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方形周溝墓の受容

ドキュメント内 近江における方形周溝墓の研究 (ページ 118-124)

第6章 近江における方形周溝墓の受容と展開

第 1 節 方形周溝墓の盛衰

1 方形周溝墓の受容

(1)近江への方形周溝墓の伝搬ルート

水稲耕作の伝来とともに中国大陸・韓半島での墓制の情報が日本に伝わり、国内におい て水稲耕作の東漸の過程において各地域で墓制情報の取捨選択がなされ、たとえば近畿・

東海地域では方形周溝墓という墓制が創出されたと考えられる(第2章参照)。ここで は、近畿・東海地域で創出された方形周溝墓という墓制が、どのようなルートで近江に伝 わったのかを考える。

近江でも湖北地域・湖南地域ではすでに縄文晩期から弥生前期の遺跡(遺物包蔵地をふ くむ)において、近畿(主として河内)・東海地域の土器が検出され、近江との間に交流 があったことが確認されている(兼康 1990 など)。近江に水稲耕作の伝搬とともに墓制情 報がもたらされる素地はできあがっていたのである。

図 46

は近畿・東海地域における弥生前期の方形周溝墓遺跡(つまり日本において最古 の方形周溝墓遺跡)をプロットとした(第2章参照)。近江では弥生前期末の塚町遺跡 12

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図45方形周溝墓遺跡の時期別分布(1/3)

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図45方形周溝墓遺跡の時期別分布(2/3)

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図45方形周溝墓遺跡の時期別分布(2/3)

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表 11 方形周溝墓遺跡の継続期間

(遺跡名の後の番号は図中番号)・北仰西海道遺跡 11 の事例が初現であり、湖北地域・湖 西地域北部に所在する。弥生中期前葉には引き続き湖北地域において方形周溝墓遺跡があ らわれ、湖南地域(湖南地域西岸もふくむ)にも新たにあらわれる。

一方、近江外の弥生前期の方形周溝墓の状況をみると、近畿地域では河内平野・大和盆 地に弥生前期中葉から後葉にかけて多くの遺跡があらわれている。東海地域では濃尾平野 にも同時代の方形周溝墓が所在する。また、近江から離れるが、北近畿地域では弥生前期 末には丘陵上に台状墓(京都府京丹後市・七尾遺跡)や方形周溝墓(兵庫県豊岡市・駄坂 舟隠遺跡 3)があらわれるが、その後、台状墓・四隅突出墓などの独自の墓制を展開させ る(福井県鯖江市教育委員会 2011 など)。

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近江内外のこのような状況から、方形周溝墓の伝搬ルートとして河内・南山城方面から 淀川・木津川・瀬田川に沿って北行するルート(淀川ルート・瀬田川ルート)、尾張・美 濃方面から伊吹山南麓を経て西行するルート(伊吹ルート)が想定できるであろう。た だ、湖西地域北部(北仰西海道遺跡 11)への伝搬は陸路より湖上を経由したと考えた。

湖上交通についは、湖岸沿いの縄文後期・晩期の遺跡(尾上浜遺跡・松原内湖遺跡・長命 寺遺跡・元水茎遺跡・赤野井湾遺跡・入江内湖遺跡)から丸木舟が出土しており、また、

滋賀県文化財保護協会の主導で丸木舟での湖上交通が実験的に復元・確認されている(横 田 1990、滋賀県文化財保護協会 2007)。

このような伝搬ルートを想定したが、東海地域と湖北地域(塚町遺跡 12・北仰西海道 遺跡 11)では周溝形態が異なる。すなわち、弥生前期において東海地域では周溝部の隅 に陸橋を設ける(いわゆる隅切れ型)形態 A4 であるのに対して、湖北地域・湖西地域北 部では陸橋部を設けない形態 A0 であり、近畿地域に多くみられる周溝形態をもつ。この ことは、方形周溝墓の情報をもとに近江の在地集団が方形周溝墓を造りはじめたのか、移 住してきた集団が造ったのかという点もふくめて、今後の課題である。

図 46 近江地域への方形周溝墓の伝搬ルート

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(2)近江での方形周溝墓の伝搬

湖南・湖北地域にそれぞれ異なるルートで伝搬した方形周溝墓がどのように近江内部に 拡散したのだろうか。図 45(2)の弥生中期中葉には、湖南地域では弥生中期前葉の方形 周溝墓遺跡を中心にして野洲川流域にひろがり、さらに扇状地端に沿って南部へとひろが っている。湖北・湖西地域では遺跡数は増えないが、各遺跡で継続した造墓活動が続く。

これに対して方形周溝墓の空白地域であった湖東地域での方形周溝墓の出現は弥生中期 中葉であり、他地域と比べてやや遅れる。その分布も稲作の適地と考えられる湖岸近くの 低湿地帯よりも、日野川上・中流域の小規模な沖積平野により多く分布する。湖南・湖 北・湖西地域では、方形周溝墓の初現がまず琵琶湖岸の近くにみられるのとは状況が異な るようである。ただし、これはあくまでも方形周溝墓遺跡の有無であり、この地域の湖岸 付近にはすでに弥生前期前葉の遺跡(竪穴建物跡など)があり、人々の生活が厳然として あったことが確認されている。

では、湖東地域への方形周溝墓の伝搬はどのように考えられるだろうか。図 46のよう に伊勢湾岸には弥生前期から中期前葉の遺跡(三重県津市・松ノ木遺跡 17 など)が知ら れている。ただ、この遺跡から鈴鹿山地を越えて近江に向かえば野洲川上流域に入ること ができるが、日野川上流域は筋違いのルート上にある。また、湖北地域から湖岸沿いを南 下して伝わったとすれば、その伝搬ルート上にある犬上川・愛知川流域の扇状地にもこの 時期の方形周溝墓遺跡が存在するはずであるが、その痕跡はみられない。このような状況 から、湖東地域へは湖南地域から伝搬したとみるのが妥当であり、その実態は湖南地域の 方形周溝墓集団が湖岸付近の稲作適地をさけて、日野川上・中流域にその墓制を持ち込ん だのではないか。その背景には湖岸付近にいた湖東地域の在地集団が方形周溝墓という墓 制を採用しなかったということではないか。

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