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セッションと人

ドキュメント内 IOC百年統合版用表紙 (ページ 115-121)

1.5. 少数の選ばれし仲間

1.6.7. セッションと人

ハーグ、1907年‐ロンドン、1908年

第9回IOCセッションは、1907年5月23日から25日までハーグで聞かれた。

コンソール王子が後援を引き受けた。クーベルタンは10年任期の会長に再選された。

ヨット競技においては、「地元の有給のセーラーが乗っていても」ヘルムスマンが金を貰ってな ければその艇はアマチュアであると宣言された。

イギリスの代表によって見事に準備されたロンドン大会のプログラムは全会一致で評価された。

初めて、国際ボート競技がテームズ河で行われる。テームズ河はひどく外国人嫌いなアマチュア ローイング協会の神聖な河であった。

沢山の外国人「競技監視員」に付き添われたイギリス人審判が登場するであろう。

セッションは、もし国籍についての難しい問題が起こらなければ平凡なもので終わったであろう。

これは初めてのことであった。「武装した平和」がオリンピックの領域に入ってきた。

オーストラリアは大英帝国自治領であったが、その遠距離のために最初からIOC委員を持って いた。イギリスはこれに反対しなかった。

しかしロンドン大会(1908)の機会に、カナダ、南アフリカ、ニュージーランドがイギリス女王に忠 誠を誓いながらも、それぞれ国家としての明確な地位を得ようとするのは確実であった。

問題はこみ入っていて、IOCの法律専門家を困難な立場に追い込んだ。

スポーツ上の国籍の考え方を採用すべきなのか、これには移住した国の国籍という考え方が含 まれる。それとも中央集権的な、帝国の国籍を維持すべきなのか?

ボヘミアは、イェリ・グートの説得力のお陰で、クーベルタンがスラブ体操協会の伝統を考慮して 1894年に認めた特別の地位を守ることができるのか?

しかし、どうやってこれを、苛立ちを見せているオーストリア人やオーストリア皇帝やドイツ皇帝や ロシア皇帝に説明できるのか?

IOCは超国家的団体として、既に爆発寸前の政治状況を更に複雑化する権利はあるのか?

イギリスの特殊性から起こったもう一つの難問はメートル法に関するものであった。

メートル法は英仏海峡の向こう側では拒否されていた。押しつけるべきか、挑戦を許すべきか?

イギリスの選手か外国の選手のどちらかが不利をこうむらねばならないのか?

結局、我々も知るとおり、メートル法が勝利をおさめた。しかしこれは長い議論の末であった。イ

ギリスの名誉は傷ついた。

最後に、IOCは激しい攻撃に晒された。強くなってきた国際競技連盟は自分のたちのスポーツ を自分たちで組織する権利を要求した。

しかし、大会プログラムは二つの部分に分けられることが決まった。

冬の競技がアイススケートの形で登場したのである。

1908年7月13日から16日まで行われたロンドンセッションは力の均衡には何の変化もたらさなか った。広報関係を主として扱った偵察のラウンドであった。賞状やカップが授与された。

これは必ずしも問題を避けようとしたのではなく、会長がオリンピックムーブメントに密度を増すこ とを望んだ現れと見るべきであろう。

ストックホルムは1912年の大会に立候補した。その後すぐベルリンが続いた。

大会の優勝者と最も模範的なスポーツ協会に与えられた芸術トロフィーは本部に帰ってくるま でに時間がかかった。

目録作成のために委員会がつくられたが、何十年も宙ぶらりんのままであった。

当時IOCメンバーは36人であった。彼らが明らかに冬眠している内に、IOCは拡大し、しっかりと 確立し、力を得た。 IOC会長は相変わらず決意に満ち有能であった。

1.6.8.ベルリン(1909)におけるIOC

これは「オリンピックメモアール」の中ごろに現れる第10章のタイトルであるが、安堵の叫びのよう に響く。

IOCは難しい時期を経験していた。成長するに従ってIOCは或る者を苛立たせ、敵をつくった。

国際競技連盟はIOCと大会組織委員会の間で適切な仲介者として行動することが余りに少なかっ た。揉め事は厄介なことになりそうであった。

会長はこの下り坂に歯止めを掛け、状況を見直す時だと感じた。ベルリンセッションは、振り子 の原理で、「技術的なもの」でなければならなかった。

新オリンピズムの歴史の初めから、ドイツは全ての努力に加わっていた。

例えそれが大国主義的、官僚的な理由からであったにせよ。

ドイツはコングレスの創立からは除外されていた。しかし先ずゲップハルト博士、次いで将軍ホ ン・デル・アッセブルグ伯爵、そしてヴァルテンスレーベン伯爵がドイツオリンピック委員会のしっか りした枠組みをつくった。

セッションはプロイセン貴族院の大レセプションホールで5月27日から6月2日まで、ドイツ皇太子 後援の下に行われた。1908年7月20日ロンドン大会中に亡くなったデメトリウス・ピケラスのために

短い弔意が表された。

セッションを準備したホン・デル・アッセブルグ伯爵も3月30日に亡くなった。

彼を継ぐことは、ヴァルテンスレーベン伯爵にとって易しい仕事ではなかった。

組織は完璧であった。真剣な組織的なアプローチとドイツ委員会の熱心な仕事が素晴らしい結 果を生んだ。

セッションのプログラムは延長された。

会議が始まって2日目、スウェーデンが1912年大会の開催都市に指名された。ベルリンは立候 補を取り下げ、非公式に1916年大会に立候補を延期した。

再び、大会のプログラムが問題になった。新しいスポーツを加えるべきか? 大会の種目は個人 競技に限るべきか? 大会から女性を排除したままでよいのか? どの種目をやめるのか? 結局、

問題は1910年のセッションに持ち越された。

年代記作者は、開催都市がプログラムの問題を取り上げたのは、オリンピック復興から15年経っ た1909年のことであったと記している。成長の印であった。

しかし彼はまた、競技連盟と各国オリンピック委員会が不十分であったので、憲章上は権限の ないIOCが決定しなければならなかったと記している。

1909年には各国オリンピック委員会はほとんど存在していなかった。そしていくつかの国内スポ ーツ連盟がその代わりをしていた。ボヘミア、スウェーデン、イギリス、ドイツだけが高度に組織され た国内オリンピック委員会を持っていた。

ベルリンセッションでは、アマチュア問題はストックホルム大会のプログラムと一緒に問題になっ た。どの種目を受け入れるべきか、大会期間はどうするか?

フランス人メンバーであった、クーベルタンの従兄弟、アルベール・ド・ベルティエ・ド・ソーヴィニ ー伯爵がイギリス紙「スポーツティングライフ」の提供した記録に基づくレポートを発表した。

際どい闘いであった。手に入れた記録に基づいて、ベルティエは率直に語ってもよいと考えた。

彼は「問題の四つの主要な要素」を持ち出した。金、「接触」、コーチング、そして選手と選手の所 属する協会の関係である。

彼の調子は攻撃的で、何人かはあまりに急進的であると考えた。とても過半数の賛成を得ること は無理であった。苦い薬を口当たりよくするために委員会がつくられた。

スローン(アメリカ)、クック(イギリス)、ムサ(ハンガリー)がメンバーとなり、世界中のスポーツ連 盟、協会に質問状を出すよう求められた。

ベルリンでの第11回セッションは、委員会のなし遂げた仕事と、プログラムを削減し期間を短縮 して大会の巨大化に対して戦う決意を表明した点で重要である。

初めて広大な極東の他を代表するメンバー(日本)が加わった。

IOC会長は確固たる支持を得て、今や更にペースアップできることになった。

1.6.9.ルクセンブルグでの小休止‐1910年

「オリンピック・レビュー」に載せられたこのセッションの議事録。

ルクセンブルグでのセッションは1910年6月11日から13日に行われ、当面の問題を処理する所 謂ワーキングミーティングであった。

ルクセンブルグ市庁舎で行われ、国務大臣アイシェンがIOCを讃えた。

クーベルタンは喜ぶと共に驚いて新しい決意に満たされた ―まだ多くの批判者がいたのだ―。

クーベルタンはこの演説の中に「意気地のない臆病さの傾向に対して戦う」貴重な勇気付けを感 じた。

次はブダペストセッションであったが、クーベルタンはハンガリーの当世風の社会生活が及ぼす だろう影響を薄々感じて、「もっと中立的な」街でIOC委員会を前もって開きたいと思った。

アルゼンチンのメンバー、マニュエル・キンターナは「オリンピック大会」という言葉を個人的な広 告のために不正に使用して、IOCから追放された。

倫理は笑い事ではない!

イタリアのメンバー、国家評議員アッティリオ・ブルニアッティがオリンピック大会の模範的な性格 を護るために、各国政府にスポーツ競技の試合の数を減らすよう要求せざるを得なかったのは、

高まりつつある矛盾の兆しであった。

クーベルタンはバルクとフォン・ローゼンがストックホルム大会(1912)で芸術競技を開催できな かったことで「厳しく」両人を叱った。彼はそうしたコンテストが復活されないなら、大会に出席しな いと脅しをかけた。

ベルリンでアマチュアリズム問題の担当に任命されたメンバーはレポートを提出し、オリンピック の類型分類に従って、ある種のカテゴリーの競技に単一の定義をつくる意見を委員会に再付託し た。

ここでIOCの現会長の意見と問題全体の結論を考察するために小休止してみるのもよいだろう。

クーベルタンは、アマチュアリズムの問題がとくに気になることはないとしばしば繰り返していた。

それは単なる「スクリーン・ふるい」として役に立つというわけである。

しかしクーベルタンはここでは、「斥候」として振る舞わなければならなかった。

スポーツマンの大多数は一般大衆と同じようにこの問題に強い関心を抱いていた。

彼は従って、接触を失わないためにとりあえず同意の振りをしなければならなかった。

クーベルタンにとってスポーツは「宗教、教会教理礼拝を伴う宗教であった 何よりも大切なの は宗教感情であった。」

「私にはスポーツ選手が5フランを受け取ったかどうかで全てが決まると考えるのは、教会を守る 聖堂番がサラリーを受けとるので直ちに不信者と考えるのと同じように子ども染みたことに思える。」

ドキュメント内 IOC百年統合版用表紙 (ページ 115-121)