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彼の仕事の基礎

ドキュメント内 IOC百年統合版用表紙 (ページ 42-47)

1.3. ピエール・ド・クーベルタン、十字軍戦士そして伝道師

1.3.1. 彼の仕事の基礎

歴史が創られるとき、クーベルタンはいつもそこにいた。

何ものも、彼が演ずべき役割を予め用意したわけではなかった。むしろ彼は、新世紀の挑戦に 応えようとしたのだ。彼のモットー、「ハッキリと見、正しく考え、断固として行動する」。クーベルタン は時代に先んじていた。

やがて彼は、創造的なイマジネーションについて書く筈であった。彼の才能を刻印するこの特 質は、白昼夢を見る生来の性向、反逆的な気質からきていた。

クーベルタンはけっして傍観者の立場にはたたなかった。常に最前線にいた。

クーベルタンは、1863年1月1日、パリで生まれた。フォーブル・サン‐ジェルマンのすぐ近く、ウ ーディノ街20番地である。

彼は豊かな地主貴族の出である。両親は年金と小作農の地代で暮らしていた。

父の名はフレディ、イタリア、ビテルボに起源をもつ古いバロア家の末裔であった。  彼の祖先 はルイ十一世によって貴族に列せられ、18世紀に、パリの近くのシェブリューズの谷間にクーベル タンの土地を取得した。

母方の祖先は、ウィリアム征服王の勲爵士の一人で、ヘースティングズの戦いから帰って、領地 としてセーヌ河口に近いミルビルの公爵領の森の一角をもらった。

後年彼はここに城のある農園をつくった。名誉の紳士として、礼服と剣の人として、クーベルタン 家の人々は王につかえた。時として皇帝に。そして常にフランスにつかえた。

クーベルタンの父、シャルル・フレディは画家であったが、全ての審美的誘惑や政治的過激主 義から遠い、形式を重んじる画家であった。

母、マリー‐マルセル・クリズノアは、教育と教養のある女性であった。このことは見逃すわけに はいかない。彼女はウェルギリウスを原語で読み、ピアノを演奏し、タピストリーを織り、貧しい人た ちの面倒をみた。

クーベルタン家は正統主義者で、ブルボン家とボナパルト家を同じように憎み、ただ二人の王、

フロ‐スドルフ(オーストリア) に亡命中のシャンボール伯爵とローマを支配している教皇しか認 めなかった。

四人兄弟の末っ子であったピエールは、母と姉に甘やかされた。父親は画架と自分のクラブの テーブルの間を往復するばかりで、息子の教育にはほとんど興味を示さなかった。  これが、若い ピエールの、母親との緊密な関係、創造的な傾向を持った心、繊細なイマジネーション、父親の マナーや社交的な礼儀作法に対する反発を説明しないだろうか。 

ミルビルの家でも、断崖で有名なエトルタの海水浴場でも、ウーディノ街のルイXV世サロンでも、

子供時代のピエールはなかなかの話し手であった。彼の考え深い共和国擁護論は聞く人を驚か せた。この人生の早い時期に、既に彼の将来の姿を感じることができる。

バルカンの戦争がだらだらと続いていた。問題はオットマン帝国と共に古いものであった。ピエ ールは、自分で開かれた平和主義のユートピア王国を築きあげた。彼は歴史の流れに従って「ク ロアチア人」であった。

  「私のイマジネーションは自由に羽ばたいた。耳に入る政治論議に大変な興味をもった」。彼 は都市計画者、建築家、造園者、鉄道技師、総司令官、衣装係であり、作曲し、課税し、国歌さえ つくった。

冬になると、王国の「艦隊」がミルビルの池に錨を下ろした。彼は法律をつくり、勅令を出し、「オ フィシャル・ジャーナル」を発行し、賢く博識の演説をした。

彼は創造神であり、幸せであった。

学校がこの牧歌的な子供時代に終止符を打つことになる。先生が家庭教師に代わった。  彼は 半寮生であった。これは当時の「革命的」発明で、そのお陰で彼は毎晩自分の部屋に引き上げ、

白昼夢を再び続けることができた。

両親が、高い身分に伴う義務として、彼を入れたマドリッド街の学校はできたばかりで、大きな窓 があったが、なお壁に囲まれていた。

更に、ジェスイットは規律というものを軽くは考えていなかった。聖イグナティウスの訓令が適用 され、生徒に対してもほんのわずか緩められているにすぎなかった。

しかし、精神が最も美しい殿堂を築くのは束縛の下ではないだろうか?

そしてそこには、文化と社会の基礎である古典文学があって、ギリシャの歴史が教えられていた。

最近のギリシャの開放も、人々の想像力をかきたてていた。

オリンピアの崇高さとストア哲学の美があった。

夢想のなかで、ピエールはゼウスの神殿を再建し、ピンダロスと語り、スタジアムで競走し、エレ ウシスの密儀を自から主催した。

明らかに、彼のギリシャは型にはまった月並みなものであった。

アキレスやコロエボスの功績と、メソロンギの防衛軍の勇気やバイロンの英雄主義が、みなない 混ぜになったものであった。

この時既に、クーベルタンにとってシンボルが非常に重要なものになりはじめていた。  しかし、

11才の子供にとって、自分が歴史をつくっているという感じは、とりわけ嬉しいものだったに違いな い。

ヨーロッパは強力であった。18世紀以来、ヨーロッパのブルジョアにとって、パリでも、セント・ペ テルスブルグでも、ロンドンでも、ローマでも、一切の文化的境界線は存在しなかった。

クーベルタン一家はその典型であった。彼らはスパの水をとり、ロンドンで晒したリンネルを使い、

ドイツの博物館を訪れ、ローマで祈った。

1879年、彼らはブレンナー峠を越えてフロースドルフを訪れ、オーストリアに亡命してフランスの 王権を主張しているシャンボール伯爵に忠誠を誓った。

子供心にもピエールは、ヨーロッパがフランスに、そして世界がヨーロッパに引きつけられている ことを知っていた。

感じやすく、早熟な若いクーベルタンは、働く必要のない程の財産を持ったエレガントで教養の ある人達の間で暮らしていた。

ミルビルやサン・レミー・レ・シェブリューズやウーディノ街の図書館を彼は自由に使えた。彼の 文化と文学に対する愛は、身体と社会の開放への渇望を伴っていた。

それは「良い家系の紳士」である彼自身の家の図書室によって証明される。そこでは古代、現 代の歴史についての作品が一際目立っていた。

我々が既に見たように、1872年、ピエールは「ジュルナール・ド・ジュネス」のなかに「トム・ブラウ ンの学校生活」 (ラグビー校の卒業生トーマス・ヒューズによって書かれた) を見つけた。それは まさに天啓であった。 

彼にとって、ラグビー校の壁の外の田園を走ったり、野ウサギと犬の遊びをしたり、ボールを蹴っ たり、郷士や准男爵の息子たちである仲間と一騎討ちをしたり、殴り合いをしたりするのは何と楽し かったことか。

貴族であること、真の紳士として弱き者、貧しき者を守らなければならないのは何と名誉なことか。

こうしてピエール・ド・クーベルタンは育った。

自分の過去に忠実に、そして同時代の衆に抜きんでようという熱意を持って。

聡明で、ユーモラスで、教養に溢れて、彼はベルエポックのパリジャンの生活を送った。彼は上 流社会の若者たちの人気者であった。

クーベルタンには、何世紀にもわたる洗練された生活の内に自然にはぐくまれた、決して学ん だものではない、些細なディテールからなる控えめなエレガンスがあった。

頑固で、中庸で、シャイな彼は、フランスのための他のライフスタイルのビジョンを持っていた。

末っ子であった彼は、外交官や、士官や、母親の望んだような神聖ローマカトリックとローマ教 皇の聖職者にも、なろうとはしないだろう。

1880年、拒否と不確実さに直面し、エコール・リーブル・デ・シアンス・ポリティックの非登録学生 として入学した法科での、喜びのない一年のあと、彼は伝統に背を向ける。  17才で、文学と科学 の二つの中等学校卒業の資格を得ただけだった。

1885年、法学士の称号を得たが学問的価値はほとんどなかった。

その時以来、クーベルタンは才能の「自己教師」であることを証明しなければならなかった。彼 の先生は、トックビル、テーヌ、ル・プレであった。これらの人々と古代ギリシャの師たちとの間に断 絶はない。

20世紀の夜明けは、ヨーロッパ文化の記憶の絆で昨日の世界と結び付けられていた。  彼の友 の一人というべきは、後にイギリス首相となったオースチン(アルツール?)・チェンバレンであった。

クーベルタンの心はチェンバレンと共に、伝統の緑の田園と、現代の未だ洗練されていない風景 のなかを彷徨した。

政治学部は因襲的な型にはまった公立大学に対抗するものとしてつくられた。そこでは、テーヌ が彼の知性の輝かしい力をフルに発揮して講義をしていた。

テーヌと彼の弟子、アルベール・ソレル、ピエール・ルロア‐ボーリュー達にとって、最良の政府 とは、自然の法を尊重する政府であった。ダーウィンが証明したように、適者だけが生き残るので ある。テーヌは社会的階級の存在することを否定しない。しかし、すべての「自然の」教育は、神聖 な階層を再形成することを目指すべきである。

選ばれた、肉体的に強い、知的に聡明な貴族が設計し、導き、平民は働き、生産する。

テーヌは民主主義の理想の形を、社会の階層を尊重し、未来の挑戦に直面するイギリスの議会 制度とパブリックスクールの中に見た。パブリックスクールでは性格形成に重点を置き、公のため に献身することを教えていた。

テーヌは、クーベルタンが最も共感した教育哲学者であったに違いない。

彼は、人生の後半、重要な決定を下さなければならない時、テーヌからインスピレーションを得、

彼に相応しい行動を選んだ。

テーヌは彼に、彼自身であることを教えた。そして同時に、自分自身の本性に忠実であり続ける

ドキュメント内 IOC百年統合版用表紙 (ページ 42-47)