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パリコングレス、1894年―オリンピックの復活

ドキュメント内 IOC百年統合版用表紙 (ページ 53-58)

1.3. ピエール・ド・クーベルタン、十字軍戦士そして伝道師

1.3.5. パリコングレス、1894年―オリンピックの復活

  「私はあまりに楽観的であったことに気がついた... 」 この言葉がすべてを語っている。

クーベルタンはどうやって時勢に迎合すべきかを知っていた。否定的な世論に正面から立ち向 かってはならない。出し抜いて勝利を収めなければならない。

それが、クーベルタンの新しい計画であった。彼はフランス競技スポーツ協会連合(USFSA) の友人とともに実行にとりかかる。USFSAのファイルの中に、アドルフ・ド・パリッソウが提案した「ア

マチュアリズムの問題を解決するための」国際会議のプロジェクトがあった。このプロジェクトがファ イルの墓のなかから掘り起こされるのである。

クーベルタンは自分の理想を粘り強く追求した。USFSAが殿堂の柱にならなければならない。

基本的な憲法を制定するコングレスは最初から国際的なものでなければならない。

会議についての原則は連合によって受け入れられた。

1893年8月1日、クーベルタンは準備プログラムを提出した。これは彼自身の手で書かれていた。

そして「アマチュアの運動についての研究と普及のためのパリ国際会議」と題されていた。

三人の役員が準備に当たった。C.ハーバート、アマチュア体育協会事務局長、イギリス及びそ の植民地担当、W.M.スローン、アメリカ大陸担当、ピエール・ド・クーベルタン、フランス及びヨーロ ッパ大陸担当。

最初の問題は体操であった。ジョゼフ・サンブッフ、体操協会連合会長がドイツ代表団と同じ部 屋に入ることを拒否した。

ベルギーでは、1894年5月15日、N.S. キュペルスがベルギーの体操家に「体操とスポーツは全 く正反対のものだ」と言う理由で参加を禁じた。  クーベルタンは苛立った。

クーベルタンは1894年、ベルリンの新聞「スポーツ」にアピールを発表したが、時すでに遅かっ た。ただ一人「ライフェンシュタイン氏」が、個人の資格でコングレスに参加した。サンブッフは反対 しなかった。

同時に、参加希望がニュージーランド、ジャマイカ、アミアン、ボルドー、ディエップ、ルーアンか ら届いた。イタリアとスペインの体操連盟、またセント・ペテルスブルグとアテネの体操協会も参加 した。スウェーデンは、ビクトール・バルクの仲介で、喜んで参加すると答えた。スパルタ大公、ベ ルギー国王、プリンスオブウエールズ、スウェーデン皇太子、アウマール公爵など多くの政治家が コングレスの名誉委員に名を連ねた。

フランスでは、カシミール・ペリエ首相が辞退したので、結局一般の人の目には外務省の人と映 っていたクールセル男爵が、自分はスポーツマンではないがと断りつつ、コングレスの主催を引き 受けた。

クーベルタンは、ここ数年の間に接触のあった外国の人々に、数多くの手紙を送った。イリ・グ

‐ト(ボヘミア)に宛てた1894年2月24日の手紙には次のように書いてある。

  「11月7日にニューヨークで、2月7日にロンドンで開かれた会議は、我々のコングレスに国際的 な性格を与えていますので、私はボヘミアの参加を強く望んでおります。これは私の責任範囲の 問題です。」

全てが彼の責任範囲という訳ではなかったが、クーベルタンはグ‐トへの手紙で触れた世界中 の「教師やスポーツ人」にも接触したようである。これはコングレスの名誉会員のリストから窺われる。

クーベルタンがどれほどの熱意を持って働いたかをみると、我々は感動しないわけにはいかな い。彼は自分のやり方が正しいことに確信を持っていたが、用心深くステップを踏んでいかなけれ ばならなかった。彼はあらゆる人と相談をした。とくにイリ・グ‐トと相談した。どの協会を招待す べきか、その事務局長の宛て名、通知を出すべき主な新聞(スポーツそして政治の)、「能力と位 置からいって特別招待に値する」市民は誰かなどについて。クーベルタンは政治、社会のあらゆる 階層に入念に目を通した。

1894年5月迄に、クーベルタンのパリの住所、ウーディノ街20、ここがコングレスの事務局になっ ていた、に届いた返事はほとんどなかった。そこでクーベルタンは最後のアピールを、返信用カー ドを入れて送った。受け取ったもののうち返事したのは、やっと一ダースであった。1894年のコング レスは、とりあえずフランスの出来事となるはずであった。

憲章制定のための第一回オリンピックコングレスは、1894年6月16日から24日まで、ソルボンヌ の大講堂で開催された。最初のテーマは「アマチュアスポーツの原則の研究と普及、そしてオリン ピック大会の復活」となっていた。しかしこのあと、クーベルタンは一気に攻勢にでた。最終的に、

コングレスは「オリンピック大会復活のためのコングレス」とタイトルを付けられた。

USFSAが主催、レオン・ド・ヤンツェが会長、クーベルタンが事務局長であった。

二つの委員会がつくられた。第一はミッシェル・ゴンディネ(フランスレーシングクラブ)が委員長 をつとめ、アマチュアスポーツの問題を取り扱った。

第二の委員会はデメトリウス・ビケラスの下でオリンピック大会を扱った。

ビケラスはパン・ヘレニック体操協会会長で、このあとすぐに第一代IOC会長となる。

  開会式は 6月16日行われた。フランス共和国大統領カシミール・ペリエは出席を辞退したの で、大統領の外交官の友人、クールセル男爵が代役をつとめた。彼はスポーツが健康を増進し、

階級間の垣根を取り払い、国際協力を推進すると強調した。オリンピック大会が復興すれば「各人 民の間に平和をもたらす大きな要因になるであろう」と述べた。

祝典とレセプションは会議の最後に行われるのが普通である。しかし、クーベルタンは順序を逆 にした。参加者を好意的で、ものごとを受け入れやすいムードにするために。

初日の祝典の中心は、最近デルフォイの廃墟で発見された、アポロ讃歌であった。

テオドール・ライナッハが翻訳し、ガブリエル・フォーレが交響楽曲に作曲した。

クーベルタンが「ジャン・アイカールによる高雅荘重な頌詩」と呼んだ詩は、オリンピック大会の 高貴な性格を讃えるものであった。こうして、コングレスの冒頭から、「ヘレニズムが巨大なホール 全体を満たし、この瞬間に、コングレスの成功は確定した」。

ブーローニュの森でのパーティー、祝宴、光、屋内のコートテニス、ランチ、そしてウィリアム・

M ・スローン氏へのアカデミー賞授与さえ参加者を喜ばした。

空席をつくらないために、クーベルタンは数百人のパリの学童や数多くの士官を兵営から動員 した。連合に参加している202の協会の会長のすべてに個人的な手紙を送った。

会議場は満員となった。

 

クーベルタンのプロモーションの才能のお陰というべきか、総計2,000人が出席した。

しかしコングレスの役員を除いて、たった37のスポーツ団体(代表78人)しか参加しなかったこと は言っておかなければならない。予測された通り、フランスが一番多く、24のスポーツ団体から58 人の代表が参加した。外国からはわずか8カ国、20人の参加であった。 距離と、旅行の困難さ、

経費のためであった。

アマチュアスポーツ委員会には 7つの議題があった。勧告案は事実上そのまま受け入れられ た。この委員会の議事録は、しばしば議論が白熱したことを示している。

参加者は、USFSA、フランス自転車連盟、フランスヨット連盟、フランス射撃協会連合、メルボル ンアマチュアスポーツ協会、国内サイクリスト連盟、ベルギーサイクリスト連盟の代表であった。教 育長グレアールも出席した。クーベルタンは議論に積極的に加わった。

鋭い対立が、全てのスポーツに単一のアマチュアリズムの定義を主張する者と、それぞれの種 目にそれぞれの定義を主張する者のあいだで起こった。

賞金、報酬、芸術作品の価値、アマチュアの細分類、協会が選手に与えることを認められてい る補償金等の問題についても二つの陣営に別れた。

言うまでもないことであるが、望ましいあり方として書かれた第一項が最も激しい議論を呼んだ。

アマチュア選手は台座に祭り上げられていた。アマチュア選手は本来純粋なものであり、世俗的 な誘惑から守られなければならない。プロ選手とのいかなる接触も許されない。汚染からアマチュ ア選手を隔てるために全てのことがなされねばならない。金は汚いものである。

議論は、アマチュアリズムの厳格な定義を求める者と、社会的制約の存在を認め、開かれたス ポーツを主張する者との間で、活発に戦わされた。

1894年7月に発行された、オリンピックのための国際委員会の最初のブレティンは、それぞれの スポーツ組織のさまざまな考え方と、統一した勧告を行うことの克服しがたい困難について報告し ている。しかし我々は、ノルベルト・ミュラーが、それでもなお、これはスポーツの世界にとって「国 際的意義のある発展を示すものだ」と書いたのに賛成しないわけにはいかない。

労働者はアマチュアでないと定めたイギリスアマチュア漕艇協会の規定は、ハッキリと拒否され ている。委員会の議事録は、彼らの提案を、「民主主義に対する挑戦」と呼んでいる。

オリンピック大会委員会は三回の会合を持ち、6月23日報告を全会一致で承認した。

最終決議案は、7つの項目を含んでいる。

それらは、オリンピックの文化的、歴史的基礎に触れ、大会が人間と人間性の偉大さを教育的

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