第 2 章 津和野の記録と伝承 ― 伝承を意図した記録
Ⅲ 安太郎に現れた「聖母」の「記憶」
(1)はじめに
いわゆる「浦上四番崩れ」471にまつわる出来事は、多くの書物に記録され語り伝えられ ている。殉教や拷問に関する数々の逸話も残されている中で、一般にはあまり知られるこ とがないにもかかわらず、とりわけ異彩を放っているのが、津和野の「聖母マリアの出現」
である。19-20世紀はヨーロッパでは空前の「聖母出現ブーム」であり、カトリック教界
はこれを「マリアの時代」と呼んでいる472。1830 年に始まる夥しい数の「聖母出現」の
471 幕末から明治維新期にかけて起こったキリシタン弾圧事件「浦上四番崩れ」により、3414名の浦上 キリシタンたちが名古屋以西の各藩に流配された。この捕縛事件を「浦上四番崩れ」と呼ぶ。(片岡 弥吉『長崎の殉教者』、角川書店、1957、4頁)
472 関一敏『聖母の出現 近代フォーク・カトリシズム考』、日本エディタースクール出版部、1993年、
35頁。
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事例が世界各地で起こり、137年間で11件もの「出現事例」がバチカンの認可を得て巡礼 地の資格を得ている473。このような時代の流れにあって、1869 年1 月、中国地方の片隅 に聖母が出現していたと記録されているのである。本研究は、「津和野の聖母出現」という 事例について記述された文献の叙述分析である。
津和野の「聖母出現」に遭遇しそれを記録したのは、津和野藩に流配された浦上村のキ リシタン、高木仙右衛門と守山甚三郎である。彼らは1868年6月17日、最初の流配者と して第一次移送者 28名474のうちに含まれる、キリシタンのリーダー的存在であった。そ の後1870年3月1日に第二次移送として125名が加わり、最終的には合計153名が津和 野へ流配されたことになる。この第一次移送から第二次移送までの二年未満の間に、和三 郎が津和野で最初の殉教者となり475、次いで安太郎が殉教した476。それは三尺牢477の拷問 によって、光琳寺の庭に極寒の中放置されて息絶えるという壮絶なものであった。
安太郎が殉教する五日前に高木仙右衛門が、三日前に守山甚三郎が、光琳寺の床板を外 して作った抜け穴を通り密かに安太郎を見舞っていた。その時彼らは安太郎を慮り、「最期 の間際に唯一人でさぞ寂しいでせう」と声を掛けたところ、安太郎本人から「綺麗な綺麗 な十七八歳位の、丁度 聖サンタマリア様の御繪に見る様な御婦人が、頭の上に御顕はれ下さいま す」478という話を聞くのである。この安太郎の語った出来事こそが「津和野の聖母出現」
として伝えられているのである。現在ではこれを記念して光琳寺の跡地に「乙女峠マリア 記念堂」が建てられ、「乙女峠に現れた聖母と殉教者」を描いたレリーフ479が建立されて
473 聖母出現は、1830年、カトリーヌ・ラブレという修道女がメダル鋳造のお告げを受けて奇跡を起こ したことに始まる。これに続く聖母出現は、①ラティボンヌ(M.A.Ratisbonne 1842年)②ラ・サレ ット(La Salette 1846年)、③ルルド(Lourdes 1858年)、④イラカ(Ilaca 1865-1867年)、⑤フ ィリップスドルフ(Pilippsdorf 1866年)、⑥ポンマン(Pontmain 1871年)、⑦ノック(Knock 1879 年)、⑧ファティマ(Fatima 1917年)、⑨ボーラン(Beauraing 1932-1933年)、⑩バンヌー(Banneux 1933年)などである。(関一敏、同書、36頁)
474 彼らが浦上を出発したのは5月22日(旧暦)であり、その後尾道にて津和野藩大目付高橋半右衛門 が受け取り、津和野光琳寺入りしたのが6月17日であったとされる。沖本常吉『乙女峠とキリシタ ン』(津和野ものがたり3)津和野町教育委員会、1969年、174頁。
475 『甚三郎の覚書』によれば享年27歳とある。パチェコ・ディエゴ著『甚三郎の覚書』、二十六聖人記 念館、1962年、11頁。数え年のため実年齢は26歳。
476 安太郎の享年には諸説あり、甚三郎の覚書によると32歳とあるが、沖本は29歳と記している。内閣 府発行の「異宗門徒人員帳」『第一類 公文録』(明治3年 第百三十一ノ二巻によると、正月二二日に 30歳で死去したと記されているので、本稿ではこれを公式の享年としたい。
477 三尺牢は90センチ四方の木製の監禁牢に、数日間飲まず食わずのまま放置される拷問のための牢の こと。
478 浦川和三郎『切支丹の復活 後篇』、日本カトリック刊行会、1928年、476頁。
479 レリーフには、聖母出現100周年記念として1968年5月3日完成と彫られている。
170 いる。
(2) 「聖母出現」と安太郎
ところで津和野の聖母出現物語はどのようにして世に伝わったのだろうか。安太郎が「聖 母出現」について直接話したのは高木仙右衛門と守山甚三郎の二人だけであった。彼らは 1872年の長崎帰還後に『覚書』を書き残したが、これによって安太郎の存在が世に知れる こととなった。それ以外の者たちは安太郎への「聖母出現」について知らなかったようで ある。
どのような記述によって「聖母出現」の話が描かれているかについては、参考資料〔表
Ⅰ〕に詳細を載せている。これは高木仙右衛門『覚書』480、F・マルナス『日本キリスト 教復活史』481、守山甚三郎『覚書』482、浦川和三郎『旅の話』483、の中で「聖母出現」に ついて記されている部分を抜粋して比較した表である。484
480 高木仙右衛門の『覚書』の原文は、高木慶子『高木仙右衛門に関する研究―「覚書」の分析を中心に して―』、思文閣出版、2013年の151-152頁。現代訳は同書190頁。原文は次の通り。
「又そのころ安太郎といふものもおもいびやうきでありました。あわれなるかな、この人よるのじふ んかいほふ人もなく、又きびしくさむさにひとへものをいちまいきてたゞひとりこまいへやにねてお りました。このときこのびやう人うへに、きれいなをんながおるをみました。又をんなのこへをもつ て、びよう人とともにはなしましたと。又かようにある事三日のあいだとこのびやう人がわたくしに はなしました。又わたくしがよるのじぶんにまどのしょうじに、ひかりとかげとうつりたのをみまし た事とあいまする。」
481 F.マルナス『日本キリスト教復活史』(久野桂一郎訳)、みすず書房、1985年、466-7頁。原文は仏語
であるが、他の史料と比較するために日本語の訳文を使用した。
482 原文は、パチェコ・ディエゴ、前掲書、173頁。現代訳は沖本常吉、前掲書、58頁。原文は以下の通 り。「わたくシもとうやのざいたをひきをこし、いかの下にをれいしのじぶくの下をほり、それより そとにいれよ中すぎに三尺どうやのそばによりつき、「やすたろうさん」一どう、にどうこえかけま した。ところが小まいこえにてへんとをいたシ、それによつてわたくシもうすにハ「あなたハ此三尺 どうやのうちにてさぞやさむしゆござりましよう」ともうしたれば、こたえてもうしなさるにハ「わ たくしは四ツ九ツまでハさむしうござりません。十二ジヨリさきになりますれバ、あをいき物を、あ をいきれをかぶり、さんたまりやさまのごいえのかおだちににております、その人が物がたりをいた シくださるゆえ、すこしもさむしゆハござりませの、けれども此事ハわたくシのいきておるまでハ人 ニはなしてハくださるな」、といふてそれより三日目ニまことによろしきしきよでござりました。此 人ハまことにせいじんをおもいました。」
483 浦川和三郎、前掲書、475-476頁。浦川は『切支丹の復活 後篇』を1928年に著したが、この第三 章が「旅の話」である。彼は後に『旅の話』として1938年に単行本化されるため、本論文では便 宜的に『旅の話』と記している。
484 A・ヴィリオンも、聖母の出現に関しての記事を少しだけ残している。「20年後、私が長崎へ行った
とき、〝浦上の聖人〟と言われた深堀(高木の誤り)仙右衛門と再会した。その時私にこう言った。
〝神父様、津和野に布教へいらっしゃるのですか。私は三時間も続けざまに、何回となく氷の張り結 ((ママ))めた池に沈められ、力の弱った時に引き上げられましたが、その小さな池を見にいらして ください。しかし神様はたいへん善い方です。私がこれ以上苦しみを感じなくなった時、聖母が私を 慰めに来てくださいました〟と。」 Villion, Aimé., Cinquante ans d’apostolat au Japon,Hong Kong,
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(表Ⅰ)安太郎の聖母出現に関する記述 対観表 高木仙右衛門
の 『 覚 書 』
(1877-9年)
F・マルナス『復活史』
(1896年)
守山甚三郎の『覚 書』(1908年)
浦川和三郎の『旅の話』
(1928年)485
又そのころ安 太郎という者も 重い病気であり ました。あわれ にもこの人は、
夜介抱する人も なく、きびしい 寒さに単衣もの 一枚着て、ただ 一人小さい部屋 に寝ていました。
このとき、この 病人は上にきれ いな女の人がい るのを見ました。
この女は声を出 して病人と話し ました。こんな ことが三日間も あったと安太郎 は私に話しまし た。私が夜分、
窓の障子に光と 影が映ったのを 見たことと話が あいます。
津和野の牢で死んだ切支丹の中 に城の越のジャン・バプチスト 安太郎がいた。彼は彼を棄教さ せようと夢中になっている牢番 の極めて過酷な執念に耐えなけ ればならなかった。彼はすでに 病気で苦しんでいたのに、牢番 は彼の辛抱を挫くためにあらゆ る手を用いた。特に彼は連続三 晩の間絶え間なく尋問をうけ た。彼は地面の上に敷いてある 古ござの上に座り、僅かばかり の着物を着、冬で雪が降ってい るなかで寒さに震えながら、番 人の屁理屈に答えなければなら なかった。役人はこの間に、厳 しい寒さに耐えるために順番に 席をたって温かい食物を摂るの だった。安太郎は、聖寵に支え られて彼の答えを変えなかっ た。役人は彼の粘り強さを打ち 負かすのをあきらめて、彼一人 だけを番人小屋の隣の牢に閉じ 込めた。ドミニコ仙右衛門は彼 とたった一枚の仕切りで隔てら れているだけなので、二人の囚 人は語り合うことができた。安 太郎は下痢のために疲れ果て、
立っていることもできなくなり、
瀕死の状態となった。仙右衛門 は番人の目をごまかして臨終の 床の病人の許にしのびこんだ。
彼が安太郎が絶望の状態にいる のを哀れに思った時に、安太郎 は彼に次のように答えた。「私 を可哀そうだと思わないで下さ い。三日前に、私の前に素晴ら しく美しい婦人が現われ、それ と同時に私のそばで二つの声が
私も、牢屋の座板 を引起し、床の下に 降り、石の地伏の下 を掘り、それより外 に出で、夜中過ぎに 三尺牢屋の傍に寄り つき、安太郎さんに 一度二度、声をかけ ましたところが、小 まい声にて返答をい たし、それによって、
私申すには、あなた は此三尺牢屋のうち にて、さぞや淋しう ござりましょう、と 申したれば、答えて 申しなさるには、私 は、四つ(十時)、九 つ(十二時)までは さむしうござりませ ん、十二時より先に なりますれば、青い 着物を、青い布をか ぶり、さんたまりや さまの、御影の顔立 ちに、似ております その人が、物語をい たし下さる故、少し も淋しうはござりま せの、けれども此事 ハ私の生きておるま では、人ニ話してハ 下さるな、というて それより三日目ニま ことによろしき、死 去でござりました、
此人ハまことに聖人 と思いました。
明けて明治二年正月廿 日には城の越のヨハネ・
バプチスタ安太郎が如何 にも感心な最期を遂げた。
彼は頗る信仰の堅い、徳 の高い人で、監獄にあつ ても、人の嫌ふ仕事は我 身に引取り、自分の食は 推して人に食べさせると 云う様にして居たもので ある。
彼は和三郎の死後同じ 三尺牢に入れられた。時 は冬の眞直中、役人は雪 の粉々と降りしきる外庭 に一枚の藁を敷き、もう 病の為に頗る弱り込んで 居る彼を引据えた。つま らない理屈を陳べて彼に 改心を迫ること続いて三 夜にも及んだ。自分たち は交るがわる起つて温い 物を食べ元氣を附けて来 ては安太郎に棄教を強ひ るのであつた。然し安太 郎は主の聖寵に強められ、
幾ら説得されようと微懼 ともしなかつた。斯くて 安太郎は下痢症にかかり、
瘠せて瘠せて骨と皮のみ となつた。賄方からその 事を聞き、甚三郎が一回 仙右衛門が一回、抜穴を 潜つて見舞に行き、言葉 を盡して彼を慰めた。
仙『最期の間際に唯一人 でさぞ寂しいでせう。』
安『少しも寂しくありま せん。毎夜、四ツ時(十
1923.(池田敏雄『現代日本カトリックの柱石 ビリオン神父』、中央出版社、1967年、127頁によ
る池田敏雄訳)。だが、この場合のヴィリオンの理解は、安太郎が聖母に慰められたのではなく、氷 責めに遭っていた仙右衛門の前に聖母が現れ、仙右衛門を慰めた、と理解しており、他の記述とは全 く異なっているため、比較対観表から外している。
485 既に述べていることであるが、浦川の『旅の話』とは1938年に出版された書物を指す が、元々は、1928年の『切支丹の復活 後篇』の第3章全文の抜粋を単行本化したも のであるため、ここでは『旅の話』の発行年を1928年としている。