終わらせていただきます。

研究成果

Kajinami K, Brousseau ME, Ordovas JM, Schaefer EJ. CYP3A4 genotype and plasma lipoprotein levels before and after treatment with atorvastatin in primary hypercholesterolemia. Am J Cardiol (in press)

Kajinami K, Brousseau ME, Nartsupha C, Ordovas JM, Schaefer EJ. ATP binding cassette transporter G5 and G8 genotypes and plasma lipoprotein levels before and after treatment with atorvas-tatin. (in submission)

写真3:   ボストン交響楽団の演奏会。アパートから徒歩2分の距離で、しかもカジュアルな服装で クラシックが気軽に楽しめたことはリフレッシュには最適でした。残念ながら小澤征爾はウイー ンへ去った後でしたが。

平成 1 1 年7月の国会 決議で、君が代、日の 丸問題が本来あるべき 姿に落ち着いてから4 年が過ぎた。

本学卒業の諸君も多 くは家庭を持ち子供さ んもおられるだろう。

子育てのお役に立てば と思い、現在金沢市教 育委員会の委員長であ る立場もあり、私の日 の丸にまつわる経験を 少々述べてみたい。

金沢大学泌尿器科に入局の当時、前立腺肥大症に対する 治療は恥骨上式または後式のいわゆるopen surgeryであっ た。アメリカの文献には経尿道的電気切除術(T U R - P、こ れはo p e nでなく、内視鏡を使うendoscopic surgery)の報告 がしばしば見られるようになった。俄然好奇心がわき、是 非見てみたいと思った。若造で金はなし、いろいろ考えた 末、アメリカ航路(当時は医師を乗せないと出航不可)の 船医として1航海することにした。給料も出る。しかも大学 院学生にとってはかなりの高額。

1958年夏、川崎汽船の貨客船は神戸を出港、サンフラン シスコに寄り、パナマ運河に入った。翌朝であったか、向 こうから日の丸を掲げた貨物船がやって来た。太平洋へ出 て日本ヘ帰るのだ。こちらの船員、あちらの船員、お互い に手を振りながらすれ違った。相手船の船尾の日の丸が見 えなくなった時、私の頬には思わず涙がこぼれ落ちたので ある。異国の地で去りゆく日の丸、それに涙する私。その 予想もしなかった客観的事実に、私はやはり日本人なのだ と再認識した。目的のT U R はN Y停泊中、市民病院ヘ行っ たが、時間の関係で、機器のみ実物を手にはしたが、手術 見学とまではいかなかった。

東京ドームができた。どんなところか見たいと出かけた。

セ・リーグの日は満員。幸い今日は、西武−日本ハムでパ・

リーグ、丁度試合開始に間に合った。君が代が流れ、バッ クスクリーンに日の丸が映し出される。私は起立して歌っ た。清原(現 巨人)もベンチ前で起立して唱和している。

スタンドを見渡すと五分の入り、びっくりしたのは、立っ ているのはその2割、8割は坐ったまま、観客の国旗国歌に 対する意識は低い。ショックが収まると、これはわが国に 根の深い大問題が起きつつあると感じた。

次は長野オリンピック。モーグルでS嬢が優勝した。だが 表彰式には呆れた。君が代と共に日の丸が挙がっているの に帽子も取らず、国歌には口をパクパク、テレビの前であ

れよあれよと言う間もあらばこそ、金メダルは帽子のまま の首にかけられた。銀、銅の選手は脱帽して受けていた。

「帽子を取らなかったのは髪が乱れていたから」が彼女の弁。

翌日の某P T A の会で非難の意見が多く出た時、当時の森文 部大臣が、「親の世代にも責任があるでしょう」と言ったと いう。コーチらもスポーツマンである前に日本人であって ほしかった。コーチや彼女を教えた小、中学校の先生、親 をはじめ家庭教育はいかがだったのだろうか?

次は国技館、先年、魁皇が優勝した時のこと。千秋楽、

優勝力士表彰の前、国歌斉唱が行われた。魁皇の顔がテレ ビ画面にクローズアップされる。彼は歌っているのか? 口 は全く動いていない。これでは横綱になれまい、欠けてい る。その後、大切なところで負け、未だに横綱になれてい ないばかりか、平成15年秋場所の負け越しで次は角番。

海外からの一般人、留学生は口々に「日本人は国旗を大 切にしていない。どうして?」と言う。海外ヘ出て日本を みれば、なるほどそうだと思う。肝腎の我が国では、広島、

国立(クニタチ)で卒業式での国旗掲揚を巡り校長が窮地 に立たされ、やっと冒頭の法律ができたのである。

次代を担う児童生徒が、日本人として世界に通ずるシッ カリしたアイデンティティーを持った社会人になれるよう、

周囲の大人たちは心せねばなるまい。本学の本部棟前には 開学以来、日の丸が掲揚されている。すがすがしいものだ。

と同時に自分のしている教育、診療、研究は日本では? 世 界では?と自問自答する機会を与えてくれたものである。

今、アテネオリンピックに向け、長嶋J A Nが胸のすくよ うな試合をしている。ユニホームの背番号の上にも日の丸、

長嶋の希望のデザインであるという。彼は野球を通じて次 代の青少年に大切なメッセージ「for the flag」を発信してい るのだと思いたい。

(写真はフォトセンター中谷渉室長の撮影による。記して感謝す る。)

時々の日の丸

名誉教授・泌尿器科学 津 川 龍 三

随 想

本部棟の国旗。右に立つのは大学の校旗   平成15年9月13日創立30周年記念式典ステージ

私はめったに夢を見ない。布団に潜り込んだ途端、パタ ンキューで、アッという間に眠り込んでしまう。たまに夢 を見ても、起きた時にはすっかり忘れていて、思い出すこ とができないのである。ところが先日の夢は、目が覚めた 後も比較的ハッキリと覚えていた。それはこういう夢であ った。

或る所で、3人の演者による講演会があって、私は3人目 の演者の司会をすることになっていた。第一の演者の講演 会場を覗いたところ、幼稚園の教室のようなところで、黒 板に向かって、数人の人が、小さな腰掛けに窮屈そうに坐 って、演者が出てくるのを待っていた。いくら小さな部屋で も、たった数人の聴衆ではガランとしている。いやに少ない なと私は思った。第二の演者の講演会場も、やはり同じよ うな状態だった。第三の演者の講演会場は、少し離れたと ころにあるとみえて、私は、大勢の人達に混じって歩いてい た。すると、少し歩いたところにうどん屋があって、2〜3 人の人達が、うどんを立ったまま食べている。立ち食いのう どん屋だなと思った。うどんの好きな私は、早速その人達と 同じように、うどんを買って、立ったまますすった。

うどんをすすり終った時、講演時間まで残り僅かしかな いことに気付き、少しあわてたが、同時に私は、演者がど ういう人か知らないでいることに気がついた。演者を紹介 しなければならない司会者ともあるものが、何ということ だ。いつもの、何とかなるというのんびりした性格が、ま たここでも禍したなと思いながら、私は、近くの人に、「今 度の演者はどういう人ですか」と聞いた。すると、その人 は、「中学校の理科の先生ですよ」と言った。「へー、中学 校の先生がねー」と、私はびっくりして言った。そして、そ のまま会場に入った。

驚いたことに、会場は超満員で、部屋の周囲の壁沿いに も、ギッシリ人が立っているだけではなく、演壇にも、生 真面目な顔をした人達が、黒板を背にして、真っすぐ前を 向き、気をつけの姿勢をして、何列にも重なって立ってい るのである。丁度ベルリンフィルハーモニー交響楽団の音 楽堂のようだなと思った。カラヤンの指揮するベルリンフ ィルハーモニー交響楽団の演奏会をテレビで見たが、楽団 の前だけではなく、横にも後ろにも聴衆が坐っていた。そ れと同じように、黒板を使えないほど、演者の周囲を聴衆 が取り囲んでいたのである。私は、緊張した気持になって、

その人垣をもぐりぬけ、演壇の机の前に立ってしゃべりだ した。 「本日講演してくださる方は、中学校の理科の先生 です。中学校の先生が、こんなに素晴らしい世界的研究を されたということは、まさに驚くべきことであります」。こ こまで言ったとき、私は目が覚めた。何だ夢だったのか。そ して、夢の内容を思い出して、思わず笑った。しかし、頭 は未だもうろうとしていた。

そのもうろうとした頭に、二週間ほど前、4年生のA子さ んに頼まれ、能登石崎町の奉燈祭を見に行ったときの情景 が浮かんだ。1 9 9 3年(平成5年)8月のことである。石崎町 は、七尾の町と和倉温泉との間にある小さな魚村であって、

毎年8月の第一土曜日に奉燈祭をすることになっている。か つて私が金沢大学に奉職していたころ、金沢大学の事務官

で石崎町出身のTさんに、一泊で招待されて見に行ったこと がある。驚いたことに、お祭だというので、石崎町のどの家 も開け放しであって家の奥の奥まで道路からまる見えであ る。そこで町の人達が楽しそうに飲んでいた。石崎町の人 達は、かつては年に一度のこのお祭に、一年中せっせと働 いてためた金を使い果したという。それは祭の見物に来た人 達だれかれを問わず家に入れて、飲み食いのもてなしをした からで、今でもその名残りがあるとTさんが話していた。私 もTさんの家で御馳走になり、ビールを浴びる程飲ませてい ただいた。それから、Tさんの顔で、町の広場に面した家の 2階に入れていただき、奉灯が広場にもどってくるのを待っ ていた。夜中の1時に近い頃、奉灯は、「イヤサカサッサー」

という勇ましいかけ声とともに、一つまた一つと広場に集ま り、互いにぶつかりあい、なかには隣の奉燈に飛び移り喧嘩 を始める者など、半裸の荒くれ男達のすさまじさを見せてく れた。色白で丸顔のTさんも奉燈を担いでいたが、私を見て にっこり笑った。石崎町の奉燈祭は、奉燈の立派さもさる ことながら、海の男達の心意気を見せた男の祭である。そ の迫力は、確かに一見の価値のある祭であった。

医科大4年生のA子さんにその話をしたら、ぜひ連れて行 ってくれとせがまれ、それなら家内にも見せたいと思い、家 内も連れて行くことにした。A子さんは一学年上の兄さんの T君(5年生)を誘い、T君は同級生のM子さんを誘ったの で、総勢5人になった。そこで、私の車に家内が乗り、A子 さんの車に学生達が乗って、能登海浜道路を石崎町に走っ た。町の入口には、歓迎の横断幕が張られ、屋台が一杯並 んでお祭り気分を盛り上げていた。しかし、奉灯が動き出 すまでにはまだ少し時間があったので、私達は、港の岸の 石畳に座って、海からの快い夜風にあたりながら、8時から 打ち上げられる花火を待った。花火はたった1 5分間位であ った。祭りの開始を告げる花火であろう。それから例の広 場に行った。広場には6台の奉燈が並んでいた。やがて奉灯 は、屈強な若者達に担がれて、「イヤサカサッサー」という 掛け声とともに、せまい広場の空間を回っては、次々と西 側の辻を街の中に消えていった。奉燈が広場を回る度に、

広場の周囲の群衆が、ワーッと後ずさりする。家内とT君と M子さんは、怖がって、群衆の後のベンチに上がり、人々 の頭越しに見ていたが、私とA子さんとは、群衆の前に出 ていって、群衆とともに逃げまどった。

もうろうとした私の頭に浮かんだのは、その時の情景で あった。しかし、その情景も記憶が夢のようにぼやけてい た。私は、これも夢ではなかろうかと思った。夢と現実と が変に交錯して、何が夢で、何が現実かさえ分からなくな っていた。一体、夢と現実とどこが違うのだ。何れも、頭 に描いている物語である。何れも、画面の周囲がぼやけて、

あいまいな部分があるではないか。確かなことは、現在、自 分がぼんやりと布団に坐っているということだけであると 思った。しかし、それも夢かもしれない。人生は、このよ うに、夢のように過ぎ去っていくのであろうか。そんなこ とを考えていると、何か詫しい思いが、フッと心をかすめ るのであった。(これは、1 9 9 3 年8月 1 9 日執筆の文章を、

2003年10月の現在少し手直ししたものである。未発表)

夢 と 現 実

名誉教授・生化学Ⅰ 岡 田 利 彦

随 想

ドキュメント内 金沢医科大学報第116号 (ページ 57-60)

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