• 検索結果がありません。

福澤諭吉『學問ノスヽメ』七編(明治 7 年・1874 年)

ドキュメント内 殉教の記憶・記録・伝承 (ページ 34-41)

第 2 章 「殉教」の概念史 ―日本語史における「殉教」概念とその周辺―

Ⅳ 福澤諭吉『學問ノスヽメ』七編(明治 7 年・1874 年)

次に明治初期当時多くの日本人たちが読んだベストセラーの一つである『學問のスヽ メ』を見ておきたい。緒方洪庵の適塾でオランダ語を学んだ福澤は、その後安政5年(1858 年)に江戸に出るも、オランダ語の知識しかないため横浜の看板が読めないことに驚き、

志を発して英語の習得に邁進した。その彼が咸臨丸に乗って渡米し111、中浜万次郎と共 にウェブスターの辞書を購入して日本に初めてもたらすこととなる112。このウェブスタ ーの辞書がどの版になるのか定かではないが、いずれにしても福澤の学んだMartyr(-dom)

には、ウェブスターの理解が含まれていると言えよう。この点は後述する。

このように福澤諭吉は、英語の重要さにいち早く気づいた知識人の一人であった。福 澤の『學問ノスヽメ』には、一箇所であるが「マルチルドム」に関する記述がある。こ

unko08_c0544_0001_p0170.jpg (2016年10月21日閲覧)。

109 Martelaarのこと。

110 国立国会図書館デジタルコレクションによれば、本辞書は1810年(文化7年)出版とされている。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559391 (20161021日閲覧)。

111 永嶋、前掲書、53頁。( )内は論者。

112 福澤諭吉著、矢野由次郎編『福翁自傳 全』、時事新報社、1899年(明治32年)、193頁には次のよ うにウェブスター版辞書の購入の経緯について記されている。「・・・・・・其時に私と通辯の中濱萬次郎と 云ふ人と両人がウエブストルの字引を一冊づヽ買て來た是が日本にウエブストルと云ふ字引の輸入の第 一番、それを買てモウ外には何も残ることなく首尾克く出帆して・・・・・・」。

34

れが出版された明治7年(1875年)当時、これまで述べてきたように「殉教」という単 語自体が使用されていなかったため、福澤はMartyr(Martyrdom)を「マルチルドム」

と音写している。同書の七編「国民の職分を論ず」には以下のように記されている113

斯ノ如ク世ヲ患イテ身ヲ苦シメ或イハ命ヲ落トス者ヲ西洋ノ語ニテ「マルチルドム」

ト云フ失フ所ノモノハ唯一人ノ身ナレドモ其功能ハ千萬人ヲ殺シ千萬兩ヲ費シタル内 亂ノ師ヨリモ遥ニ優レリ古来日本ニテ討死セシ者モ多ク切腹セシ者モ多シ何レモ忠臣 義士トテ評判は高シト雖モ其身ヲ棄タル由縁ヲ尋ルニ多クハ兩主政權ヲ争フノ師ニ関 係スル者欤又ハ主人ノ敵討等ニ由テ花々シク一命ヲ拖タル者ノミ其形ハ美ニ似タレド モ其實ハ世ニ益スルヿナシ・・・・・・權助ガ主人ノ使ニ行キ一兩ノ金ヲ落シテ途方ニ暮レ 旦那ヘ申訳ナシトテ思案ヲ定メ並木ノ枝ニフンドシヲ掛テ首を縊ルノ例ハ世ニ珍ラシ カラズ今コノ義僕ガ自ラ死ヲ決スル時ノ心ヲ酌テ其情實ヲ察スレバ亦憐ム可キニ非ズ ヤ使二出デヽ未ダ返ラズ身先ツ死ス長ク英雄ヲシテ涙ヲ襟ニ満タシム可シ主人ノ委託 ヲ受テ自カラ任ジタル一兩ノ金ヲ失ヒ君臣ノ分ヲ盡スニ一死ヲ以テスルハ古今ノ忠臣 義士ニ對シテ毫モ耻ヅルヿナシ其誠忠ハ日月ト共ニ耀キ其功名ハ天地ト共ニ永カル可 キ筈ナルニ世人皆薄情ニシテコノ權助ヲ軽蔑シ碑ノ銘ヲ作テ其功業ヲ稱スル者モナク 宮殿ヲ建テヽ祭ル者モナキハ何ソヤ人皆云ハン權助ノ死ハ僅ニ一兩ノタメニシテ其事 ノ次第甚ダ些細ナリト然リト雖ドモ事ノ軽重ハ金高ノ大小 人數ノ多少ヲ以テ論ズ可ラ ズ世ノ文明ニ益アルト否トニ由テ其軽重ヲ定ム可キモノナリ然ルニ今彼ノ忠臣義士ガ 一萬ノ敵ヲ殺シテ討死スルモコノ権助ガ一兩ノ金ヲ失フテ首ヲ縊ルモ其死ヲ以テ文明 ヲ益スルヿナキニ至テハ正シク同様ノ訳ニテ何レヲ軽シトシ何レヲ重シトス可ラザレ バ義士モ權助モ共ニ命ノ棄所ヲ知ラサル者ト云テ可ナリ是等ノ擧動ヲ以テ「マルチル ドム」ト稱ス可ラズ余輩ノ聞ク所ニテ人民ノ權義ヲ主張シ正理ヲ唱テ政府ニ迫リ其命 ヲ棄テヽ終ヲヨクシ世界中ニ對シテ耻ルヿナカル可キ者ハ古来唯一名ノ佐倉宗五郎ア ルノミ・・・・・・

福澤が1874(明治 7)年という明治初期にMartyrdomという行為の概念を用いて論 じていることは大変興味深い。福澤はMartyrdomの意味を、主従の忠孝や世の中への利

113 慶応大学デジタルギャラリー「FUKUZAWA BOOK COLLECTION」より引用。

http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/ (2016614日閲覧)。

35

益の有無の文脈によって判断しており、キリスト教的(あるいは宗教的)な意味のそれ として理解しているのではない。しかしながら、「失フ所ノモノハ唯一人ノ身ナレドモ其 功能ハ千萬人ヲ殺シ千萬兩ヲ費シタル内亂ノ師ヨリモ遥ニ優レリ」というような、一人 の死の「功能」や社会(集団)対する「利益」という観点からMartyrdomを理解してい るのは興味深いことである。

Ⅴ 『和英語林集成』(初版1867年・第二版1872年・第三版1886年)

次に『和英語林集成』について検討する。これを編纂したJ.C.ヘボン(Hepburn, James Curtis 1815-1911年)114はこの辞書の種本としてW.H.メドハースト(Medhurst, Walter Henry 1796-1857年)115のAn English and Japanese, and Japanese and English vocabularyを使用している116。このメドハーストの辞書にはMartyrはない117。この辞 書の語彙羅列はアルファベット順ではなく種目ごとであり、Martyrが入ると思われる ReligionやVerbsなどの項目にも出てこない118。ヘボンの『和英語林集成』の初版は1867 年で、計702頁の大部なものであり、収録語数約20,000語、索引の英和辞典は簡単な記 述ではあるものの約10,000語が収録されている119。小島義郎はこの辞書について次のよ うに述べる。

ヘボンは「序文」の中で『和英語林集成』の編集目的を日本に在住する外国人および 日本語を研究しようとしている人々のためと述べている.つまり,英語を学ぶ日本人 のためのものではないということである.結果的には日本の英学生を大いに益するこ

114 Hepburn, James Curtis ペンシルヴァニア州ミルトンに生まれる。プリンストン大学、ペンシルヴ

ァニア大学にて医学を修め、1936年に医学博士号を取得。彼は1841年からの5年間、シンガポール、

マカオ、アモイの各地で医療伝道に従事した後、アメリカに戻り、ニューヨーク市内に眼科を開業し 13年間医療活動にあたった。その後、米国長老派教会の宣教師として妻クララと共に1859年に来日 し、神奈川で日本語研究に取り組み、主に眼科治療を行いながらキリスト教を伝道し、日本初の和英 辞典『和英語林集成』を編纂したのである。岩堀、前掲書、261頁。

115 Medhurst, Walter Henry(1796-1857年)、バタビア(オランダ統治下のジャカルタ)にてこの英 和・和英の語彙集を編纂した。イギリス人宣教師。岩堀、前掲書、94頁。海老澤有道によると、メド ハーストは、日本布教に燃え、1828年、長崎に渡航しようとしたが、失敗に終わったという。海老 澤有道『維新変革期とキリスト教』、新生社、1968年、65頁。

116 小嶋義郎『英語辞書の変遷 米英日本を併せ見て』、研究社、1999年、268-9頁。

117 辞書の本文はHATHI TRUST Digital Libraryから閲覧できる。

https://catalog.hathitrust.org/Record/100138636 (2016619日閲覧)。

118 「シュス Satin」の次が「ジュンジュンニ By turns」、「ジウ」の項は「ジウシツ Seventeen」で終 わっており「殉」の文字は見当たらない。Medhurst, ibid., p. 328

119 小島、前掲書、268頁。

36

とになる・・・・・・では,そういう外国人向けの日英辞典がなぜ日本人の英語学習者に絶 大な人気を博したのであろうか.それは他にこれに優るような和英辞典が存在しなか ったからである.和英辞典の編者には日本語話者がなるのが望ましいが,当時の日本 で『和英語林集成』のような高いレベルの和英辞典を作れる人はいなかったのである.

『和英語林集成』は1872年(明治5年)に2版が,1886年(明治19年)には第3 版が出ている.明治30年代までは和英辞典と言えばヘボンの独壇場であった.120

この『和英語林集成』の初版には「殉教」もMartyrも見当たらない。20,000語とい う限られた収録語数の中でMartyrが採用されなかったことから、この語は当時の日本・

日本人に一般的に使用されることの少ない語とヘボンは理解したのか、又は、この語に 対応する日本語が見つからなかったのか、或いはこの辞書には「殉教」という語は不要 であると考えたのか、という事になるだろう。

この5年後に改訂した第二版(1872年)では初めてMartyrの項目が登場する。ここ ではMartyrを「Jun suru hito」、Martyrdomを「Jun suru koto」と訳しており、初め

てMartyrと「殉」の概念が結び合されている。

第二版を14年ぶりに大幅改訂した第三版(1886年)では更に大きな変化を見せてい る。「和英の部」では「JUNKYO・ジユンケウ・殉教」という語が初めて登場し、この語 に対して「Dying for one’s religion:―sha, a martyr.」と説明されている。更に「英和の 部」においても、Martyrの説明として「Michi ni jun-suru koto」「jundo sha, junkyo sha」

となっており、「殉教」という言葉の登場に加え、「英和」「和英」の両方の立場から「殉

教(者)」とMartyrとがイコールで結ばれている。

だが興味深いことに、第三版「和英の部」の「JUNKYO・ジュンケウ・殉教」には、

現在「殉教」と訳されるMartyrdomは当てられておらず、JUNKYO(-sha)の訳語説 明で初めてMartyrの語が当てられてくるのである。更に、同じ第三版の「英和の部」で

は、Martyrの説明として「Michi ni jun-suru koto」と書かれているが、これは本来「Michi

ni jun-suru hito....

」となるべきではないかと思われる。又、その後に「jundosha, junkyosha」

と、「殉教.

」よりも先に「殉道.

」と説明されている。これらのことから、第三版に初めて

Martyrと「殉教」とが日本語において結び合されつつあるのだが、まだ意味が揺れ動い

ている状態であることが分かる。いずれにおいても、冒頭に述べた通り、太政官翻訳係

120 小島、同書、207-276頁。

ドキュメント内 殉教の記憶・記録・伝承 (ページ 34-41)