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④宗教現象の科学的研究は︑そのすべての 局 面 をでなく︑そのある局面の研究で自ら満足しな
最も必要︑最も重要と考える宗教現象のある 局 面 ︑ある部分の検討で満足すべぎである︒そして ︑これほ学問の後退 ではなくて前進である︒それぞれの宗教の科学 的 研究は︑宗教とは何かではなく︑宗教の部分と は 何かで満足しなけ ればならない︒宗教とはを目ざしっ っ も︑宗教 0 部分で満足しなければならないのである︒宗教 現象を自ら投げか け た 尺度でだ け 測定し︑観察したことを認めねばな らない︒ある研究者は因果的に︑ある研究者 は 機能的に︑また︑ 現 豪的レベルで︑深層の分析様式で︑心理的レベ ル で︑社会的レベルでである︒
⑤概念や
hpnd のについて考えて来たことは︑ & 示教現象それ自体を捉える場合にも同じである ︒宗教現象は無限 0 局面をもっている︒これはどうしても認めねば ならない︒宗教現象がすべての人々に同じで あることはありえな い ︒それを捉える為には選択が必要である︒ 事 象のある局面を捉えるわけである︒処 で︑宗教現象の科学的研究を進めるのに︑ 手 の 0 モの 構成は必須である︒そして︑私の場合 現在Ⅱ﹁ u の︵︵ 簿 ︵ ざコ がコメ 5 円Ⅱ ノコロ 0 Ⅱが 宙 ︶ し の 円 コ ︵ 0 目 ヰ Ⅱ下の 0 Ⅱ ピ " の 0 臼凹 トコ叶の ㎎﹁ ひ 片山 0 コ 臼の 0 卜及び意味 づ げの理論によって 研 究を進めている︒ 私 は 宗教の定義を︑この三つの理論を中心として 考 えているといってもよいかしれない︒
なお︑それぞれの研究者は宗教についての︑ 或 は 宗教の部分についての芽の 0
ミを
構成し︑研究 を 進めていくべき であると考えている︒︵ ゴの or せ 及び宗教の定義 については稿を更めて言及する︒⑥科学に於ける概念は基本的に 汀己 ︵ い の︵ い の な 特徴をもっている︒このような発見的概念を異 っ た 性格のものとし
て 捉えることは大きな誤りを来たす︒
⑦宗教の諸研究の結果を︑単純に︑あれこれ 取りまとめて述べることは危険であり︑ 且 生息 味で ある︒
︵時間の関係で註はすべて省略する じ
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な 信仰は︑学問の方法とは原理的には無関係で あるはずである︒キリスト教的数学とか︑キリス ト 数曲心理学とかい うものが存在しないのと同様に︑キリスト教的山 本 教学などというものも存在しない︒宗教学が神 学 と異 る 点もそこに ある︒もちろんこのことは︑宗教学が無前提の 学問であって︑純粋に中立的な客観的な学問であ るという意味ではな 浅 い︒如何なる学問も ︑ 何らかのパースペ 名 アイ ブ とそれに伴う研究対象に関する前理解とを 前提することなしに は成
ただその 前 理解とパースペ 名 ア イヴ が研究者の持っているポジティヴな信仰に 直接に由来するものでは 方 キリスト剃はキリスト教的方法を述べるのではなく︑ @ っ轍 ないということなのである︒ 従て キ
如 てきたか︑また果たしてその中には︑宗教学 の方法として取り入れて︑それを発展させ得る ような有効な方法が見出 士不 だされるか︑ということを考えるほかない︒
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ての宗教研究には︑特にキリスト教的な方法と いうようなものは存在しないということである︒ 研究者自身の個人的 た 課題である︒しかしこの課題に答えることに は ︑非常に大きな困難が含まれている︒まず第一 0 間頭 は ︑学問とし ﹁宗教研究の方法﹂というシンポジウムの主題に 対して︑キリスト教の立場から発頭をすること が 筆者に与えられ
宗教研究の解釈学的方 法
川端 純 四郎
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