第 3 章 概念設定
Ⅰ キリシタン殉教物語の文学類型と殉教の規定について
本章では、キリシタンについて語られてきた幾つかの「殉教物語」を示し、そこに現れ ているプロトタイプや文学類型について考えておきたい。これまで「殉教」の意義につい て論じられてきたキリシタン版179として、ローマ字本の日本文で刊行された聖人伝の『サ ントスの御作業の内抜書』(1591年)があり、特にその後半部には「マルチレスの証拠、
並びにその位高きことを現はす心得のこと」がある180。この一部が要約・抜粋され先述の
『マルチリヨの栞』となった。同書は、姉崎正治によって「マルチリヨの鑑」「マルチリヨ の勧め」「マルチリヨの心得」という、慶長、元和、寛永年間に書かれた三書が纏められた ものであり、彼の著書である『切支丹宗門の迫害と潜伏』の第五章に収録されていること は既に述べた通りである181。「マルチリヨ」「まるちる」は、織豊時代から江戸初期のキリ シタンに対してこの当時から「勧め」られてきた「信仰の表し」となっていた。浅見雅一 は、「殉教」物語の成立と「殉教」の歴史研究について次のように述べる。
カトリック教会の関係者による歴史研究は、迫害と殉教の研究となるケースが多い。こ の場合の殉教研究とは、殉教の事実それ自体を明らかにすることである。殉教者の信仰 は疑ってはならないものなので、殉教に至る経緯を明らかにすることに力点が置かれて いる。これは、殉教者の列聖のための調査に繋がるものである。殉教それ自体は、いわ ば空白の状態であり、解明の対象とするのは殉教前後の事実関係のみなのである。こう した姿勢は、現在のカトリック教会の研究方法において基本的に踏襲されている。182
このように、カトリック関係者によって書かれたものの多くが「限りなく美化された」183
「殉教」の研究となる傾向にある事は、既に述べた通りであるが、これはカトリック教会 にとって、「列福」「列聖」に至るための必要なプロセスである。だがそれゆえに「殉教物
179 キリシタン版とは、狭義には1590年7月巡察師A・ヴァリニャーノによって日本に初めて活版印刷 機が持ち込まれてから1614年の大迫害で出版不能になるまでの間にイエズス会によって発行された 出版物のこと。「キリシタン版」日本キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本キリスト教歴史大事 典』、教文館、1988年、415頁。同項目の執筆者は海老沢有道。
180 狹間芳樹「近世日本における聖書受容と文化/社会抵抗―キリシタンの殉教をめぐって―」『キリス ト教と文化研究』(第13号)(2010年度研究プロジェクト報告)、関西学院大学、2011年。202頁。
181 姉崎正治『切支丹宗門の迫害と潜伏』(姉崎正治著作集第一巻)、国書刊行会、1976年。
182 浅見雅一『概説キリシタン史』、慶応義塾大学出版会、2016年、161頁。
183 佐藤吉昭『キリスト教における殉教研究』、創文社、2004 年、32頁
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語」自体が「殉教に至る経緯を明らかにすることに力点が置かれ」る事となる。つまり「殉 教物語」とは、趣味や娯楽を目的とした読書家たちの欲求を満たすために資する「読書」
のための物語ではなく、「列聖のための調査に繋がるもの」であると言える。そのためカト リック教会は「殉教者」を調査するための調査委員を設け、調査担当者に列聖運動の促進 を目的とする「殉教録」を書かせたのであった。「殉教録」とは「殉教者」の名簿のことで あり、この形式の文書は、「通常は各殉教者の氏名と共に事跡が簡略に記される」184もの となっている。日本の「殉教者」の記録についても、「殉教録」の形式で文書が作成されて おり、出版されたものとしては、ポルトガル人イエズス会士のアントニオ・フランシスコ・
カルディン(Cardim, António Francisco 1596-1659年)の『日本の精華』185などがあ る。
キリシタン「殉教物語」の叙述のされ方に関して、佐藤吉昭は、スペイン人イエズス会 宣教師のペドゥロ・モレホン(Morejon, Pedro 1562-1639年)が書いた『続日本殉教記』
186に注目し、その中にあるフアン(如庵)道壽を主人公とする殉教記事から、殉教録の文 学類型の表れを見出しており187、次のように述べている。
モレホンは『日本殉教録』188の執筆のために多くの日本からの記録を使用していたはず だが、執筆に当たって彼自身の文学的加筆があったことが推定される。しかも、それだ けにとどまらず、彼のもとに送られ、彼の史料となったイエズス会年報などの記録自体 がすでに一定の殉教録専用の修辞法的構成法によっていたことが推定できる。実はロー マ帝国支配下の古代キリスト教時代においてすら、われわれは客観性を帯びた純然たる 公的裁判記録、処刑記録に直接に遡ることはほぼ不可能である。こうした予備的観点に 立ってフアン道壽以下の殉教記録を再読すると、日本キリシタンの最古の出版物である
184 浅見雅一、同書、161頁。
185 Cardim, António Francisco., Fasciculus e Japponicis floribus, suo adhuc madentibus sanguine,
Rome, 1646. 尚、ポルトガル語版は、Lisboa, 1650. 日本語翻訳版では『日本の精華』の他、『日本
殉教精華』とも訳される。「カルディム」日本キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本キリスト教 歴史大事典』、教文館、1988年、330頁。
186 ペドゥロ・モレホン『続日本殉教録』(キリシタン文化研究シリーズ11)(野間一正、佐久間正共訳)、
キリシタン文化研究会、1973年。原著は Morejon, Pedro., Historia Y Relacion De Lo Svcedido En Los Reinos De Iapon y China, Lisboa 1621.
187 佐藤吉昭、前掲書、22頁。
188 ペドゥロ・モレホン『日本殉教録』、(キリシタン文化研究シリーズ10)(佐久間正訳)、キリシタン 文化研究会、1974年。原著は、Morejon, Pedro., Relacion de la Persecvcion qve vvo en la Yglesia de Iapon, Mexico, 1616.
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『サントスの御作業の内抜書』に含まれている古代殉教者伝と極めて類似した文学類型 をそこに見出さざるを得ない。つまり、両者の間には強い連続性が見出されるのである。
それは偶然によるものであろうか。189
ペドゥロ・モレホンは16世紀日本の宣教状況を報告するために『日本殉教記』(1616 年)と『続日本殉教記』(1621年)を著した。彼は1612年から、日本の殉教者の列聖調 査にあたって、司教セルケイラからその公式の調査委員に任ぜられていたので、「常に殉教 記録に興味をもち、公式な調査報告のほか、教会内の列聖運動の促進を考えて、もっと一 般向の記録をも作成し出版させた」190人物であった。
このようなペドゥロ・モレホンの著書『続日本殉教記』であるが、佐藤吉昭は、その中 の第一巻八章から十章にかけてのフアン道壽に関する記事の中に191、殉教物語の文学類型 が示されている事を指摘している。佐藤の分析する「文学類型」を論者なりに纏めると、
以下のような展開となっていることが分かる。
①善意を持った温厚・中立な人物(権力者・奉行)が登場する192。
②その人物は、悲劇を事前に避けるための賢明な手立てを知っており、その方法を次々 とキリシタンたちに示唆する。
③だが、キリシタンたちは、そうした善意を全く受け入れず、キリシタンの進む道と、
この世の善意が既に繋がりようのないものとなる。(最後の勝利者(殉教者)が物語 の中に予感されている。)
④この両者の駆け引きの外に立つ大衆たちは二群に分かれ、一方は受難者たちの無知・
非理性を嘲笑する。
⑤だが他方、キリシタンたちの強固な信念と一貫した態度を称賛し共感する者もいる。
⑥キリシタンたちのこのような信念は、種々の罪によって投獄されていた者たちの良心
189 佐藤吉昭、同書、23頁。
190 ペドゥロ・モレホン、前掲書、18頁。
191 ペドゥロ・モレホン、同書、4頁。8章から10章までの題目は以下の通り。
第一巻八章「キリストの信仰ゆえに、駿河のキリシタン数名の蒙った監禁」、同九章「一同に与えら れた判決並びに責め苦」、同十章「フアン、ペドゥロ両名の栄光ある死、ならびにその他の人たちの 事情」。ここで言われているペドゥロとは、モレホンではなく、日本人ペドゥロ角助(カコスケ)。
192 『続日本殉教記』では、彦坂九兵衛という奉行[文中では「コレヒドール」のルビ]が登場し、「九 兵衛は異教徒ではあったが、情深く穏やかな人であり、このような過酷な手段を正しいと思わなかっ たので、できるだけ人数を少なくして記帳するよう役人[文中では「オフイスアーレス」のルビ]に 命じた」と説明されている。ペドゥロ・モレホン、佐久間正訳、同書、53頁。
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の目を開かせ、彼らにも洗礼を授け、自分たちの信ずる神の国に取り込んでいく。
⑦そこに処刑の命令が下り、物語は急テンポで動き出す。
⑧善意を持った温厚・中立な人物は、物語から退場する。
⑨「誇りを持って死なせるな」との上からの命令があり、キリシタンたちを惨めな敗北 者とするために、苦痛を長引かせる残酷な刑が行なわれる。
⑩民衆たちの面前で長々とした引き回し、十字架の烙印、手の指の断絶、足の腱の切断。
⑪それとは対称的に、キリシタンたちは瀕死の状態でも、尚も信仰を守るべく、強い意 志によって断食が続けられる。
⑫苦しめられた彼らは無介抱のまま放置される
⑬この出来事の後にも、若干の生き証人が残される。
⑭ここで改まって主人公の回心に話は遡り、入信前の熱心な仏教徒としての反キリスト 教的活動と、対称的な入信後の意欲的精進生活が披露される。
⑮一度死んだフアン道壽は棺の中で一度目を開くという奇跡が起こる。193
更に佐藤は、このモレホンの文書で見逃せない特色を「逮捕から処刑までのこの一連の 出来事が中世以降確立していたカトリック教会暦上の聖なる日々に重ね込まれている」と 分析している194。佐藤の研究は、『日本殉教記』の「殉教」思想が、アンティオキアのイ グナティオス(35頃-110以降没)の殉教まで遡る事が出来るという前提から出発してい る。佐藤の扱う記録は17世紀のものであるが、佐藤の議論に依拠しつつ分析を行なって いる前述の浅見雅一が述べている通り、「こうした姿勢は、現在のカトリック教会の研究方 法において基本的に踏襲されている」195のであれば、明治期キリシタンの「殉教」の叙述 においても類似した傾向が当て嵌ると考えられる。
日本人信徒の「殉教」観に大きな影響を与えた人物として、浅見雅一はアントニオ・フ ランシスコ・カルディンとペドロ・ゴメス(Gomes, Pedro 1535-1600年)の2人を挙 げている。1646年にローマで『日本の精華』を刊行したカルディンは、イエズス会士とし て、ゴアの教育機関で教育を受け、その後ゴアやマカオに滞在し、彼自身に日本渡航の思 いはあったものの、ついに実現せずにその生涯を閉じた人物であった196。ヨーロッパの「殉
193 佐藤吉昭、前掲書、23-4頁。
194 佐藤吉昭、同書、25頁。
195 浅見雅一、前掲書、161頁。
196 浅見雅一、同書、164頁。