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新約聖書におけるパウロの贖罪論の位置

前章においてわれわれは、パウロの救済論の中核に、罪を前提条件としてそこからの救いを帰 結する思考形式が潜んでいることを確認した。本章においては、その思考形式が新約聖書におい て決して唯一の救済論ではないことを明らかにすることとしたい。必ずしも「罪の赦し」「罪か らの救い」という枠組みに入らない救済論を6-1で例として挙げる。またさらに、贖罪論が様々 な解釈の一つに過ぎないことの原理を6-2で掘り下げる。

6-1 罪を前提条件としない救済論

われわれは以下においていくつかの例を挙げるが、これをもって「罪の赦し」に代替する救済 論の定義を主張するというわけではない。パウロの図式主義的思考(もちろんパウロ以後にそれ は増幅していくのだが)のみが救済論理解ではない、ということを示すのが目的である。

ゲルハルト・フリードリヒは1982年に公にした『新約聖書におけるイエスの死の宣教』390 という著書において、イエスの死を本来どう解釈すべきかを新約聖書に探るという意欲的な課題 に取り組んだ。フリードリヒの著作は、イエスの死を「贖罪死」と理解しているのは原始キリス ト教の使信であるとし、新約聖書自体ではむしろ「贖罪」ではない理解が妥当であることを証明 する、というものである。彼はイエスの死の解釈についていくつかの例を挙げ、それを詳細に検 討したが391、結論としては原始キリスト教によるイエスの死の「贖罪」的理解は正しくない、と いうものであった。以下彼の結論部分の前段を記す。

新約聖書は、イエスの死の意味を当時の人間に解らせるために、様々な比較や比喩を 用いている。既に示されたように、これらの比喩や比較は、かつてのような直接性をも っては、もはや今日の人間に働きかけることができなくなっている。それどころか、一 部には誤った観念を持たせるものさえあり、そうなれば聖書の使信は曇らされてしまう かもしれない(202 頁、原著 S.176)。

そして彼の提案は、イエスの死を「不安と侮蔑、敗北と苦痛に満ちた死を特徴とするイエスを、

死の世界から生命の王国への先導者(Anführer aus der Welt des Todes in das Reich des Lebens)」

(同頁)と解釈する、というものであった。しかし彼のこのような「死から生への導き」という イエスの死の解釈は、その後必ずしも贖罪死に取って代わるものとなるには至っていない。彼の 堅実な探求により、贖罪死を含めたいくつかのイエスの死理解を、もはや無条件に受け入れるこ とはできないことは確認できたと言ってよいのだが、同時に、新たなイエスの死解釈を一つの定

390 G. Friedrich, Die Verkündigung des Todes Jesu im Neuen Testament, Neukirchen-Vluyn, 1982.邦 訳は『イエスの死 新約聖書におけるその宣教の限界と可能性』佐藤研訳、日本基督教団出版局、1987 年

(佐藤は著者名をフリートリッヒと訳している)。

391 フリードリヒは次のような章立てをしている。佐藤訳による章の見出しは、「犠牲の小羊イエス」「契約 の犠牲」「ローマ 3.23-26」「罪祭」「『我らのため』のイエスの死」「イエスの犠牲死」「請け出し」「密儀 宗教における死との比較」「罪責証書からの解放」「和解」「十字架」「イエスの死を正しく宣べ伝えること の困難性」「救いの先導者イエス」。

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式によって表現することの困難さをわれわれは認めざるを得ない。われわれも救済表現について、

贖罪に変わる新たな表現を提示することを本論文で目的としているわけではない。われわれは贖 罪論に潜む問題性を自覚するとともに、さらに広やかなダイナミックな救済理解への素地を提供 することをもって満足すべきと本論文では考えている。

また、以下の救済例それぞれにおいて「罪」が全く無関係であると断じることはできないであ ろう。それぞれにおいて「罪」を関連付けることは可能であり、現にそのような形で新約聖書に 残っていることがあることもわれわれは以下に見ていくこととなるであろう。しかし、問題は罪 を前提としたそこからの救い、という図式を持ち出さなくては成り立たないような救済論ではな い救済論が存在する、ということである。

そしてそのような救済論の根拠となる新約聖書における言説は、イエス自身に遡るのかどうか は必ずしも第一義に重要なことがらではない。以下に検討する例において歴史的イエスによる可 能性が大きい言説は決して尐なくはないが、尐なくとも新約聖書時代において「罪の赦し」スケ ーマに当てはまらない救済思想が存在する、ということをわれわれは重視したい。それはパウロ 書簡にも存在するので、ここで問題となるのは、イエス対パウロという比較では必ずしもない。

しかし以下の救済表現の例を読んだ後で、「そもそも救済論とは何なのか」という問いが生じ てくるであろう。これについては6-2で考察する。それによってパウロの贖罪論の位置付けが より明瞭になるであろう。

6-1-1 迷子の発見

幼子にとって、親を見失い頼るべき誰をも見出すことができないという状況は、自らの存在を 脅かされる辛い経験であろう。そして自らを探してくれる存在がついに自分を発見してくれて、

それを大いに喜んでくれるという経験は、幼子にとって「救い」という表現でも足りないほどの 存在回復であろう。一方で迷子を捜す側に視点を移すならば、何を置いても捜さざるを得ない心 境と、見つけるまでの八方手を尽くす万難を排する努力、そしてついに発見した時の喜びは、そ の迷子との結びつきを基礎とした波瀾に満ちた行動である。

このような救済をイエスと関連付けた新約聖書に見られる表現によって、われわれは神と人の 間の生き生きとした救済表現を読み取ることができる。そしてわれわれが重視したいのは、その 際に迷子が罪人であるかどうかということは一切問題ではない、ということである。確かに本論 文1章でも述べたように、罪の定義次第では様々な場面を罪と関連付けることは不可能ではなく、

ここにおいても迷子自身の罪を問題にすることはでき、実際にルカ福音書においてはそのような 傾向がある。しかしそれにも関わらず、以下に見ていく「迷子の発見」の救済論においては、中 心問題は罪人の救いではなく、ましてや罪を前提条件とした救済論ではない。そしてそのような 救済表現がイエス時代およびその後の原始キリスト教時代において、存在していたことをわれわ れは再確認したい。

先ずわれわれは、100匹の羊の内の1匹が迷子になってしまい、その1匹を探すという譬え

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に注目することとする。これはマタイ福音書 18 章 12-13 節およびルカ福音書 15 章 4-5 節に並 行記事としてあるだけではなく、トマス福音書 107 にも同じ話が記されている。マタイおよびル カに並行記事があることから、いわゆる Q 資料によると考えられるが、これらの三つの福音書に おいては、同じ譬えがそれぞれ異なる文脈の中に置かれている。従って福音書記者達がそれぞれ の意図を持ってこの譬えを用いていることがわかる。そこでわれわれはこの譬えのオリジナルを 探るとともに(議論が分かれている問題ではあるが)、各福音書の意図を概観していくこととす る。

以下に各福音書の該当部分を記す。

マタイ 18 章 10 節 心して、これらの小さい者たちの一人をもさげすむことのないようにせよ。な ぜなら、私はあなたたちに言う、天にいる彼らの御使いたちは、天におられる私の父の顔を常に見 ているからである。(11 節は後代の付加であることから通常削除する)

12 あなたたちはどう思うか。もしある人に百匹の羊がいて、そのうちの一匹がさ迷い出たら、彼は 九十九匹を山に残しておき、出かけて行って、さ迷い出た一匹を探さないであろうか。13 そして、

もしそれを見いだしたとなれば、アーメン、私はあなたたちに言う、さ迷い出てしまわなかった九 十九匹よりも、むしろその一匹のゆえに、彼は喜ぶ。14 このように、これらの小さい者たちのうち の一人でも滅ぶことは、天におられるあなたたちの父の意志ではない(佐藤研訳392)。

ルカ 15 章 1 節 さて、すべての徴税人と罪人とが、彼(の言葉)を聞くために、彼に近づいて来た。

2 するとファリサイ人たちと律法学者たちとは、つぶやき出して言った、「こいつは罪人どもを受け 入れ、彼らと一緒に食事をしている」。

3 するとイエスは彼らに対して次の譬を語り、言った、4「あなたたちのうちの誰かが百匹の羊を持 っていて、そのうちの一匹を失ってしまったとしたら、九十九匹を荒野に放っておいて、失われて しまったその(一匹)が見つかるまで、それを求めて歩いて行かないだろうか。5 そして見つけた ら、喜びのあまり自分の肩の上にかつぎ、6 家の中に入るや友人たちと近隣の者たちを呼び集め、

彼らに言う、『私と一緒に喜んでくれ。失われてしまっていた私の羊を、私は見つけたのだから』。7 私はあなたたちに言う、悔い改める必要のない九十九人の義人たちよりも、悔い改める一人の罪人 のゆえに、天においてはこのように喜びがあるだろう(佐藤研訳393)。、、、

トマス 107 イエスが言った、「御国は百匹の羊を持つ羊飼のようなものである。それらの中の一匹、

最大の羊が迷い出た。その人は九十九匹を残しても、それを見つけるまで、一匹を探した。彼は苦 しみの果てに羊に言った、『私は九十九匹以上にお前を愛する』と」(荒井献訳394)。

392 『マルコによる福音書 マタイによる福音書』佐藤研訳、岩波書店による。

393 『ルカ文書』荒井献、佐藤研訳、岩波書店による。

394 『荒井献著作集 第7巻』岩波書店、2001 年、218 頁。

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