はじめに
子ども虐待について考える上で、また子ども虐待に対する対策を考える上で、死亡事例は特別な位 置を占めている。
たった一つの死亡事例が、その後の施策のあり方に大きな影響を与えることもしばしば見られ、時 には子ども虐待についての社会の認識を変え、時にはソーシャルワークの方法を改めるよう求め、さ らには法改正に繋がることもある。ここでは、私たちの社会が死亡事例に対してどのように向き合っ てきたのか、また子ども虐待対策に対して、死亡事例がどのような影響を与えてきたのかを振り返り、
合わせて死亡事例検証のあり方についても検討することで、今後の虐待対策のあり方を展望したい。
戦前の児童虐待死亡事例
いささか迂遠にはなるが、本論考は戦前の虐待死亡事例から始めたい。むろん、戦前の時代と現代 とでは社会情勢も違えば制度施策も大きく異なっている。したがって、今後の虐待対策にとって如何 ほどの意味があるのか、疑問としないわけではないが、死亡事例の持つ意味を検討する上では、何ら かの参考となると考えられるからである。
さて、戦前のわが国において、初めて死亡事例を検討したのは、三田谷啓(1916)「兒童虐待に就て」
ではないかと思われる。三田谷は、「人類の慈愛心を禽獸に及ぼさんとして或は鳥類保護會を造り、
或は獸類虐待防止會等のものを起せる傍にありて、尚ほ兒童を虐待し、甚だしきは之を死に至らしむ るものあり。蓋しその因って來るところは千態萬狀なるべし。然れども人類が同じ人の兒を虐待し、
甚だしきは之を殺すに至るを思へばその悲慘なる狀況に對して寒心せざるを得ず」と述べ、その実態 を明らかにしようとする。
とはいえ、この当時、児童虐待についての統計など存 在するはずもなく、三田谷は、1910 年(明治 43 年)8月 から 1915 年(大正4年)2月までの4年6か月間を対象 にして、児童虐待事案について「日本全國の新聞中より 抄録」する形をとった。そこで収集されたのは表に示す とおり、116 例であったが、これらのほとんどは死亡事例 であった*1。
三田谷は、「悲慘なる事實が新聞の記事として現はれざ るもの多かるべし」「實際の例は尚ほこの外に多數あるこ とは言ふまでもなし」と述べているが、これらの事例の
表1 三田谷(1916)による児童虐待の件数
児童虐待の状況 件数
實子を虐待せしもの 84
貰子を虐待せしもの 18
孫を虐待せしもの 4
内縁の妻の子を虐待せしもの 2
先夫の子を虐待せしもの 2
子守が子を虐待せしもの 2
先妻の子を虐待せしもの 1
同胞 1
不明 2
計 116
*1・ 三田谷が「虐待の方法及び虐待者の種類別」として掲げたもの中から、「未遂」を除いて、つまり死亡事例と思 われるもののみを取り出すと、事例数 116 に対して死亡した子どもは 248 人となり、事例数の倍以上の子どもが死 亡しているという。川﨑(2009)参照のこと。
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は一八なるに貰ひ子の數は二百九人に達せり。其中百三十五人(六四・五%)が虐待によりて死亡せる」
と指摘する。
また、「親子心中」を虐待と位置づけて論じている点も注目してよいだろう。すなわち、「兒童を虐 待して次に自ら死亡するもの多し」「予の調査材料の中虐待者が生命を捨てんとせしもの(自殺者及 び自殺未遂者)は實に五十五名に上る。其中自殺未遂者二十一名及び生死不明二名を減じたる殘り 三十二名は自殺の目的を果したるものなり」というのである。それはさておき、戦前における児童虐 待防止事業の発展において、重要な役割を担わされたのは「貰い子殺し事件」であった。以下では、
有名な2つの事件を取り上げて、その影響を見ておきたい。
その第一は、「お初殺し事件」である。1922 年(大正 11 年)7月、東京浅草で、お初という 10 歳の 少女が惨殺された事件で、セルロイド職工と内縁の妻に貰われたお初は、毎夜毎夜の折檻を受け、こ の年7月2日、「痛いから堪忍しておくれ」と云いながら絶命し、遺体をバラバラに切断されて捨て られたという。あまりのむごさに、浅草方面では「お初の唄」と呼ばれる唄が流行し、浅草黒船町榧 寺には、お初を哀れんで「お初地蔵」が建立され、後には映画「新お初地蔵」にもなって人々の涙を誘っ たというのだから、当時としても社会を大きく騒がせた事件といえよう。
さて、この事件を受けて、急遽児童虐待防止活動を始めたのが山室軍平率いる救世軍であった。当 時の読売新聞は、そのことを次のように伝えている。
「淺草新福富町の少女慘殺事件は非常に社會を驚かしたが、此種の事件を未然に防ぐ爲め救世軍で は今度兒童虐待防止部を開始し今一八日午後七時から神田區一ツ橋町救世軍中央會館内に講演會を開 く、出演者は田子内務省兒童社會局長、原胤昭氏、山室軍平氏等らである」(1922 年7月 18 日付け)
実は、わが国における児童虐待防止事業は、三田谷の調査とほぼ時を同じくする 1909 年(明治 42 年)
頃、更生保護事業の父と呼ばれた原胤昭によって始められていたが、原の取り組みは、あくまでも更 生保護事業の「片手間」という位置づけであった。したがって、わが国における組織的な児童虐待防 止事業は、この「お初殺し事件」を契機に始まったといってもよいのである。
さて、次に取り上げるのは、この事件から 10 年も経たない 1930 年(昭和5年)に発覚した「岩の 坂貰い子殺し事件」である。当時、東京のスラム街と言われていた岩の坂で、金目当てに乳児を預かり、
養育料を受け取ると次々に殺害していたと報道された事件である*1。そして、事件から約2か月後、
*1・ 紀田順一郎(2000)「東京の下層社会」によれば、時間の概要は以下のとおりである。「追々判明してきた事実に よると、子どもの両親は市外多摩川村の村井隆とその妻幸子という三十代前半の夫婦であったが、夫が失業中で経 済的に困窮しているところへ妊娠が重なったため、子どもが生まれる前から手放したいと思っていた。現代のよう に正当な手続きさえ踏めば中絶が可能な時代ではない。もぐりの手術は危険なので、ともかく産んでから赤ん坊の 顔も見ないうちに『養子』に出してしまうしかないというわけで、下町の産院などには常にもらい子の周旋人が出 入りしていた。村井夫婦もこのような周旋人の『立派な養い親だから養育費はいらない。ただ手数料だけでよい』
という口車に乗って、生まれたばかりの子どもに現金十八円と初着を数枚つけて渡した。周旋人はこの件を岩の坂 の福田はつに相談、はつは更にキクに持ちかけたのである。キクはこれより以前、もう一人の死児の診断書を水村 医師に要求したさい、たっぷり油をしぼられたことを思い出し、『今度は困る』としぶる。そこを半ば脅迫的に押 しつけ、手数料のうち八円と初着は周旋人と山分けしてしまった」「以後二週間のうちに判明したのは、彼女をふ くむ六人の住民が計三十三人の子をもらい、うち一名を除いて全員が『変死』したということだった」
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次のような指摘が現れる。
「子なればこそ虐待されて・ 文句が言へぬ今の法律 兒童の生命と幸福保護の爲・ 特別法の制定に着 手」「理非曲直を超越して子供は其の親に絶對服従しなければならぬと云ふのが我が國家族制度の傳 統であるが最近の實情に照しかう云ふ制度は親權の兒童虐待を寛容する結果となると言ふので社會局 が兒童保護の特別法制定に關し研究することになった」(読売新聞 1930 年6月 15 日付け)
1933 年(昭和8年)に制定された戦前の「児童虐待防止法」制定の背景には、こうした虐待死事件 も預かっていたものと言えよう。
1974 年 厚生省の調査
戦後に入って、子どもの虐待死に関する全国的な調査は、厚生省児童家庭局育成課が 1974 年に報告 をした「児童の虐待、遺棄、殺害事件に関する調査結果」が初めてであろう。このとき調査対象となっ たのは「昭和四十八年度中(昭和四十八年四月一日から昭和四十九年三月三十一日まで)に児童相談 所が受理した三歳未満児に対する虐待、遺棄のケース並びに各児童相談所管内で発生した三歳未満児 の殺害事件のケース」とされており、各児童相談所が調査票に必要事項を記載し、厚生省児童家庭局 が集計を行っている。
なお、『殺害事件』とは「三歳未満の児童が殺害され るか、または、殺害されようとしたもの」とし、その内 容を表2のようにさらに区分けして分類・集計している。
この調査結果によると、1973 年度の1年間に3歳 未満の児童が殺害された事件は 251 件(人)であった。
1970 年代前半は、「コインロッカーベビー事件」が 社会的な関心を呼んだ時期であり*1、厚生省の本調査
が、3歳未満児に限定して調査を行ったのも、こうした情勢の中で乳幼児の殺害事件の実態を明らかに しようとしたことによるのではないかと思われる。
なお、1970 年代は、コインロッカーベビー事件にとどまらず「子殺し」の報道が多くなされ、「母 性喪失の時代」といった論点からの議論が強調される時代であった。一方、「子殺し」を「児童虐待」
として位置づけ、論じるということは少なかったと思われる。事実、厚生省の調査においても、殺害 事件とは別に「虐待」という項目を設定しており、この項目に該当する事例は、24 件だったとしている。
現在は、児童虐待の最も深刻なものとして死亡事例があるとの考え方が共通認識となっているが、
この当時は、殺害事件を児童虐待という観点でとらえていたわけではなかったようで、こうした調査 をふまえて児童虐待対策が始まることはなかった。また、調査自体もこの年限りの単年度で終わり、
以後、同種の調査は行われていない。
表2 1973年度における3歳未満の『殺害事件』
分類名 定 義 件数
殺害遺棄 殺害して死体を遺棄 135
殺 害 殺害のみ 51
心 中 親子心中等の自殺の道連れ 65
計 251
児童家庭局育成課(1974)より作成
*1・ 保坂他(2011)『日本の子ども虐待(第2版)』は、そのあたりの事情を次のように述べる。「1970 年2月『東京、
渋谷のコインロッカーで嬰児の死体が発見される』(下川 2002)という事件が起きる。同様な事件がこの年2件、
さらに 71 年3件、72 年8件、73 年 46 件と急増していくことになる」