3-1 聖書外典偽典
2章で旧約聖書における贖罪論を見てきたが、ここではパウロ時代前後における贖罪論につい て具体的例を見てみる。このヘレニズム時代では、旧約聖書の贖罪論を継承しつつも、その内容 の変化も見て取れる。そしてパウロは同時代の贖罪論を用いつつも、それらのある部分を自らの 論旨に沿って強調するのだが、その前提として以下にパウロ時代のどのような言説があったかを 知ることとする。
3-1-1 シラ書
前2世紀前半にエルサレムにおいてヘブライ語で記されたであろうとされるシラ書は、前2世 紀後半に七十人訳としてギリシア語に翻訳された形で現存している175。後代に付加された部分が あるとの見方が有力であるが、パウロの時代背景を知る上で多くの材料を提供している。パウロ の贖罪論と共通する思想が多く記されており、パウロ自身は全く独自な思想を新約聖書で披瀝し たわけではなく、当時のユダヤ教思想に基づいているであろうことを裏付ける作品である。
「罪の赦し」については、洗礼者ヨハネにおけるそれ(3-3-2参照)と全く同じ使い方を されているのが見て取れる。シラ書において基本的には、「罪」は規範である律法を根拠にする もので、具体的な行為と考えられている。「主を畏れる者は彼の嘉せられるところを求め、彼を 愛する者は律法に徹する(
oi` avgapw/ntej auvto.n evmplhsqh,sontai tou/ no,mou
)」(2.16。村岡崇光訳176。ギリシア語は七十人訳。以下シラ書の訳文とギリシア語については同様)あるいは「知 恵とは、畢境、主を畏れることであり、知恵は律法の実践において極まる(
evn pa,sh| sofi,a|
poi,hsij no,mou
)」(19.20)という姿勢が本書の基本的な考えである。ヘレニズムの自由主義的風潮に接し、それを摂取しつつ、ヤハウェ信仰を中心とすることを堅持しなくてはならない時代 の中にあって、律法に則ることが主を畏れ、愛することであることから、罪を犯すことは神への 反逆であり、神との関係の断絶と捉えられた。「主に心を向けて罪を去れ(
avpo,leipe a`marti,aj
)。彼に乞い願って躓かないようにせよ」(17.25)「子よ、罪を犯したら(
h[martej
)、二度と繰り返すな。過去のことについては(許し177を)乞い求めよ」(21.1)、「罪を犯したときには改心の実じつを 示せ(
evn kairw/| a`marthma,twn dei/xon evpistrofh,n
)」(18.21b)、主は「罪を犯す許しはだれ にも与え給わなかった(ouvk e;dwken a;nesin ouvdeni. a`marta,nein
)」(15.20b)など罪への対処 は決定的な問題であった。それに関連して罪の告白への言及がある(4.26)のは洗礼者ヨハネの175 ヘブライ語版についても 68%相当のヘブライ語が現在特定されている(G. Sauer, Jesus Sirach/Ben Sira, ATD Apokryphen Bd.1, Göttingen, 2000, 23)。
176 「ベン・シラの知恵」(日本聖書学研究所編『聖書外典偽典第二巻 旧約外典Ⅱ』教文館、1977 年)所 収。
177 「罪の赦し」について、村岡は「許し」と記しているが、本論文では原則として「赦し」と訳す。
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場合(マコ 1.5、ルカ 3.6)と同様である178。また罪人と敬虔な者とは明確に対峙させられてい る(3.27、13.17179)。
このように罪は神から離反することであったので(10.12)、罪の処断、罪の赦しは神との関係 回復において根本的と考えられており、それこそが神による人間の救済の内実とされていた。「主 はあわれみあり、恵みあり、罪を許し(
avfi,hsin a`marti,aj
)、苦難のときには助けてくださる」(2.11)とあるように、罪の赦しは神の特性であり、救済そのものを示している。従って人間と しては「自分の罪について(許しを)祈り求める」(39.5)ことこそがなすべきこととなる。
シラ書においては、贖罪は救済を表すものの、具体的な罪を離れ、より抽象的な救済そのもの をはっきりと示す表現となっていない。しかしローマ書においてパウロが变述している「力とし ての罪」、「実体化した罪」という観念は、シラ書にも記されている。27 章 10 節の「獅子が獲物 を待ち伏せるように、罪は不正を行なう者(
a`marti,a evrgazome,nouj a;dika
)を待ち伏せる」がそれである。もっともこのように個別行為であることを越えて、実体化した罪描写は、シラ書に 限らず、他の七十人訳聖書にも見て取ることができる(例えばユディト記 11.11、第二マカバイ 記 12.43、知恵の書 1.4)。
以上のようにシラ書における贖罪論からわかるのは、その概念がパウロの贖罪論のそれと基本 的には同じであるということである。後代のキリスト教におけるシラ書に対する高評価(ディダ ケー1.6 など)は、その意味では必然的と言えよう。またそれは洗礼者ヨハネの贖罪論とも軌を 一にしている。つまりパウロの贖罪論は、ユダヤ教の伝統の上にあり、パウロ独自のものではな いということである。パウロは当時のユダヤ教の救済論を宣教において使用した。それは罪と死 との関係(シラ 25.24、ロマ 5.12)180においても、全ての人間は罪責ある者であること(シラ 8.5181、ロマについては本論文5章に詳述)についても言える。また終末時の審判が前提とされ ているという点においても、パウロ書簡や福音書を含む新約聖書諸文書が前2世紀以降のユダヤ 教の伝統上にあるということが確認できる(シラ 2.14、7.17 参照)。但し、パウロの救済論がユ ダヤ人社会を越えて人類全体を視野に入れたことは、パウロの独自性であり、罪論、律法論にお いてパウロの特徴が顕著なのもその普遍的救済論に因る。
3-1-2 第4エズラ書
178第一ヨハネ書 1.9「もし私たちの罪を告白するならば(
evan o`mologw/men ta.j a`marti,aj h`mwn
)、彼は真実で義しい方であるから、私たちのその罪を赦し(
avfh/| h`mi/n ta.j a`marti,aj
)、私たちをあらゆる不義から清めてくれるであろう」(大貫隆訳「ヨハネ第一の手紙」『ヨハネ文書』岩波書店、1995 年所収)
においても告白が救済と明確に関連付けられている
179 「狼と仔羊、また同じく罪人と敬虔な者とがどうして協調できようか(
ti, koinwnh,sei lu,koj avmnw/|
ou[twj a`martwlo.j pro.j euvsebh/
)」。180 シラ 25.24「罪の根元は女にあり、彼女ゆえにわれわれはみな死ぬ運命にあるのである」。
ロマ 5.12「このため、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が世に入ったように、全ての人に 死は至った。皆、罪を犯したので」(拙訳)。
181 シラ 8.5「罪を捨てて心を入れかえつつある人を責めるな。われわれだれしも罰を蒙るべき身である
(
pa,ntej evsme.n evn evpiti,moij
)ことを記憶せよ」。49
本書はラテン語、シリア語、エチオピア語、アラビア語、アルメニア語、グルジア語によるも のおよびコプト語の断片として現存しているが、原典はヘブライ語あるいはアラム語であったと いうのがほぼ確かである182。この書は明らかにエルサレム神殿崩壊後の状況を反映しており、後 70年以降100年までの間に書かれた183とされている。従ってパウロ後に記されたものだが、
パウロの背景を理解するためには有用な書であると言える。この書はエチオピア語エノク書、シ リア語バルク黙示録などとともにいわゆる「ユダヤ教黙示文学」に分類される。黙示文学の定義 を明確にすることの困難さはクラウス・コッホ184の既に指摘するところであるが、律法重視、律 法違反に対する神の怒り、生前の行いに基づく最後の審判、最後の審判における救済などが重要 な要素としてこの書にも記されている。このような諸要素は、洗礼者ヨハネにもパウロにも見ら れるものであり、前2世紀から後1世紀までのユダヤ教社会においてかなり広く浸透していた思 想であるということができる。
この書には、黙示文学の時代と言える紀元前2世紀から後1世紀において顕著である「律法の 普遍化」が見られる。「律法は滅びることなく、自らの栄光の中にあり続けるのです(lex non perit sed permanet in suo honore)」(9.37。八木誠一・綾子訳185。ラテン語はウルガタ186。以下同様)
や「あらゆる人に是認された律法を(ab omnibus probatam legem)あなたが欲したもうたこの 民にお与えになりました」(5.27)という時に、律法はもはや歴史的に形成されていったもので はなく、超歴史的な存在へと崇められている。そして人間は悪行のために最後の審判に耐えるこ とができない存在であり(7.72‐73)、そこからの救済こそが神の憐みによってなされることと される(7.132‐139)。
「罪の赦し」という救済論的用語こそないものの、神の審判、律法重視という思想が罪とも関 連付けられている(9.36 参照)。「彼等は生前至高者の前で罪を犯し、終わりの時には至高者の 前で審判をまさに受けようとする。彼らはその至高者の栄光を見る(videntes gloriam Altissimi coram quem viventes peccaverunt et coram quem incipient in novissimis temporibus iudicari )」(7.87。拙訳)とあるように、人は罪を犯すがゆえに終末時に厳しい裁きを受けざ るを得ない。救済はその究極的審判の回避である。
そして第四エズラ書においては、「全ての人が罪を犯す」というパウロの救済論の基本的な要 素が記述されているのは注目に値する。「すなわち生まれて来た者はみな不正に汚され、罪に満 ち、そしてあやまちの重荷を負っているのだ( omnes enim qui nati sunt commixti sunt
182 ヘブライ語とアラム語については、ヘブライ語原典説の方がやや有力である。M. E. Stone, Selected Studies in Pseudepigrapha and Apocrypha, Leiden, 1991, 275-285.日本聖書学研究所編『聖書外典偽 典第五巻 旧約偽典Ⅲ』教文館、1976 年、160、161 頁。M. E. Stone (ed.), Jewish Writings of the Second Temple Period, Assen, 1984, 414 参照。E. Schürer, The History of the Jewish People in the Age og Jesus Christ Ⅲ-1, Edinburgh, 1986, 294.
183 E. Schürer, ibid., 300. M. E. Stone, Selected Studies in Pseudepigrapha and Apogrypha, 324.
J. H. Charlesworth (ed.), The Old Testament Pseudepigrapha Vol.1, Garden City, 1983, 520.
184 K. Koch, Ratlos vor der Apokalyptik: Eine Streitschrift über ein vernachlässigtes Gebiet der Bibelwissenschaft und die schädlichen Auswirkungen auf Theologie und Philosophie, Gütersloh, 1970
(K. コッホ『黙示文学の探求』北博訳、日本基督教団出版局、1998 年).
185 日本聖書学研究所編『聖書外典偽典第五巻 旧約偽典Ⅲ』所収。
186 Biblia Sacra Iuxta Vulgatam Versionem, Stuttgart, 21975 による。