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る 実存についての 前 理解を手がかりとして問いを 設定するところに成立する︒そこで問われてい るところのものは︑
テクストに含まれている実存理解︵Ⅱ甑の片のコミの︵
の中に︑今日の我々 ︵ RU ︶ にとっても自己理解の一つの新しい可能性である ような実存理解の可能性が示されているか否か ﹂を問 う のである︒
その際︑テクストの示す実存理解を受け入れる か 拒否するかは︑実存的な決断の事柄であって ︑ あらかじめ考慮に 入 れることはできない︒しかし︑受け入れるにせ ょ 拒否するにせ よ ︑ともかくテクストの示す実存 理解に照らして︑ 研 究 者の前理解は深められ︑訂正され︑新しい 理 解 に達することにちがいはない︒そこには︑前理 解 をいつでも訂正す
る 覚悟が要求されている︒その覚悟なしには︑
‑ ア クストは沈黙して何も語らない︒ 前 理解に固執 して︑それをテクス 法トに 押しつげることではなく︑逆にテクスト に ﹁聞く﹂態度が要求されているのである︒ テ クストは研究者と無関係 甥 なものではなく︑実存への関心という共通の 地盤の上に立って ︑ 新しい実存理解を研究者に ﹁語りかけ﹂︵ ンヨ 色の︶
究 学釈 てくるものなのである︒このようなテクス解 のこのようにして︑テクストの語りかける 実
獅て テクストを媒介として新しい自己理解が成 立 するならば︑その時︑テクストはまさに研究 者において出来事となっ 山下 ている︵ ぬ esc 下の下の③のであり︑そこに真の意味 の ﹁歴史﹂︵
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8︶が成立することになる ︒実証的︑客観的に
79 (559)
従って新約聖書への問いは︑研究者が実存への 問いに動かされてテクストにむかい︑研究者自身 がすでに持って い リストであると言 う よりも︑むしろその ょう な神 あるいはキリストにどのようにかにかかわるこ とによって自己の本
来 性を実現している﹁人間﹂なのである︒研究 者 と対象とによって︑それに対して共通の関係が 持たれているところ のその事柄は︑まさに自己の本来性を目覚的に追 求 する人間︑つまり実存にほかならない︒この ﹁実存への関心﹂ こ そが︑新約聖書の研究にあたって ︑ 問いを呼び おこし︑その問題設定を導くところのものなので ある︒
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いるからこそ問題とされ得るのであり︑またこの ような﹁歴史﹂の自覚的な成立を目標としてこ そ ︑はじめて意味深 ︵ 7 ︶ いものとなるのである︒
(560)@ 80
て 理解できるのは︑前節に述べた通り︑聖書の著 者 と私との間に︑その内容に違いはあるとして も ︑ともかく両者が 共に実存について関心を持ち︑実存について 何 らかの理解を持っているという共通性があるから である︒しかし︑ さ らに一歩進めて言えば︑新約聖書の使信の告げ るその実存理解を私が聞いて︑それを私自身の自 己 理解の新しい可能 性 として承認できるとすれば︑それは二千年前 の パウロなりヨハネなりの理解した実存と私の実 存 とが同じもの︑ 少 くとも同じ構造を持ったものであるからにほか ならない︒このような実存の構造︑パウロと私に 共通の︑と言うこと
は人間実存一般の構造︵自己をそのように理解 することができるという構造︶をブルトマンは ハ イデッガーにならっ て ﹁実存論的構造﹂と呼ぶ︒もちろんパウロ や ョ ハ不はこのような実存一般の構造についての 実 序論的な理論を展開 してはいない︒彼らの所論は﹁実存的﹂なもの である︒しかし︑実存のふるまいについての実存 的な理解は︑それが 首尾一貫したものである限り︑必ず︑実存がそ のようにふるまうことができる理由としての︑ 実 存の構造に関する 案 序論的な理解を暗黙のうちに含んでいる︒従っ て 新約聖書の実存理解を解明するためには︑そこ に 暗黙のうちに前提 されているところの︑このような実存一般の構 造 二ついての実存論的な理解を明らかにすること が 必要となる︒ブル トマ ソ は︑その作業を行な う のにあたって ︑周 知 のとおり︑ハイデッガーの諸概念を援用してい るのであるが︑ここ
法に
﹁実存の理念﹂︵ 巴 Ⅹ い の︵の 黒乙 のの︶の問題が 成立する︒つまり特定の実存理念から出発した ハ ィデ の現存在分析胡を
︑それとは違う実存理念を持った神学 の 領域にそのままあてはめることはできないので鮮る
︒ましてそのブルトマ ソ の方法をさらにそ のまま宗教学の方法に持ちこむことは︑再び実 存 理念の不整合を お かす
561
その現存在分析の結果は ︑ 同じ実存理
ん懇意的に選び取られるのではなく︑
理念によって対象を解釈するという︑
的に取り上げて︑循環から逃げること
目指して︑それを現存在の実存論的な
存在﹂という実存理念が︑ハイデ ︐ガ
な ︑存在的な事柄が︑存在論的なもの
分析は︑存在論的に徹底された純粋に 念 に立つ者にしか適用できないはずのものなの である︒この実存理念はもち ろ
対象そのものの中から開発されねばならないの であって︑対象から開発された
|は ︑この循環をむしろ積極 ︵ 二リ ︶ ではなく︑﹁根源的に︑しかも全体的に︑この ﹁ 環 L の中へ飛びこむ﹂ことを
﹁先立って﹂という構造に基礎 づ げようとするの である︒このように 一 ︒死への
1 0 現存在分析を導いているのであって︑その 実存理念に﹁ 死 ﹂というよう
に 転じつくされないで︑存在的なままで取り入れ られている限り︑その現存在 ‑ 二 u ︶ 中立的︑形式的なものとは言えないものなので ある︒その分析を﹁正しい﹂ 哲 ︵ 3 ︶ とであった︒この ょう な理念を最後まで考え抜 くところにその現存在の存在構造の存在論的解釈 が 成立する︒従って そこで取り上げられる﹁実存﹂は ︑ 実はすでに 研究者の実存理念によって 枠づ げられ︑切り取ら れた限りでの実存な
のである︒そしてその実存理念とは︑ハイデッガ | においては︑人間とは何にもましてまず死ぬ ものであるというこ ︵ 2 ︶ て ︑その理念に包含されている限りでの実存を その理念のおよぶ範囲の限りでとらえようと するものであって ︑ が ︑それでもそこには大きな問題がある︒たし かに ハイデ︐ガーの現存在分析は︑実存の実存す ること自身から開発
された分析であって︑﹁如何に実存すべ きか ﹂と い う 問題ではなしに︑﹁実存するとは如何なるこ とかしを主題的に問
題 とするものであって︑その限りではブルトマ ソの 高 5 ﹁正しい哲学﹂である よう に思われる︒ しかし︑実は︑ここ
で ハイデッガーによってその構造が解明された ﹁実存﹂は ︑ 決して 皿 生別提の実存そのものではな く ︑すでに或る特定
の 実存理念によって切り取られて来たものなので ある︒ハイデ " ガ ーの現存在分析は︑特定の 実存理念にもとづい
(562)
︵ ll ︶ にもあてはまる分析︑として援用している︒もち ろん︑現在のところもっとも中立的な︑という 条件をつけてはいる
フルトマ ソ はこのような事態を見ぬいていない︒ 批判されるべき錯綜がそこにはある︒しかし︑ 実際のブルトマ ソ 法の実存論的新約聖書解釈を見ると︑そこには ︑意識的にはこのような事態についての認識は ないとしても︑現実には︑
牡 はっきりとこのような仕組みをとらえて︑ そ れを解決するための手続きが行われている︒ っ まりブルトマ ソ は︑ハイ 学
ながら実際にほそれを修正して︑新約聖書の実 存 理解を解釈するにふさ がわしいものに変更し︑そうして利用できるも のだけを注意深く再構成して用いている︒その 場合︑注目にあたいする 獅 のは︑ハイデッガーの分析を︑もっとポジ ‑ アイ ブ なキリスト教的なものへと修正するのでは なく︑逆にもっと存在論 小小 的な ︑ 裸の実存の方へと修正していることであ る ︒そのためにフルトマンは﹁死への存在﹂とい ぅ 理念をまず捨て
83 (563)
︵ 1 ︶プルトマンのハイデッガーとの関係は﹁存在と 時間﹂のハイデッガーに 限 われる 0 しかもそれを人間 学的に理解する 限 りにおいてである︒存在と時間をこのように理解する ことが︑現在では︑ハイデッガー自身の意図とも喰い
@ 漫 うものとな っていることはよく知られているが︑そのことは一応 別の問題である︒以下のフルトマンの考えについ ては z づけ 呂臣ゴ 0 一 O 僅 PP の 邑 ︵ ぎ 一パ目ニ PP で㌫︶ 一 Ⅱ ヒヨ ㌧ qO 匡 ︒日色・田ロ︵ 日せ ︵ す ︒ ざ 笹生︒ 巨 コ %.P 鰍い宙 コホ ア ミロ・・の Ⅰ㌧の | いつ㏄︶ 一 甘の塁のぎざ旨の u. 目ド ︵ プ巳 0%e. お目 ︵ ぎ ‑ のせ憶 : の トト トート㏄の レ @ し @ のののの︒ ま 0 下ニ T すオ ゑ ︵ ロ ・し い ののぎの ロ ・ ロ ・の
‑ ぃ Ⅰ すの︑い円す沐 呂 ㏄ 0. 縛 おっと 求 ・それに対する批判についてはの・ 木 仁 ミヨ ぃコダメ ・Ⅰむ年 毛ギ 二次・立ゑ ヨ︑ Ⅱ・㏄︵Ⅰ ココ の﹁によっ てい 円 す木 誌 上 で一九二九 | 三一にかけて行なわれた﹁存在論と神 学 ﹂論争を参照のこと︒また本節と次節の全体につい ては石津 照璽
﹁宗教研究の立場と宗教的実存の問題点﹂︑宗教研究︑ 一八八九︵ 昭 四一︶参照︒
︵ 2 ︶ ニ ・ 由 止しのの内のぺ・のの ぎ E. い上 ︵父の めづン ︶ っっ 0 ︒・の ㏄Ⅰ つ ・㏄Ⅰ㏄ | ㏄Ⅰの
︵ 3 ︶石津 照璽 ︑宗教 哲 宇の問題と方向︑昭二八︑二 二 0 頁 ︒
︵ 4 ︶の 由コ仁 ・ い由 ︵ ︑の ・ トり い
︵ 5 ︶ 0 已のづらい︐の・の ト包
︵ 6 ︶石津 照璽 ︑﹁宗教の根拠に関する研究﹂︑東北大 学文学部年報︑八︵昭二二︶ ︑ ニ一一頁︒また上掲 注 ︵ 3 ︶参照︒ 学 としてブルトマンが援用することには︑非難 されてもやむを得ぬものがある︒