第 3 章 概念設定
Ⅲ 言語論的転回を巡って
(1)書かれたもの(エクリチュール)
本稿の問題意識を検証するにあたり示唆的なのは、ポール・リクールである。ポール・
リクールは、言語論的転回の文脈の中で言語論を展開しており、彼の言語論の中には、つ ぎのような鍵概念が出てくる。
165 ゲオルグ・G・イッガース『20世紀の歴史学』(早嶋瑛訳)、晃洋書房、1996年、113頁。
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「記述・書かれたもの」(エクリチュール、écriture)は言語活動の一形態である。リク ールの言語論においては、エクリチュールの他に、「言語(活動)」(ランガージュ・langage)、
「言葉・発話」(パロール・parole)、「言述・言説」(ディスクール・discours)、「体系言 語」(ラング・langue)などが用いられ、それらは他の研究者によっても使用されている が、研究者によってその内容は一致しない。リクールにおいても使用する年代によって意 味が異なってくる166。構造としては、ランガージュを土台としてその上にラングとパロー ルが置かれたものであり167、エクリチュールとディスクールはランガージュを土台とした 際の言語表現の現れ方であると言える。本稿の主題と密接にかかわっている三つの語は、
「記憶」「記録」「伝承」であり、これらが上記の各言語形態とどのように関わってくるか を述べておく。
まず、エクリチュールという語に関してであるが、一般的な仏和辞書によれば「文字」
「筆跡」「書体」「文体」「書く行為」を表す語であり168、そこから言語学・哲学用語とし て「書くこと」「書かれたもの」などを表す語となっている。日本語としては「記述」「叙 述」と訳する事が可能であり、本稿ではこれを「記録」「書く」等に相当するものとして使 用することとする。
巻田悦郎はリクールのエクリチュール概念について、「エクリチュールはすでに生じてい るパロールを後から記すためのものであるだけでなく、パロールを介せずに直接、言述の 意味を記すものでもある。エクリチュールによって固定されるのは必ずしも発話された言 述である必要はなく、むしろ、発話されなかったがゆえに書かれた言述でありうる」169と 述べている。この事は、エクリチュールによって現出した「書かれた物」とそれの言語形 態を受け取る「読者」との関係についてのリクールの見解からも補強される。彼は、エク リチュール(書く行為)とレクチュール(読む行為・lecture)の関係は、〈話す-聞く〉
の関係には還元されず、対話における対話者同士の相互性の関係とは異なり、書く行為あ るいは書かれたテキストは、読者に答えることはないと言う。それゆえ、エクリチュール
166 例えば、1960年代までのリクールは、エクリチュールという概念を軽視し、言語という現象を述べ る時にエクリチュールの語を使用しておらず、「彼にとって言語とは何よりも音声言語」であったと 述べている。だが1970年代になり、エクリチュールは単にパロールと並ぶ言語の一形態であるばか りでなく、パロールに対するエクリチュールの優位性と生産性が主張されるようになっていくのであ る。(巻田悦郎『リクールのテクスト解釈学』、晃洋書房、1997年、102頁)。
167 巻田は、「ラングは個人の言語遂行のためにある社会が採用した取り決めの総体であり、パロールは 主体の話す活動である」と述べ、この二つを明確に区別している。巻田悦郎、同書、100頁。
168 「écriture」、倉片秀憲、東郷雄二、春木仁孝、大木充編『プチ・ロワイヤル仏和辞典、旺文社、2013 年、531頁。
169 巻田悦郎、同書、115頁。
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とレクチュールの間には隔たりが存在するのである170。パロールという営為が常に聞き手
(受信者)の存在によって成り立つのとは異なり、エクリチュールという営為においては、
読者は必ずしも必要ではなく、レクチュールにおいても著者は不在でも構わないという事 になるのである。つまり、エクリチュールとは読者を前提としない伝達であり、パロール とは情報の受信者の存在が前提とされた発話を伴う営為であると特徴づける事が出来るだ ろう。パロールは「聞き手」の存在がなければパロールになり得ないが、エクリチュール は読者が存在しなくとも成立する。その意味においてパロールとエクリチュールは対義的 な意味を有すると言える。
(2)発話(パロール)
次に、「発話」(パロール)についてであるが、パロールとは「発話に伴った言葉」と特 徴づけられよう。とりわけ本稿では、パロール概念を「音声による」営為である事に限定 して捉えたい。パロールは「発話」そのものであって、それ自体に有意味性を持つもので はない。パロールとは、同じラングを共有する聞き手という対象者があって、ラングの文 法(意味)構造内においてのみ有意味性を持つのであり、パロールそのものに情報伝達機 能は与えられていないと言えるだろう。つまり、受け手(聞き手)がその発話を如何に理 解し、如何に解釈するのか、或いはその発話をどのような背景やストーリーとして聞くの かによって、発話は初めて意味ある情報と「なる」のである。パロールが発せられるとき、
同時にエクリチュールが行なわれる事も..
あり、その際は概ね「発話」⇒「叙述」の流れに なる事が多い。特に本稿の津和野キリシタンの「語り」を史料として残す際、「発話」⇒「叙 述」の順序である事が明らかに認められる。先述した通り、それ自体に有意味性を持たな い「発話」は、口述された「史料」を意味するものではない。
後述するが、津和野キリシタンの「発話」は、第一期としては、浦上帰還後の初動調査 がなされた1870-1900 年頃にF・マルナスやルマレシャル171などのMEP172宣教師らに
170 巻田悦郎、同書、116頁。
171 ルマレシャル(Lemarechal, jean-Marie-Louis 1842-1912年)は、レンヌ司教区内に生まれ、1866 年に司祭叙階、69年パリ外国宣教会入会。1870年に来日し、以後日本で活動を続けた。没後は静岡 カトリック教会墓地に葬られた。日本キリスト教歴史大事典編集委員会、前掲書、1509頁。
172 パリ外国宣教会(Société des Missions Étrangères de Paris.)カトリック男子修道会。外国宣教を目 的とする教区司祭による最初の宣教会。日本には、1831年、布教聖省の委託を受けて中国東北部、
朝鮮、または香港を経て接触を図り、1844年、T・A・フォルカード(Forcade, Theodore Augustin)
が那覇に上陸し、MEPの初来日となった。
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よって行われた。第二期は、流配第一世代が次々と死去する事に憂いをもつカトリック司 祭浦川和三郎によって1915年-30年頃に行なわれたものである。その際「史料」となる のは「音声録音」ではなく、パロールがエクリチュールされる、「発話」⇒「叙述」という 順序を辿って書かれたものと言える。同然の事ながら、全ての場合においてこの直線的順 序で行なわれた訳ではないにせよ、「聞き取り調査」として行なわれた部分においてはこの 順序が成り立つ。この二つの時期に行ったのは異なる宣教師・司教であるが、行なわれた ことは現在の語では「浦上に帰還したキリシタン流配者へのフィールドワークとインタビ ュー調査」ということになるだろう。
単に「音」であることも「パロール」であり、その中に「伝わる」(情報伝達)が含まれ ることもパロールである。すなわち伝達を含むパロールと含まないパロールの両方が「音」
として起こるのであるが、コミュニケーションという観点からは「パロール」は情報伝達 である。所謂古典的なコミュニケーション理論としては、発信者がいて受信者がいる、と いう両者間の出来事の中に「会話」「意思伝達」が存在するという事になるが、言語論的転 回やポスト構造主義的な観点からは、情報が如何に表現されるかが情報よりも重要になる のである。この視点から検証する場合「フィールド的問題」とも表現できるような事態へ の着目が必要不可欠となる。「フィールド的問題」とは、情報伝達の「機会」が如何なる場 所で起き、如何なる状況で伝えられ、伝達される情報が何によって運ばれてくるのかとい う事である。フィールド論的な視野から出来事の伝達を考える際、例えば、宗教改革期の 活版印刷やIT革命のような「技術的次元」や、有名著作家や流行語などの影響による「言 語の文体的次元」、あるいは「何によって」「何の枠組み」によって情報が運ばれるか、と いうテクスト論的検証の重要性も生じてくるのである。出来事を語る際、何らかの「枠組 み」を「乗り物」として情報は運ばれてくるのであり、その「枠組み」(乗り物)如何によ って情報自体が変わってきてしまう。それが本稿における重要な視点となる。口頭で語ら れたものが「エクリールされた」「書きとめられた」、というだけではなく、そのエクリー ルという営為が、どのような文脈で「聞き取られ」た上で「書かれたのか」という事であ る。インタビュアーであるマルナスや浦川が聞こうとしている事は、インタビュイーであ る「殉教者の声」や「殉教者の代弁者たちの声」を聞くことであり、その声は「どんなに 苦しく悲惨であったか」「どんなに過酷で厳しい環境であったか」という枠組みで聞き取ら れる事を必要とするのである。彼らが浦上キリシタンたちに行なった「聞き取り」という 営為には「枠組み」(ラング)が前提となっており、それが彼らインタビュアーにとっての