1.2. オリンピック序論
1.2.3. 神話、記憶、国内オリンピック大会
歴史が不連続であることの証なのだろうか。そう信じる人もいるだろう。
オリンピックという名の川の流れは、石灰岩の台地を流れる川のように、紀元4世紀のある時点 で姿を消し、最近の千年間に再び ― それも時折 ― 地表に見え隠れした。 そして、19世紀末
のヨーロッパに突然、力強く、清く澄んだ姿を現した。
これを根拠として、近代オリンピックは古代ギリシャに何も負っていない、と断言できるのだろうか。
史実を検証するよりも、起源を「神話化」する誘惑に駆られてしまうのではなかろうか。歴史が伝え る物語を受け入れたほうが、ずっと楽ではなかろうか。
しかし、それでは現在に対する挑戦を避けることになる。
オリンピズムは、とかく人類を救う福音であるかのように自らを装う傾向がある。
混乱、そして性急な結論・・・ネオ・クーベルタン主義も決して例外ではない。
しかしながら、古代オリンピアも、肉体を持たない霊魂のようなものではなかった。
ギリシャ神話自体は、常に、社会的な血も肉もある人間について語っている。
例えば、古代ギリシャの作家パウサニアスは、ヘラクレスが兄弟たちと一緒に最初のレースを開 催したことを物語ってくれるが、同時に、その者たちが青銅の細工師であったことも知らせてくれる。
こうして、われわれは鍛冶屋の儀式を思い起こすことになる。
詩人ソフォクレスは『エレクトラ』のコーラスでペロプスの戦車を使い、決闘の勝者を無罪にした 神明裁判の部族儀式を彷彿とさせている。
また、アカイア人とドーリス人の武力闘争はどうなのか。彼らはエリスを ― つまり、エリスにある オリンピアを ― 手に入れ、オリンピック大会開催の権利を得ようとして闘ったのだ。
クリュメニアとエンデュミオーン、ペロプスとアミュタオン、ペリアースとネメア、アウゲイアースとヘ ラクレスは、一体どうなのか。
デルフォイの神託に従ったイフィトスの伝統回帰の裏には、何があったのか。それに、歴史家テ ィメアによって遅ればせながら提案された紀元前776年という年は、どう解釈すべきなのか。この年 号は、あらゆる都市国家に共通の基準となり、オリンピアの勝利者の有名なリストの故に年代参照 のための便利な基準となっている。
神話と物語と史実と記憶のそれぞれに相応しい場所を与えるのは容易なことではない。
しかし、オリンピック競技会が、何世紀もの間、西ヨーロッパ人の記憶の中に常に存在していた ことは疑いない。キリスト教の影響が大きかった中世であれ、ルネッサンスであれ、近代であれ、絶 対王政や大革命の時代であれ、オリンピックの記憶は、その時々の最も輝かしい作家の筆を通し て生き続けてきた。
19世紀の中ごろ、この記憶が急激に高揚した。教育問題への強い関心が再び高まったこと、啓 蒙時代の哲学の影響で教育者の目が再び身体の尊厳のほうに向き始めたこと、ドイツやスイスの
〈博愛主義者〉たちの具体的な業績、ギリシャの解放に触発された古代ギリシャへの情熱、身体教 育の方法をめぐる西洋での意見の相違・・・これらすべてが結びついて過去の再発見を促し、本 来は二義的に過ぎなかった現象、オリンピックを西洋文明の重要な構成要素にまで押し上げたの である。
創造的な力の胎動が感じられる。しかしながら、オリンピック大会の復興は当然だと思わせるほ ど強い力ではなかった。技術、経済、政治、商業、社会、文化など、数多くの分野で複雑な条件
が整わなければならなかった。もちろん、人的要素も重要だった。私欲、野心、意欲、夢見る傾向 が、他の人々よりも強い個性が必要であった。
成功は、内部から発する成熟の度合いにもかかっていた。ある程度の理論づけがなければ、実 際の企ては失敗してしまう。たとえ物質的条件が十分に整ったとしても、意味づけに欠けていたの では、せっかくのオリンピックも、お祭り気分の商業的な集まりか、せいぜい単なるスポーツイベント に留まることになる。
十分な物質的条件が整ったとしても、かくあれかしという関係者の確固たる決意がなかったら、
オリンピアが生き返ることはなかったであろう。
このような見方によって、われわれは、近代オリンピックを長い間かかって築きあげることになっ た数多くの試みや成功、失敗の意味を把握することができるのである。
その最初は、古典文学作品の象徴主義である。
1516年、パウサニアスの著作とピンダロスの『頌歌』の初のフランス語訳が発行された。モンテー ニュは、その『エッセー』の中で「大勢の人が集い寄る盛大なオリンピック大会」について触れてい る。そこでは「ある人々は大会で栄誉を得るために体を動かし、他の人々は利益を得るために品 物を持参して売りさばく。そのほかに、決して悪いというわけではないが、事の成り行きを傍観して いるだけの人々がいる。他人の生き方を見て、それを自分の生活を方向づける判断材料にしよう という人々だ。ピタゴラスも述べているように、われわれの生活も似たようなものだ」。
古典文学は、伝統に正当な裏づけを与える一方、その大会をとりまく状況を描き出していた。ス トイックな人々は、いつの世にもいた。
1723年、フランスのベネディクト派の僧侶ドン・ベルナール・ド・モンフォーコンは、コルフの大司 教クイリニ枢機卿に「パウサニアスの著作によれば、オリンピアの遺跡には、神聖なモニュメントや 奉納された碑文が隠されている」と書き送っている。
専ら古代オリンピックの歴史について語った最初の本は、1732年にオランダのグロニンヘンで 発行された、神学者テオドルス・アントニデスによって書かれたものである。
1763年、近代考古学の父とされるドイツ人、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンがオリンピア発掘の 先頭に立った。しかし、彼は1768年に早世し、プロジェクトは中断された。 イギリスの科学者で探 検家でもあったリチャード・チャンドラーは、エリス一帯を徹底的に探索し、オリンピックの遺跡の発 見に努めた。
1787年、フランス人セバスチャン・フォーベルがゼウスの神殿を発見した。
1780年、T・B・ホリスはハーバード大学の学長ジョセフ・ウィラードに手紙を送り、「もしアメリカが
“ギリシャの原則に則って”行動し、アメリカの地でオリンピック大会を再生させることができたら素 晴らしいであろう」と述べた。
1831年には、イギリス人スタンホープ卿が、スタジアムとその周辺の精密な見取り図を書いてい る。
1829年、建築家アベル・ブルーエと彫刻家ポール・デュボワは、考古学者や科学者を交えたフ ランスの調査団 ― モレー調査団と呼ばれた ― を率いて現地入りし、ゼウス神殿の一部を発掘 した。
しかし、オリンピアの遺跡の発見者としての名誉は、ドイツの考古学者たちと、その押しも押され もせぬリーダー、エルンスト・クルチウスのものである。クルチウスの発掘作業や発見がもたらした 学問的な反響の大きさは、大変なものだった。
世界中の学会の支持を得て、大規模な発掘が1875年から1897年まで行われ、さらに20世紀を 通じて続けられた。
ピエール・ド・クーベルタンは、IOCの書庫に収められている未公開のメモのなかで、1889年7月 21日に、パリでポール・モンソーによって行われた『オリンピアの発掘』をテーマとする講演に触れ ている。この講演が1889年の「身体運動に関する会議」のわずか数週間後に行われたことは注目 に値する。
オリンピアの発掘は、西洋のエリート知識人の情熱をかき立てただけでなく、世論をも刺激した。
これに触発されて、世の中の動きは次第に高まりを見せ、ついにオリンピック大会の復興へとつな がっていく。クーベルタン自身が、この現象を地で行くような存在だった。「・・・古代史の中で、オリ ンピアほど私に夢を抱かせてくれた存在はない。この夢の都市は、形の上では、厳密に人間と物 質のために捧げられていながら、そこをおおう愛国主義の理想によって清められ、高められて、あ たかも生命の飛躍を生み出す場所のように、私の青春の心に、列柱と柱廊を浮かび上がらせてい た。その廃墟から再生の原則を引き出すことを考える遙か以前に、私のイマジネーションはその再 建、そのシルエットの線を再び立ち上がらせることに満たされていたのである。ドイツはオリンピア に残っているものに光を当てた。フランスがその栄光の再現に成功しないはずはない。」
事実、16世紀以来、オリンピックの神話は、民衆レベルの競技会に文化的な光を投げかけて止 むことがなかった。デイビッド・C・ヤングという作家は、これらの競技会を、ためらうことなく《疑似オ リンピック》と呼んでいる。基本的にはこの考え方をとらないにしても、あまりに軽視されてきたとゆ わざる得ないこの角度からの指摘をしてみたい。
歴史家の注意を引く最初の《疑似オリンピック》は、ロバート・ドーバー (1575-1652)によって開 催された《コッツウォルド競技会》である。カトリック教徒のイギリス紳士ドーバーは、弁護士でスポ ーツマン、反ピューリタンの人であった。
1834年7月14日、スウェーデンのルントにあるカール王立アカデミーの教授で、リングの弟子で
もあったグスタフ・ヨハン・シャルタウが《オリンピック》大会を開いたのは、同国のラムレーサでのこ とだった。