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同  参

ドキュメント内 『宗教研究』191号(40巻4輯) (ページ 78-89)

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る  実存についての  前  理解を手がかりとして問いを  設定するところに成立する︒そこで問われてい  るところのものは︑ 

テクストに含まれている実存理解︵Ⅱ甑の片のコミの︵ 

  

の中に︑今日の我々  ︵ RU  ︶  にとっても自己理解の一つの新しい可能性である  ような実存理解の可能性が示されているか否か  ﹂を問  う  のである︒ 

その際︑テクストの示す実存理解を受け入れる  か  拒否するかは︑実存的な決断の事柄であって  ︑  あらかじめ考慮に  入  れることはできない︒しかし︑受け入れるにせ  ょ  拒否するにせ  よ  ︑ともかくテクストの示す実存  理解に照らして︑  研  究  者の前理解は深められ︑訂正され︑新しい  理  解  に達することにちがいはない︒そこには︑前理  解  をいつでも訂正す 

る  覚悟が要求されている︒その覚悟なしには︑ 

‑  ア  クストは沈黙して何も語らない︒  前  理解に固執  して︑それをテクス  法トに  押しつげることではなく︑逆にテクスト  に  ﹁聞く﹂態度が要求されているのである︒  テ  クストは研究者と無関係  甥  なものではなく︑実存への関心という共通の  地盤の上に立って  ︑  新しい実存理解を研究者に  ﹁語りかけ﹂︵  ンヨ  色の︶ 

究 学釈 てくるものなのである︒このようなテクス解  のこのようにして︑テクストの語りかける  実 

    

獅て  テクストを媒介として新しい自己理解が成  立  するならば︑その時︑テクストはまさに研究  者において出来事となっ  山下  ている︵  ぬ esc  下の下の③のであり︑そこに真の意味  の  ﹁歴史﹂︵ 

ぉ  玉ヰ 

︶が成立することになる  ︒実証的︑客観的に 

79   (559) 

従って新約聖書への問いは︑研究者が実存への 問いに動かされてテクストにむかい︑研究者自身 がすでに持って い  リストであると言 う よりも︑むしろその ょう な神 あるいはキリストにどのようにかにかかわるこ とによって自己の本 

来 性を実現している﹁人間﹂なのである︒研究 者 と対象とによって︑それに対して共通の関係が 持たれているところ  のその事柄は︑まさに自己の本来性を目覚的に追 求 する人間︑つまり実存にほかならない︒この ﹁実存への関心﹂ こ  そが︑新約聖書の研究にあたって ︑ 問いを呼び おこし︑その問題設定を導くところのものなので ある︒ 

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確認される﹁史実﹂は ︑ 実はこの ょ な出来事 としての﹁歴史﹂が︑たとい無自覚的であるにせ ょ ︑すでに成立して 

いるからこそ問題とされ得るのであり︑またこの ような﹁歴史﹂の自覚的な成立を目標としてこ そ ︑はじめて意味深 ︵ ︶ いものとなるのである︒ 

(560)@  80 

て 理解できるのは︑前節に述べた通り︑聖書の著 者 と私との間に︑その内容に違いはあるとして も ︑ともかく両者が  共に実存について関心を持ち︑実存について 何 らかの理解を持っているという共通性があるから である︒しかし︑ さ  らに一歩進めて言えば︑新約聖書の使信の告げ るその実存理解を私が聞いて︑それを私自身の自 己 理解の新しい可能  性 として承認できるとすれば︑それは二千年前 の パウロなりヨハネなりの理解した実存と私の実 存 とが同じもの︑ 少  くとも同じ構造を持ったものであるからにほか ならない︒このような実存の構造︑パウロと私に 共通の︑と言うこと 

  は人間実存一般の構造︵自己をそのように理解 することができるという構造︶をブルトマンは ハ イデッガーにならっ  て ﹁実存論的構造﹂と呼ぶ︒もちろんパウロ や ョ ハ不はこのような実存一般の構造についての 実 序論的な理論を展開  してはいない︒彼らの所論は﹁実存的﹂なもの である︒しかし︑実存のふるまいについての実存 的な理解は︑それが  首尾一貫したものである限り︑必ず︑実存がそ のようにふるまうことができる理由としての︑ 実 存の構造に関する 案  序論的な理解を暗黙のうちに含んでいる︒従っ て 新約聖書の実存理解を解明するためには︑そこ に 暗黙のうちに前提  されているところの︑このような実存一般の構 造 二ついての実存論的な理解を明らかにすること が 必要となる︒ブル  トマ ソ は︑その作業を行な う のにあたって ︑周 知 のとおり︑ハイデッガーの諸概念を援用してい るのであるが︑ここ 

法に 

﹁実存の理念﹂︵ 巴 Ⅹ い の︵の 黒乙 のの︶の問題が  成立する︒つまり特定の実存理念から出発した ハ ィデ の現存在分析 

胡を 

︑それとは違う実存理念を持った神学 の 領域にそのままあてはめることはできないので   

鮮る 

︒ましてそのブルトマ ソ の方法をさらにそ のまま宗教学の方法に持ちこむことは︑再び実 存 理念の不整合を お かす 

  

       561   

その現存在分析の結果は ︑ 同じ実存理 

ん懇意的に選び取られるのではなく︑ 

理念によって対象を解釈するという︑ 

的に取り上げて︑循環から逃げること 

目指して︑それを現存在の実存論的な 

存在﹂という実存理念が︑ハイデ ︐ガ 

な ︑存在的な事柄が︑存在論的なもの 

分析は︑存在論的に徹底された純粋に  念 に立つ者にしか適用できないはずのものなの である︒この実存理念はもち ろ 

対象そのものの中から開発されねばならないの であって︑対象から開発された 

  

|は ︑この循環をむしろ積極 ︵ 二リ ︶ ではなく︑﹁根源的に︑しかも全体的に︑この ﹁ 環 の中へ飛びこむ﹂ことを 

﹁先立って﹂という構造に基礎 づ げようとするの である︒このように 一 ︒死への 

1 現存在分析を導いているのであって︑その 実存理念に﹁ 死 ﹂というよう 

に 転じつくされないで︑存在的なままで取り入れ られている限り︑その現存在 ‑ 二 u ︶ 中立的︑形式的なものとは言えないものなので ある︒その分析を﹁正しい﹂ 哲  ︵ 3 ︶ とであった︒この ょう な理念を最後まで考え抜 くところにその現存在の存在構造の存在論的解釈 が 成立する︒従って  そこで取り上げられる﹁実存﹂は ︑ 実はすでに 研究者の実存理念によって 枠づ げられ︑切り取ら れた限りでの実存な 

のである︒そしてその実存理念とは︑ハイデッガ | においては︑人間とは何にもましてまず死ぬ ものであるというこ  ︵ 2 ︶ て ︑その理念に包含されている限りでの実存を その理念のおよぶ範囲の限りでとらえようと するものであって ︑  が ︑それでもそこには大きな問題がある︒たし かに ハイデ︐ガーの現存在分析は︑実存の実存す ること自身から開発 

された分析であって︑﹁如何に実存すべ きか ﹂と い う 問題ではなしに︑﹁実存するとは如何なるこ とかしを主題的に問 

題 とするものであって︑その限りではブルトマ ソの 高 ﹁正しい哲学﹂である よう に思われる︒ しかし︑実は︑ここ 

で ハイデッガーによってその構造が解明された ﹁実存﹂は ︑ 決して 皿 生別提の実存そのものではな く ︑すでに或る特定 

の 実存理念によって切り取られて来たものなので ある︒ハイデ ガ ーの現存在分析は︑特定の 実存理念にもとづい 

(562) 

︵ ll ︶ にもあてはまる分析︑として援用している︒もち ろん︑現在のところもっとも中立的な︑という 条件をつけてはいる     

フルトマ ソ はこのような事態を見ぬいていない︒ 批判されるべき錯綜がそこにはある︒しかし︑ 実際のブルトマ ソ  法の実存論的新約聖書解釈を見ると︑そこには ︑意識的にはこのような事態についての認識は ないとしても︑現実には︑ 

牡 はっきりとこのような仕組みをとらえて︑ そ れを解決するための手続きが行われている︒ っ まりブルトマ ソ は︑ハイ 学 

  

ながら実際にほそれを修正して︑新約聖書の実 存 理解を解釈するにふさ  がわしいものに変更し︑そうして利用できるも のだけを注意深く再構成して用いている︒その 場合︑注目にあたいする  獅 のは︑ハイデッガーの分析を︑もっとポジ ‑ アイ ブ なキリスト教的なものへと修正するのでは なく︑逆にもっと存在論 小小 的な ︑ 裸の実存の方へと修正していることであ る ︒そのためにフルトマンは﹁死への存在﹂とい ぅ 理念をまず捨て 

83   (563) 

︵ ︶プルトマンのハイデッガーとの関係は﹁存在と 時間﹂のハイデッガーに 限 われる しかもそれを人間 学的に理解する 限  りにおいてである︒存在と時間をこのように理解する ことが︑現在では︑ハイデッガー自身の意図とも喰い 

@ 漫 うものとな  っていることはよく知られているが︑そのことは一応 別の問題である︒以下のフルトマンの考えについ ては づけ  呂臣ゴ 一 O 僅 PP の 邑 ︵ ぎ 一パ目ニ PP で㌫︶ 一 Ⅱ ヒヨ ㌧ qO 匡 ︒日色・田ロ︵ 日せ ︵ す ︒ ざ 笹生︒ 巨 コ %.P 鰍い宙 コホ ア ミロ・・の Ⅰ㌧の | いつ㏄︶ 一  甘の塁のぎざ旨の u. 目ド ︵ プ巳 0%e. お目 ︵ ぎ ‑ のせ憶 : の トト トート㏄の レ し @ のののの︒ ま 下ニ すオ ゑ ︵ ロ ・し い ののぎの ロ ・ ロ ・の 

‑ ぃ Ⅰ すの︑い円す沐  呂 ㏄ 0. 縛 おっと 求 ・それに対する批判についてはの・ 木 仁 ミヨ ぃコダメ ・Ⅰむ年 毛ギ 二次・立ゑ ヨ︑ Ⅱ・㏄︵Ⅰ ココ の﹁によっ てい 円 す木 誌  上 で一九二九 | 三一にかけて行なわれた﹁存在論と神 学 ﹂論争を参照のこと︒また本節と次節の全体につい ては石津 照璽 

﹁宗教研究の立場と宗教的実存の問題点﹂︑宗教研究︑ 一八八九︵ 昭 四一︶参照︒ 

︵ ︶ ニ ・ 由 止しのの内のぺ・のの ぎ E. い上 ︵父の めづン ︶ っっ ︒・の ㏄Ⅰ つ ・㏄Ⅰ㏄ | ㏄Ⅰの 

︵ ︶石津 照璽 ︑宗教 哲 宇の問題と方向︑昭二八︑二 二 頁 ︒ 

︵ ︶の 由コ仁 ・ い由 ︵ ︑の ・ トり い 

︵ ︶ 已のづらい︐の・の ト包 

︵ ︶石津 照璽 ︑﹁宗教の根拠に関する研究﹂︑東北大 学文学部年報︑八︵昭二二︶ ︑ ニ一一頁︒また上掲 注 ︵ ︶参照︒  学 としてブルトマンが援用することには︑非難 されてもやむを得ぬものがある︒ 

ドキュメント内 『宗教研究』191号(40巻4輯) (ページ 78-89)

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