• 検索結果がありません。

本章はこの論文の中心であり、パウロにおける救済の論理を明らかにしようとするものである。

パウロの救済論に関する記述は、真筆であると現在おおかたの意見の一致を見ている7書簡(ロ マ、1 コリ、2 コリ、ガラ、1 テサ、フィリ、フィレ)の中に、様々な表現がされており、それ らの諸表現を一つの定式に集約させることが可能かということについては大いに疑問である。わ れわれがここで問題として扱うのは、パウロの救済論の全体像を探り、そこからパウロの救済論 の中心点を探るという道筋とは異なる。むしろパウロにおける特徴的な救済論の形式を浮き彫り にすることで、結果としてパウロの救済論全体をより新たな視点から見ることを可能にすること を目指している。彼のキリストと結びついたいくつかの救済表現の中には、「和解」や「新たな 創造」などの決して無視することのできない特徴的思想があるが、ここでは先ず「贖罪」に関す ることに注目することとしたい。贖罪論はキリスト教史において現在に至るまで中心的命題であ り続けているだけでなく、それをめぐる議論も2000年間絶え間なくされてきた。そしてその 贖罪論にこそ、パウロに遡る特徴的思考形式が潜んでいることをわれわれはこれから論述してい こうとしている。パウロの贖罪論の大きな意義にも関わらず、2章で見てきたダイナミックな贖 罪と比べて、見逃すことのできないパウロの枠組みがその中に混入されており、従来そのことに 気付かれなかったことが、贖罪論をめぐる諸問題を混乱させてきたからなのである。なお本論文 における「贖罪論」の定義については、1章で述べたように、罪およびそれと同義である人間の 負債性の何らかの処分という構造を持つ救済論のことを指す。

5-1 パウロの贖罪論

ここで問題にしようしているのは、パウロ書簡において、罪とそれに関連する救済についての 言説そのものである。教義から出発するのではなく、聖書学の方法論に則り、パウロそのものの 発言に着目したい。そこから見て明白なことは、パウロはキリストによる救済論を述べる場合、

人間の罪を決して無視していないということである。われわれは聖書そのものから読み取ろうと 努め、聖書後2000年の歴史において解釈されつづけてきた「贖罪論」を横に置き、パウロ書 簡そのものに当たる。そしてその際、当然のこととしてパウロ自身も歴史的背景の中に存在した 人物なので、パウロの発言が何らの歴史的制約、同時代の影響を受けずにいることなどあり得な いということも念頭におく。

5-1-1 ローマ書における「罪」

パウロの「罪」に関する発言について、ローマ書を中心に注目したときに、その罪概念の広範 囲なことは大きな特徴である。一方では具体的な行為としての罪(4.7 など)について述べてお り、他方では人を支配する勢力としてサタンの同義のように用いられている(6.6、12、14 など)。

92

一応客観的であると見てよい行為としての罪と、必ずしも誰が見ても明らかとは言えない外的存 在としての罪が同じハマルティアーという語で同じ書簡の中に用いられているということは、パ ウロに特徴的であると言える。そしてそのようなパウロの罪論全体を体系的に理解することは決 して容易ではない。

先ずパウロにおける罪とは何か、ということの説明が求められる。行為としてのハマルティア ーと存在、勢力としてのハマルティアーをパウロはどのように捉えていたのか、ということにつ いての説明が今まで多くの人により試みられてきた。そしてそれらの説明によっても必ずしも一 定の罪定義へと収斂されることはなく、今に至っている。以下パウロの罪論について、代表的な 聖書学者の説明を見てみることとする。

R. ブルトマンは、罪は律法違反であり、律法によって規定されているものであり、それ以外 ではあり得ない313、と述べ、律法と無関係な独立した罪というものは考えられないとしている。

そしてアダム以降の人間の遺伝的罪(Erbsünde)という考えを、グノーシス的思想であるとして、

パウロの考えではない、と拒否している314。しかし他方、人間を支配する罪の力の働きについて、

パウロが述べていることを、またそのような罪が人間の中に存在すること315を彼がパウロから読 み取っていることも、当然なパウロ解釈であると言えよう。一方において律法によって規定され る罪、他方において人間を支配する罪、このブルトマンの記述はローマ書の文言そのものである。

しかしそれだけではパウロの罪論を矛盾なく、あるいは包括的に説明していることにはならない。

パウロの一見理解困難な罪論をそのまま踏襲しているにすぎない。

そこでブルトマンが、パウロの二重の罪論の言説をどう整合的に解釈し、どのような包括的罪 論を構築しようとしたかをさらに見てみよう316。彼は、人類全体を、誤った志向によって導かれ ている所と捉え、コスモス(

ko,smoj

)も同様のことを指すという。彼はこれを現存在理解

(Daseinsverständnis)と称するが、これが遺伝的罪であり、人に責任を問うことができない罪 である。一方そういう人類に生まれざるを得ない人間は、具体的な違反(

para,basij

)を犯すこ

とによって、自らがそのような現存在理解そのものであることを示す。これは責任を問える罪で ある、という。ここで彼が言う遺伝的罪は「場」であり、その場に出現せざるを得ない人間が実 際に具体的罪を犯す。彼はパウロの発言には統一的でなく、明解でないところがあることを認め ながらも317、パウロの罪論を何とか包括的に説明しようと試みている。彼がこのように二重の罪 を解釈する際に、遺伝的罪つまり「力としての罪」について個々の人間に責任を問えない、とい う結論になる。しかしパウロはそうは言っていない。アダムの罪によって万人が有罪(

kata,krima

となった(ロマ 5.18)とパウロは述べ、自己分裂について述べているロマ 7 章において、悪を 行っているのは「わたし」ではなく内在する「罪」だ(17、20 節)と言う場合でも、「わたし」

に罪責がないとはパウロは決して言わない。キリストに在る者は今や有罪(

kata,krima

)ではな

313 R. Bultmann, Theologie des Neuen Testaments, 253.

314 Ibid., 251.

315 Ibid., 249.

316 Ibid., 253f.ここでブルトマンはロマ 5.13fの解釈をしている。

317 Ibid., 250, 252.

93

い(8.1)、と言うからには、内在する罪に関しても罪責があることを前提としている。パウロに おいては「力としての罪」あるいは「遺伝的罪」も「具体的行為としての罪」も全て人の罪責と 表裏一体なのである。ブルトマンの実存主義哲学的解釈はパウロの伝道目的の論理と必ずしも一 致しているとは言えない。しかしそれはむしろパウロの罪論の非統一性が原因であろう。上記の 二重の罪すべてをハマルティアーという語を用いて説明しようとしたことに無理がなかっただ ろうか。遺伝的罪や力としての罪について有責性を人に求めるのは、ブルトマンが言うように困 難である。これを罪という言葉で表現するのが適切かどうかも問われ得よう。「イエスの死と復 活」を贖罪と解釈することによる限界がここに露わになっており、パウロはその限界の中で、罪 についての非統一的な発言をせざるを得なかったのではないだろうか

この他にもブルトマンはいくつかの言説によってパウロの罪解釈を行っている(特に「誇り」

kau,chma

こそが人の罪の本質である、という主張が有名)が、ブルトマンの試みが必ずしも成

功していないのは、ブルトマンの手法が間違っていたということだけではなく、パウロそのもの に起因するのではないのかということが問題提起されてよいであろう。パウロの罪論を包括的説 得的に解釈することに、そもそも無理があるのではないか。それほどにパウロの罪論は論理の飛 躍があるのではないかという疑問を念頭におきつつ、他の聖書学者の解釈を見てみよう。

現在、ローマ書における罪を人格的力(personified power)だとする説が一応通説であると 言ってよいであろう318。そしてその説の代表者としてエルンスト・ケーゼマン(Ernst Käsemann)

が挙げられる。ケーゼマンによるパウロの罪解釈は以下のとおりである。すでに早くから指摘さ れているようにパウロはローマ書において主に卖数形の罪(

a`marti,a

)を用いている(卖数形4 6回、複数形2回)。このことにケーゼマンも言及し、「パウロの特徴である卖数形ハマルティア ーは、一貫してかつほとんどの場合実体的なものとして、罪の力(die Macht der Sünde)を意 味している」319としている。しかしケーゼマンにおいても、パウロが具体的行為としての罪をも 念頭においていることを無視はできなかった。ローマ書 5 章 12 節の「全ての人が罪を犯した

pa,ntej h[marton

(ここでは動詞

a`marta,nein

のアオリスト形が使われている)においては 具体的行為が意図されていることについて、この節では運命としての罪と具体的な罪責との相反 する内容(eine Ambivalenz)を含むことを認めている320。しかしケーゼマンは、「罪とは罪の行 為によって生じる」というまとめ方に対しては一線を画している321。力としての罪というものを 具体的行為によって規定することはしていない。ケーゼマンのパウロ解釈のキーワードの一つが

「宇宙的」(kosmisch)である。ロマ 7.14 以下の罪に関する箇所において、ケーゼマンはパウロ

318 具体的行為としての罪ではなく、パウロは力としての罪を主眼としている、ということであるが、実際 にはそう主張する研究者の間でも、その内容や立論の詳細については多種多様である。

319 An die Römer, 81.

320 Ibid., 140.

321 Ibid., 138. これもブルトマンによるパウロの罪解釈のまた別の定義である。ケーゼマンはこの言説の ように行為を重視してはいない。ここから行為を重視するブルトマン、力を重視するケーゼマンと分類さ れることがある。両者の相違をそのように卖純化できるかは大いに疑問ではあるが、そのような行為対力 の傾向が両者にあることは認められる。

関連したドキュメント