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湖西地域の方形周溝墓の概観

ドキュメント内 近江における方形周溝墓の研究 (ページ 108-111)

第5章 近江の方形周溝墓Ⅲ(湖東・湖北・湖西地域)

第3節 湖西地域の方形周溝墓の様相

1 湖西地域の方形周溝墓の概観

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生時代の遺跡そのものが少なことから考えて、方形周溝墓遺跡も少ないことが実態であろ う。

2 方形周溝墓の規模・形態

高田館遺跡(522-019)で中規模(14m)の方形周溝墓 1 基が検出されているが、他の遺 跡ではすべて小規模の方形周溝墓群で構成されている。また、方形周溝墓の出現期から終 末期をとおして通例の方形周溝墓の形態を呈し、その多様化はみられない。この地域では 方形周溝墓遺跡・方形周溝墓基数が少ないので、規模の大小よりも方形周溝墓そのものの 存在に希少価値があるといえる。

3 方形周溝墓群の事例観察

この地域では墓群の事例は少ないが、10 数基以上の墓群が存在する遺跡を対象として、

時期を追って墓域での墓群の形成過程および群構成を検討する。

(1)北仰西海道き と げ に し か い ど う

遺跡(522-078)

図 43 弥生前期末~弥生後期

この遺跡はすでに第 2 章でもふれたが、ここでは墓域の状況と集団との関連について検 討しておく。この遺跡では縄文晩期中葉前半と考えられる地震跡(噴砂跡)が検出されて いる。この噴砂跡を切り込んで土壙墓・土器棺墓が造られているので、地震の後に墓群の 形成がはじまったといえる。その後、縄文晩期をとおして土壙墓 250 基以上、土器棺墓 90

表 10 湖西地域の方形周溝墓の規模・形態・群構成の時期別様相 表 9 湖西地域の方形周溝墓集成

105 基以上からなる集団墓が形成

される。数基の墓からなる小 群が環帯状に配置されており、

小群に対応する複数の集団の 存在が想定されている(葛原 秀雄 1987)。弥生前期末には 先行の土壙墓・土器棺墓を切 って方形周溝墓(SX5)が出現 し、さらに弥生中期中葉に SX6~14、弥生後期に SX2~4 が造墓される(SX1 造墓時期 は不明)。このように、縄文晩 期の土壙墓・土器棺墓(従来 墓)からなる集団墓の墓域に 弥生前期末には方形周溝墓が 出現する状況にあり、弥生前 期前半には造墓活動が一旦途 絶えるものの、この地が墓域 として認知されていたのであ ろう。

弥生前期末から中期中葉にかけての方形周溝墓群では軸方位や空閑地に着目すると、小 群(SX5~7、SX8~10、SX11・12、SX13・14)を抽出できる。これらの群構成は列状配置(形 態 A)をとり、小群を構成する各集団の紐帯意識を示しているといえる。これに対して、

後期になると方形周溝墓は散在している。集団内での紐帯意識以上に個人の顕示意識が強 くなるという傾向をあらわしているのではないか。

(2)南市東遺跡(524-041)図 44 弥生中期中葉~古墳初期

南市東遺跡は JR 安曇川駅の東方にひろがる、安曇川と鴨川との間の微高地に所在する。

ここでは方形周溝墓 16 基が検出され、弥生中期末 1 基、後期 14 基、古墳初期 1 基と推定 されている。ほぼ同規模の方形周溝墓が軸方位をそろえ、数基を単位として小群を構成し ている(集合配置 B1)。調査区域内では 3 小群(1・3・5 号、4・6・13 号、7・8・10・11 号)が抽出できる。

ところで、同じく安曇川により造成された沖積平野の北部の湖岸には、弥生後期の遺跡 群としてよく知られた針江南遺跡・針江中遺跡・針江北遺跡が存在する。これらは南北に つらなる一連の遺跡で、大溝で画された環濠集落を形成していたと考えられている。この 環濠の外側に木棺墓 8 基が検出されているが、方形周溝墓の埋葬施設ではないことも確認 されている(林博通 1998)。このように、弥生後期の環濠集落が形成されているが、墓制 は従来墓も採用されているとみられる。

図 43 北仰西海道遺跡遺構図

図 44 南市東遺跡遺構図

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(3)高田館遺跡(522-019)・弘川 B 遺跡(522-020) 弥生中期後葉

石田川右岸に位置する高田館遺跡(522-019)では弥生中期後葉の中規模(14m)の方形周 溝墓 1 基が、弘川 B 遺跡(522-020)では弥生中期後葉の小規模(8m)の方形周溝墓 1 基が 検出されている。また、弘川 B 遺跡(522-020)では方形周溝墓に近接して同時期の木棺墓 1 基も検出されており、従来墓と方形周溝墓が混在した墓域 であったといえる。これらの 遺跡は近接する遺跡であり、同じ生活圏に属していたと考えられる。

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