• 検索結果がありません。

3-1.金正恩体制誕生

1990年代半ばの3年連続の自然災害による食糧難で、北朝鮮では33万6000人 と推定される死者が出た。住民の相当数が食糧を求めて全国をめぐり、国境を越えて中国 に脱出する例も目立った。北朝鮮公式報道機関は「社会主義国家が相次いで倒れ、帝国主 義者たちが自分たちの勝利を見せ付けようとしていた、その時、社会主義朝鮮の存在にお いて、大きな憂慮と社会主義の終末という暴説が振り撒かれていた時期、一生に一度、い や数百年で初めて見る恐ろしい自然災害が続いた。20世紀最後の年代にわが人民が当面 した苦難の行軍は1つの国、1つの民族の歴史や人類史で、類例を求めることが出来ない 最悪の試練であった」(51)と述べた。そのような最悪の状況の続く中で、金正恩体制は 発足したのである。

2011年12月19日、金正日の死去が公表された。

金正日が20年の後継者としての余裕時間を与えられたのとは異なり、金正恩には時間 も、権威も、経験もなかった。その金正恩が国家を取り巻く国際的孤立、経済難を克服す るための方法は多くなかった。そのほとんど唯一の選択肢が「金日成回帰」だったと考え られる。

「金日成回帰」はまず、金正恩が後継者として初めて公の席に登場した2010年9月 の労働党代表者会での、金正恩の外貌に現れた。

- 42 - 3章写真-1

<説明>建国記念式典での金日成と金正日(83年09月撮影、左)と党創建65周年記念 マスゲームを観覧する金正恩(2010年10月撮影)。髪の毛の両脇を刈り上げ、オールバ ックにしたヘアスタイル。詰め襟の黒い人民服。ふくらんだ頰と二重あごに、まだ20代 なのに、でっぷりとふくらんだ腹部。金正恩の外貌は祖父、金日成を真似たものである。

3章写真-2

<説明>上の写真(朝鮮中央通信の配信写真と「DAILY NK」掲載写真を並べた)

は、30代当時の金日成と、金正日の葬儀に出席した金正恩の写真を並べたものだ。顔 かたち、服装まで、金正恩が「祖父」のスタイルをすべて、真似ようとしていることが、

よく分かる。

- 43 -

こうした祖父の外貌模倣を指示したのは金正日以外にはありえない。顔かたち、挙動 まで金日成を模倣することで、金正恩の経験不足をカバーし、後継者に対する国民の支 持をつなぎ止めようとしたと考えられる。

3章写真―3

<説明>金正日は公式の席に夫人を伴って現れたことは一度も無かったが、2012年 7月9日付労働新聞は、金正恩が李雪主夫人を伴って、牡丹峰楽団公演を観覧する姿を 初めて報道した。

金正恩が金正日時代に行われなくなった「新年の辞」を復活させたのも祖父の時代を国 民に思い出させるためだった。た。

7月26日付労働新聞は、綾羅人民遊園地竣工式に出席した李雪主夫人が金正恩の腕を 取って歩く姿を伝える等、夫人同伴の報道は、その後続出した。

また、2012年7月9日付労働新聞(上)の掲載写真で、金正恩の右側に座っている 人物は、金正恩の側近中の側近である崔竜海・労働党中央委員会副委員長である。

- 44 -

崔副委員長の父は元人民武力部長の崔賢で、金日成と常に行動を共にしていたことで知 られる。金正恩が崔副委員長を常に側近として身近に置く理由は、金日成と崔賢の関係を よく知る北朝鮮住民に「金日成回帰」を強く印象付け、金正恩体制への期待感を高めるた めだったと判断できる。

3-2.軍部主導から党・国家機関主導への変化

イメージ変化と同時に制度と組織の変更が進行していた。

注目される組織機能の変化の1つが最高人民会議常任委員会の権能拡大(立法、外交、

褒賞)である。

最高人民会議常任委員会は、北朝鮮の最高主権機関および立法機関である最高人民会議 の常設機関である。最高人民会議の休会中は最高主権機関となり、立法権を行使する役割 を果たすと憲法で規定されている。だがその歴史は毀誉褒貶が激しかった。

1948年9月の最高人民会議第1期第1回会議で「朝鮮民主主義人民共和国憲法(1 948年憲法)が制定され、それに基づき最高人民会議常任委員会が設置された。最高人 民会議常任委員会は最高人民会議閉会中の最高主権機関とされ、最高人民会議の招集権や 最高人民会議で制定された法令の公布、憲法・法令の解釈権および憲法・法令に違反する 内閣の決定・指示の廃止などの権限を与えられた。

さらに外国との条約の批准及び廃棄、外国に駐在する大使・公使の任命及び召還、外国 使臣の信任状及び解任状の接受などの権限も与えられ、常任委員会委員長は対外的に国家 元首の権能も果たした。

しかし1972年12月の朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法(1972年憲法)制 定時に、最高人民会議常任委員会は廃止され、新たに国家元首として朝鮮民主主義人民共 和国主席が設置された。(55)最高人民会議常任委員会に代わる最高人民会議の常設機関 として、権限が縮小された最高人民会議常設会議が設置された。

1994年7月8日の金日成の死後、国家主席は空席となり、1998年9月の憲法改 正で「国家主席」及び「最高人民会議常設会議」は廃止。最高人民会議常任委員会が復活 して最高人民会議閉会中の最高主権機関および立法機関として再登場した。また、最高人 民会議常任委員会委員長が再び、対外的な国家元首の権能を果たすこととなった。(53)

しかし、国家運営の実権は、前章で明らかにした通り、国防委員会が握っていた。20 11年12月の金正日の死去で、状況は一変する。最高人民会議常設会議に国家機関とし ての実権が戻ったのである。1984年以降、北朝鮮が採択した外国人投資関連の法令が 2011年11月~12月、最高人民会議常任委員会で最終修正され、金正日が死去した わずか4日後に外国投資企業登録に関する新たな法修正が実施された。最高指導者の死去

- 45 -

という「国家非常事態」の中でも国家機関としての機能を果たすことを許されたのは、北 朝鮮指導体制の中で最高人民会議常任委員会の権限と機能が認められたことに他ならない。

また、金永南・最高人民会議常任委員長は対外的に「国家を代表し、他国の外交使節の 信任状、召喚状を受け付ける」国家元首の役割を取り戻した。外国の首脳に祝電や弔電を 送る親善外交を担当し、金正恩が直接対応しない、第三世界の国家元首との首脳外交も遂 行する。また、2009年と2012年の改正憲法で、最高人民会議常任委員会に「勲章 とメダル、名誉称号を付与する権能」が与えられた。金正恩体制発足以来、多くの勲章や メダルが制定された。金正恩に対する住民の自発的な忠誠心を煽るための勲章、メダル制 定とも推測されている。

3章写真-4

<説明>金正日総書記弔問のため平壌を訪れた韓国の故金大中元大統領の李姫鎬夫人

(中央)と挨拶を交わす金永南・最高人民会議常任委員長(右)。この写真からも最高 人民会議の権限拡大が確認できる=2011年12月27日、新華社ホームページより

ソ連最高会議常任委員会をモデルに金日成が作った最高人民会議常任委員会は、最高指 導者(首領)の意思を国会運営に反映させるシステムとして重要であり、北朝鮮の場合は 常任委員会に所属する最高指導者側近がすべての政策決定に決定的な影響力を持つ。だが、

金日成が国家運営の柱として期待しながら、実際は権力闘争激化により常任委員会の適切 な運用が不可能になり主体思想による独特の指導体制が必要になったと考えられる。最高 人民会議常任委員会の正常化は金日成体制への回帰であると同時に金日成・金正日体制を 乗り越え発展してゆきたいとする、金正恩の強固な意思の表れである。

- 46 -

また、政府機関と同様に重要なのは朝鮮労働党中央軍事委員会の機能復活だ。同委員会 は1948年制定の党規約では「軍事政策についての討論決定,朝鮮人民軍の領導、軍需 産業の開発,軍事力の統率を行う」と機能が定められていた。1980年に金正日が第6 回党大会で中央軍事委員会委員に選出され、91年に第2代朝鮮人民軍最高司令官に就任 する手続きを取って金正日は最高指導者として公式化された。その時まで、軍事委員会の 権威は保たれていたと考えられる。

しかし、その後、金正日政権下では、前述の通り、国防委員会が実権を担い、党中央軍 事委員会は役割を果たさなかった。

2010年9月28日、朝鮮労働党第3回代表者会において、金正恩は党中央委員に選 出され、同日に開かれた党中央委員会総会で党中央軍事委員会副委員長に選出された。こ れらの動きにより金正恩の「後継者」としての地位が確定した。同時に、この時に改定さ れた朝鮮労働党規約第27条は軍事委員会について「党大会と党大会の間に軍事分野で立 ち向かうすべての事業を党的に組織指導する」と定め、「党の軍事路線と政策を貫徹する ための対策を討議決定し、革命武力を強化して軍需工業を発展させるための事業」をはじ め「国防事業全般を党的に指導する機関」に権能を拡大した(54)。党中央軍事委員会の 権限は公式に復活した。

その他にも党代表者会、党中央委員会全体会議、党政治局会議、党書記局など、多くの 党機関が、金正日時代に失っていた機能を回復した。

3-3.まとめ・スムーズな権力継承の理由

金正日体制の北朝鮮において、指導者が党を通じた社会統制への限界を認識し、政治的、

経済的、社会的安定を維持するために軍隊により重要な役割を果たすよう求めた経緯は、

既に述べた。

金正日体制の北朝鮮が「軍事国家化」を指向し始めた1996年には、党中心の国家制 度では国家経済悪化を防ぐことができないことが明らかとなり、金正日は「現在、党の責 任者は軍隊の責任者より(仕事が)できない」「すべての党組織と党責任者は自高自大せ ず、革命的軍人精神を学び、党の事業で新たな転換を引き起こさねばならない」(55)な どと述べて、軍優先の政策実行を宣言し、1996年が「先軍政治」実施の分岐点となっ た。そして、軍事国家化の究極の形として表出したのが、核・ミサイルを中心に据えた

「先軍政治」であることも述べた。

一方、前出の鐸木は「イデオロギ上の説明とは異なり、先軍政治とは(党が主導する)

人民軍を中心としたものではなかった」という、金正日体下の「先軍政治」の特殊性に言