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アメリカとカナダへの旅

ドキュメント内 IOC百年統合版用表紙 (ページ 48-52)

1.3. ピエール・ド・クーベルタン、十字軍戦士そして伝道師

1.3.3. アメリカとカナダへの旅

ウニオン・デ・ソシエテ・フランセーズ・ド・スポール・アトウ レティック(USFSA) のコングレスが終 わりに近づき、クーベルタンはこれまでにもまして、社会に対する歴史的、比較的な視野なくして は、教育やスポーツにおいて何事も達成できないという確信を深めていた。

アルマン・ファリエール公教育大臣、後の共和国大統領も、このことを確信し、1889年 7月17日、

クーベルタンにアメリカ及びカナダ視察の任務を与えた。大学とスポーツクラブがどのような活動を しているか調査するためである。

クーベルタンがこの使節を希望したことは疑問の余地がない。これは彼の1883年の調査と、強 化された確信の論理的帰結であった。

しかし、彼はこのことについてメモワールの中では言及してない、偉大な人間は、自分から言い ださなくても求められるのが当然であるということなのであろうか。 

旅行に先立って、彼はジュールス・フェリーを訪ねた。フェリーはフランス第三共和国初期の教 育大改革の先駆者であった。彼はクーベルタンのうちに「英雄的な精神」を見て、教育問題につ いて長時間話しこんだ。そこでは特筆すべきものはなかった。

クーベルタンはそれから数週間、ミルビルで休暇を取ったようである。全家族がここで夏を過ご すのが常であった。

1889年9月23日、彼はルアーブルでブルターニュ号に乗船した。

クーベルタンは1890年 3月 1日、「公教育大臣閣下」に宛てて手紙を書いて、奇妙なレポート の結論となるいくつかのアイデアを述べた。そのレポートはすべて自分の考えの正当化からなって おり、通常の公文書の謹厳さとは対照的なエキセントリックな文章で書かれていた。彼は言ってい る。行政当局は「体育に、それが相応しい重要な場所を与えることについての関心」に応えること ができるはずだ。

調査は、「アメリカの体育教育が、ドイツとイギリスの教育方法が戦っている戦場であった」という 意味でとりわけ収穫の多いものであった。「偉大なアーノルド」のレッスンはプロシャの体操に代わ

るものであった。クーベルタンによれば、スポーツ教育は既に成果を上げつつあった。彼は付け加 えている。フランスが軍事教練化された体操の代わりにスポーツゲームを選んだことは正しかった。

彼がこういう風にいうのは、彼が戦っていたからである。スポーツが教育のいろいろなレベルに 浸透するには何十年も必要であり、体操の医学専門家とスウェーデン派の理論は簡単には死のう としないのである。

旅行中に参加した、ボストンの身体トレーニングの会議も、クーベルタンにプロシャの体操もスウ ェーデンの体操もフランス人の気質に合うものではないことを確信させた。

まとめて言えば、フランスの教育に必要なのはゲルマン的なアプローチでも医学的なアプロー チでもないということである。彼は断固たる調子で、会議は何ら興味あるものはなかった、と結論し ている。

この旅の間に、クーベルタンは、1889年にパリでイッポドローム・テーヌによって紹介されたスロ ーンと再会している。スローンは歴史家で、プリンストン大学の教授であった。これは、長く誠意あ る友情の始まりであった。この友情はクーベルタンの近代オリンピックの考えに大きな影響を与え ることになるので、後で再び取り上げねばならない。

クーベルタンは、アメリカでは、協会結成の自由のないスポーツはないことに気がついた。若者 自身が、自分のトレーニングに責任を持っていた。

このスポーツにおける自由と責任の教訓は、彼が1883年にイギリスのパブリックスクールや大学 で発見したものと同じであった。

クーベルタンは依然として、討論クラブや、慈善組織や、アメリカの学校や大学でつくられた新 聞に興味を持っていたが、彼の戦略の焦点がスポーツ協会の教育的役割の重要性に移ってきた という議論をすることも可能である。

自由なスポーツ協会をつくり、運営することを通じて、青年はトライアンドエラーによって学ぶこと ができた。若い中学生が自由に選んでグループをつくり、その発展に参加できる一番よい方法は、

スポーツチームであった。

若者のもつそれぞれの発展の権利が、お互いの助け合いと協力の至上命令によって、最もよ い形で抑制されるのは、このスポーツチームの場においてであった。

クーベルタンが、そうでなければ異教的なものに止まったであろう身体活動をキリスト教文化の 中に統合したのは、1889年アメリカのキャンパスにおいてであったように見える。スポーツマンのチ ームに対する献身は、道徳的に、中世のキリスト教貴族の騎士道精神に照応するものであった。

1889年の調査の結論を読んで、いくつかその他にも気がつくことがある。

例えば、一般に通用している常識を絶えず問いなおそうとする傾向、お喋りよりも行動の優先、

すべての者がスポーツをできるようにしようという決意、体育館を日中は子供たちに、夕方は大人 に開放 (彼はボストンでこれを見た) すること、スポーツマンにもっと衛生的な環境を提供するこ と。ここに、我々はすでに新オリンピズムの実際的な教えの基礎が表れているのを見ることができ る。

この段階で、我々はクーベルタンの後まで続く特性、女嫌いの最初の兆候について触れないわ けにはいかない。人によっては、「物凄い、着飾った婦人」や、アメリカの小間使いの「あつかまし い眼差し」や、会議に女性出席者が多すぎることや、「何という帽子だ! とプリュドム(労働委員)

氏なら言っただろう」。魅力的ならまだしも「彼女らの何人かは大変なおばーさんだった」などという 記述を読みたくないと思うかもしれない。

我々としては、クーベルタンのアメリカ文明の不安定な未熟な側面についての明快な理解に、

あまり良心の呵責を感じずに言及できるというものである。 

不運なヨブのわらの寝床は鉄道資本家グールドの玉座からそう遠くはなかった。

貧富の差が極端なこの国で「彼らは、ヤンキー特有の無遠慮さで、唾を吐き、鼻を鳴らし、ぶら ぶら歩く」。

カナダ人には、クーベルタンは忠告を与える気などなかったが、それでも、「英語を話すカナダ 人」に対して「アメリカ人の習慣を知って、それに対して自分自身を守り、イギリス的カナダ人であり つづけよ」と言わずにいられなかった。

一方、「フランス語を話すカナダ人」に対しては言った。「わが兄弟よ、君達の陳腐な学校につ いてよく考え、捕らわれている君達の精神を開放せよ! 」。彼は両者に団結を守るよう呼びかけ た。

我々はクーベルタンが北アメリカで学んだことに多くの時間を割いたが、このオリンピック復興直 前の数年間に北アメリカ全体、とくにアメリカ合衆国がクーベルタンに及ぼした抵抗しがたい魅力

‐これは決して誇張ではない‐を強調しておくのが重要と思われたからである。新世界への旅以 後、クーベルタンは二度と教育を文化と経済の文脈から切り離すことはなかった。彼は理念の「普 遍的な」歴史と、人と集団の行為について鋭敏な感覚を失わなかった。何故なら、彼の思想とオリ ンピックの使命において決定的な力となったのは、比較研究から引き出されたこれらの政治、経済、

文化の要素だったからである。

イギリスと北アメリカの教育システムとその働きについてよりよく知ろうとする欲求と並行して、クー ベルタンは、困難な戦いに直面しながら、フランススポーツの現状に注意を向けていた。そこでは 目的と構造の両方に重大な欠陥があった。彼はイニシアチブを取り戻さなければならなかった。

1892年11月25日、USFSAの創立記念日に、クーベルタンは古いソルボンヌの大講堂で華々し

い提案を行った。

「我々はウニオン・デ・スポール・アトレティックの五周年を一連のお祭り行事で祝っていると 思っていた。ビル‐ダブリーのミーティング、フェンシング試合、ムードンのクロスカントリー、全体 の締めくくりに、有名な天文学者ジャンセンが主催する素晴らしいお茶会... そ し て 、その時、

我々には文学界、科学界、政界で名を成している多くの人々、ビクトル・デュルイ、ジュール・シモ ン、ジョルジュ・ピコー、そして1888年、私の初めてのキャンペーンに力を貸してくれた大勢の人の 協力があったから... 」

しかし、クーベルタンによれば「赤ん坊は密かに取り替えられていた」。というのは、実はそれが、

ウニオン・フランセ・ド・クールス・ア・ピエ(フランス競走連合)の祭りだと分かったからである。この 連合は、1887年、ジョルジュ・ド・サン‐クレアによってつくられたもので、そのメンバーになってい る協会は一世間般には知られていなかった。

1892年、バルテレミーとかいう人物が、「カナダフランス人の正義」を刊行し、クーベルタンのフラ ンス系カナダ人についての見方はひどく皮相なものだと断言した。

しかし、クーベルタンは物事を大きな視野で見ていた。ソルボンヌ大講堂の「汚れたライラック」

のシェードはフランスとロシアの旗によって覆われていた。

ロシア帝国のウラジミール大公が閉会セッションを司会し、共和国大統領がイベントのパトロンを 勤めることに同意した。

 

プログラムは、一見、普通のお祝いのものであった。1892年4月20日から27日迄、 USFSAの五 週年が、スポーツイベントと上流社会のレセプションで祝われることになっていた。勿論、資産家以 外に、誰が一週間も働かないでいられるだろうか?

クライマックスは11月25日、ゲストは「記念の夕べ」に招待された。

ビル‐ダブリーへの遠足、フェンシング試合、クロスカントリーイベント、主としてパリに住む連合 のスポーツマンのために、運動クラブとフットボールクラブの会合が計画されていた。また、少数の 小学生の参加も予定されていた。

しかし、連合は「難しい状況」にあった。クーベルタンは地位のあるスポンサーを探していた。彼 の見つけたのは、共和国大統領、サディ・カルノー、ジョッキークラブ会長、ジャンゼ子爵、ウラジミ ール大公の副官プリンス・オボレンスキー、天文学者ジャンセン教授、そしてフランス上流社会の 選ばれた人たちであった。

記念祭の式典の目的は、祝祭と高貴なイベントに参加することに熱心な金持ち階級であるゲス トの心を、ある方向に持っていくことにあった。

この多彩な催しを提示されて、彼らは25日の夕べに出席しなければと思う筈であった。

その夕べのためにクーベルタンは大きな驚きを用意していた。と彼自身は考えていた。

初めて、クーベルタンは彼の計画を、仲間の前で、公に説明できることになった。

彼の計画は鳴り物入りで発表はされなかったが、教育的、社会的過程の出発点となるものであ った。その反響については彼自身も押し計ることができなかった。

新オリンピズムの哲学的基礎が創りだされていた。歴史 (その精神とその教訓) との関連、古 典文化への忠誠、現代社会の必要と国際的目的に応えようとする欲求である。 

ソルボンヌでの講演は年代順の三部作に構成されていた。

ジョルジュ・ブールドンが古代のスポーツについて「祖国のための競技」を講演。

J.J.ジュッセランが、近代世界の身体運動について話した。

クーベルタンは、現代スポーツの中心都市が、ベルリン、ストックホルム、ロンドンの三つであるこ とを述べたあと、「オリンピック大会を、現代の条件に合った基礎の上に、復活する」プロジェクトを

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