第 4 章 宗教と教育の関係 ― 澤柳政太郎の宗教思想・教育思想 ―
第 2 節 澤柳の宗教観・教育観
次に、澤柳の宗教観と教育観を概観し、澤柳の宗教と教育の関係に関する思想を 2 点に 絞って考える。第一に、なぜ宗教と教育は分離しなければならなかったのか。第二に、な ぜ宗派色を抜いた宗教も学校教育に用いることはできないのか。この 2 つの疑問を明らか にすることにより、近代国家における宗教と教育との関係の一側面をみていきたい。
第1項 澤柳の宗教観
まずは、澤柳の宗教観を確認しながら進めていく。澤柳は、すでに20代で宗教に関する 著作や論文を執筆している。先行研究によると、澤柳の宗教観は近代日本における 2 人の 著名な宗教者である真言宗僧侶の釈雲照(文政10年(1827)~明治42年(1909))と真 宗大谷派僧侶の清沢満之(文久3年(1863)~明治36年(1903))に大きな影響を受けて いると評される18。
吉田久一によると、雲照が行った戒律主義は保守的・前近代的であったが、澤柳などの
「開明思想に飽きた知識層や庶民層に影響を与えた」19としている。一方で、清沢が行っ た精神主義は開明的・近代的であると評価している 20。吉田は、両者を「前近代-近代」
と対置して評価するが、吉田のをそのまま受け入れれば、澤柳の宗教観は相反する両者の 影響を受けたことになる。筆者も、澤柳の宗教観は雲照と清沢の影響を大きく受けている と考えている。しかし、吉田の指摘を考慮すると、両者の宗教観は相反しているために、
澤柳の宗教観は矛盾をはらんでいることになる。
そこで以下では、澤柳が、相反している(と評価される)両者の思想をどのように一貫 性を持った宗教観として受容していったのかをみていく。
澤柳と釈雲照
澤柳と雲照との関係は、澤柳が大学生であった明治20年頃に、澤柳と同郷で大学生活の 支援者であった青木貞三を通じて始まった。青木は、雲照の戒律主義の布教活動を支援し ていたが、青木の死に伴い、代わりに澤柳が雲照の戒律主義運動に協力することになった。
支援の代表者となった澤柳は、十善の戒律の普及を目的とした「十善会」を立ち上げ、多 くの会員を集めた。澤柳が、後年著した随筆『退耕録』のなかで「接して久しくなれば久
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しくなるだけ、その戒律の厳粛なるに驚く」21と、雲照の戒律の徹底さを見習っていた当 時のことを述懐している。
そして、雲照が説く「十善戒」22を澤柳自らが拡大するために、明治23年に『仏教道徳 十善大意』を著し、十善戒の理論的説明を行っている。沢柳26歳のときに刊行された著作 であるが、すでに澤柳の宗教観が見て取れる。
思うに道徳のこと之を理論上より攻究する甚だ緊要のことなれども其攻究未た充分の 成績なしとても、吾々は道徳の標準の発見せらるるまて吾活動を停止すること能はず、
而も活動を停止することと能はざるのみならず吾々は不徳不道の行をなすへからず、
然らは実際上に於ては必ずや依る所を定めざるへからず、若し単に良心常識なるもの の指示する所にのみ拠るときは時に大に不動不道の行をなして知らざることあり、且 終身不安心なるを免れざるべし、余の実験する所によれば十善を以て日常の行規とな せば蓋し大過なかるべきなり。23
道徳を理論で説明してもわからないことが多いが、実践を通せば道徳を理解できる、と 澤柳は説く。澤柳にとっての実践すべき道徳は十善戒であり、その十善戒を実践すること によって「安心」、つまり安定した心情を得ることができるのである。これが、澤柳宗教 論の最も重要な点である。
そして、『仏教道徳十善大意』ではどのような「安心」を得られるかということを説明 している。そこでは、宗教とは道徳を理論で説明し実践に移すためのひとつの手段である と論じている。ここでいう道徳とは、国民全体が共有するような国民道徳ではなく、個人 が自律した人間になるための個人の道徳という意味で使用されている。よって、宗教を持 つことは個人の信仰を持つことであり、それはひとつの自律した信念を持つことと同義で あった。
島薗進によれば、この時代の高学歴エリートや知識人が共有していた「宗教」は、世俗 領域とは区別されるが、世俗の倫理や秩序などを個人に基礎づける機能があるものとして 語られていたとされる。そして、そのような「宗教」の世界観のなかに、個人(自己)の 主体性を定位するものとしても「宗教」が機能していたという。
近代国家が強い主権を確立するのに並行して、国民形成を指導する知識人は主権的な 自己、すなわち原理的な根拠の上に屹立して対他的主張を行う個としての自己の確立 を目指すようになる。近代的教養にはそのようにして個を基礎づける宗教について論 ずる言説が組み込まれている。そうした宗教言説が高学歴をもつ若者の自己形成を助 け、何ものにも依存しないと主張される「個としての自己」の支えとなる。24
澤柳が、十善戒の実践を中心に、仏教を自律した信仰として自らが選択し、「生涯の指 針」25として保持した背景には、このような宗教言説がすでに明治20年代から生まれてい たことが挙げられよう26。
先述した吉田が述べているように、澤柳が青年時代から傾倒していた戒律主義、とくに 十善戒を実践することは、生涯澤柳の思想や行動倫理を支配していたと周囲には理解され
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ていた。そのことは、澤柳の宗教に関する著述からもその傾向が看取できる。澤柳は、こ の時代に生きる一人の個人として、自律した信仰を持つこととそれに裏付けられた実践を おこなうことを重視したのである。それが澤柳にとっては戒律主義であり十善戒であった。
澤柳と清沢満之
一方、清沢満之の存在は澤柳の宗教観にどのように影響したのであろうか。清沢は澤柳 にとって、東京大学文学部哲学科の1学年先輩であったが、寄宿舎では上田萬年とともに 同室であり、部屋では議論を交わしていた仲だったという27。その後、澤柳と清沢の関係 は清沢の死去まで続くことになった。
後年澤柳は、清沢の七回忌で、自身の戒律主義的仏教信仰と清沢の絶対他力を中心とし た仏教信仰とは「方面が少し違ふ」28と演説している。また、澤柳の次男礼次郎は、澤柳 の戒律主義的仏教信仰が清沢に宗教的感化を与えたとし29、吉田も清沢満之の回心が確定 したのは、澤柳から借りた『エピクテタスの語録』を読んだからだとしている30。これら のことから、澤柳と清沢の関係は、むしろ清沢に対して澤柳の思想が影響したということ もできよう。
しかし筆者は、澤柳と清沢を代表とする真宗大谷派の一部の僧侶が協力して行った真宗 大谷派の教学改革の一連の経緯において、清沢からの大きな影響が澤柳にはあったのでは ないかと考える。そこでは、以後の澤柳の宗教観だけではなく、教育観すら揺さぶられた 経験をみることができる。
清沢が所属していた真宗大谷派は、明治初期より公立学校の代替としての私立学校を経 営し、僧侶子弟教育と一般子弟教育を並行しておこなっていた。それは、明治初期は公立 の学校そのものが不足していたことにも起因している。
そもそも明治初期から中期までの仏教教団の学校経営については、僧侶の再教育、ある いは寺院子弟の教師(僧侶)養成という性格が強く、一般子弟の教育にはあまり力を入れ てこなかったと考えられている31。他方で、貧民層を対象にした小学簡易科の設置を仏教 者が担ったという例を挙げ32、この時期はまだ学校教育に仏教主義教育の成立しうる可能 性が残されていた点や、一般子弟をエリート僧侶候補生として囲い込む性格を持っていた 点、慈善事業としての性格を持っていた点を指摘する研究もあり、仏教教団の学校教育に 関する後世における評価は分かれている33。そのなかで真宗大谷派は、慈善事業としての 性格を含みながら、明治20年代以降も積極的に一般子弟を含む学校教育を実施してい た。
明治初期から公的性格を備えた学校経営を行っていた大谷派は、明治21年に、京都府 尋常中学校の経営を京都府から委託されることになる。この委託は京都府の財政難が主な 理由であった。公立中学校の委託は、大谷派の教学部長・渥美契縁と京都府知事北垣国道 との談合を経た上でのもので、東京帝国大学を卒業したばかりの清沢満之を校長に据え、
それ以来、大谷派による一般子弟の教育が本格的に、しかも公立の尋常中学校という場で 実施されていくことになった34。
しかし、この一般子弟の教育と僧侶教育を同時に実施するといった学校経営は決して成 功したとは言えなかった35。結局、開学当初には過半数を占めていた寺院子弟の学生が、
一般子弟の学生と同じ速度の勉学についていけなくなる事態に陥ったのである。そして、
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