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杉 R

ドキュメント内 1  条坊遺構 と地 割 (ページ 50-54)

ス       ギ

前頁註 5) 前 掲書。                 査報告』 1972。

32   杉 R

32次補 68   杉k 93   杉k 大和郡山市

160次 奈 良市128次

2 2

茨城県教育財団『 鹿の子

C遺

跡』

1983。

前頁註

1)に

同 じ。

左京三条一坊 十六坪 平城宮東南隅 左京二条二坊 左京八条三坊 右京八条一坊 十四坪 左京八条一坊 六坪 左京七条一坊 九坪

計帳 不明

田籍関係文書等 不明

籍帳関係・仏典 小子小女歴名

「近江国神前郡」

宅地内土坑 宮内道路南側溝 東二坊坊間大路 西側溝 九・ 十坪坪境小 路南側潜 上坑

宅地内掘立柱建 物柱抜取穴 宅地内井戸

5 6 6

刺 3

木簡学会『木簡研究

3』

1981

交 葬 異 襲 誦 磐 嚢 各 暮

̀(金

話 坊 三 ・ 奈 文研 『平 城宮 木 簡四 解 説』

1986

褒 義 塞 観 柔 ♂亮 籍

9来

審 掌 雲作 茉 簡 研究 9』

1987

奈文研『平城京左京八条三坊発掘 調査慨報』1976

本書

奈文研『平城京左京八条一坊三 六坪発掘調査報告書』1985

套 晟雲 摯香 ≦ 奈晶嘉経肇基

̀ヒ

盈 認

3)佐

藤宗諄 。橋本義則 「漆紙文書集成」『木簡研

9』

1987。

り め   例

調査位置  │ザ点数

1  

  

Tab.30 

平城官・ 京出土漆紙文書一覧

「□□年参拾壱歳」等

3行

分の文字が確認 され

,籍

帳様文書の一部か と見 られ る漆紙文書を出 上 した山形県生石

2遺

跡は奈良・平安時代の板材列で囲まれた

2箇

所の施設があ り

,そ

の一方 の中には

,住

居跡

,倉

庫跡等が整然 と配置 され

,公

的な施設 と考 え られている。縦横の界線を1)

もち,「□猿売年ノ邑鴇 長年十歳」など

6行

にわた り

人名・ 年令等を真書で 記す計帳様文書

2)

断簡を出上 した官城県多賀城跡は

,陸

奥国府であ り

,鎮

守府の置かれていた所 でもある。縦横 の界線を有 し

,「

妹 占部子稲主女年弐拾捌

 

署沓後黒子」な ど人名 。年令・年令区分 。身容的特徴 を示す13行分の計帳様断筒など

,多

数の籍帳様文書を出土 した鹿の子

C遺

跡 は常陸国衝機構中 の 国衝工房 と見 られ ている。「男志斐連矢麻 呂年弐拾壱歳3)

 

進 正丁 」等

8行

分 を残す志斐連 某

戸 の計帳 あ るいは戸籍 の断簡 は長 岡京左京 四条四坊六町の上坑 か ら出土 してい る。前述 の平 城 京 左京三条一坊十六坪 の土坑 か らは,「 □ 嶋 年九

 

浮浪

 

和 □ 」 な ど

4行

分 の計帳様文書断箇 が 出土 した。 同坪 は

,平

城宮東南隅にす ぐ南接す る地点にあた る。宅地 の東北 隅を発掘 したのみ だ が

特殊 な構造 の 掘立柱建物 と数条 の 塀 等 が 検 出 されてお り

,二

条大 路・ 東一坊 大路 に面 し

,官

に臨む位置 に当た る ことか ら

,何

らか の公的施設 か高位高官の宅地 と考 えたほ うが良 い と見 られていB。 また平嫉京左京八条一坊六坪 か らは,「口田匝コ小箇 歎 会 一十」 な ど小 子 。 小 女 を列記 した10行 分 の歴名断簡 が出土 して い る。 これ は様式的には

,戸

籍 また はそれ に近 い 歴名文書 と思われ るが

,小

子・ 小女等不課 日のみの記載 であ り,「一十」 な ど数字 の異筆書 き 込 み が あ るな ど

,そ

うで ない可能性 もあ る。 この漆紙文書 が出上 したのは高位高官の宅地 の一

6)

部 と考 え られている。

戸籍 。計帳は

,中

央では

,中

務省・民部省

,地

方では国衛に保管 されるものである。それが 一定 の保存期間を過 ぎると

,廃

棗処分に され反故紙 とな り

,漆

の蓋紙に再利用 されたわけであ るが

,上

に見た籍帳様漆紙文書の出土 した遺跡を見れば

,国

衝関係遺跡 (多賀城跡

,鹿

の子

C

遺跡

)を

中心 とす る官衝遺跡

,あ

るいは貴族の邸宅跡に集中 していることが分かる。正倉院に 現存す る籍帳の大半が

,そ

の経路は不詳ではあ るが

,民

部省ないし中務省か ら

,一

括 されて金

7)

光明寺写経所に渡 り

,そ

こで紙背を利用 された ものであることを考 え合わせ る時

,前

者の傾 向 は当然の ことといえよう。官衝あるいは公的施設 との関係を今の ところ想定できない遺跡は長 岡京左京四条四坊六町 と平城京左京八条一坊六坪のみであるが

,前

者は道路予定地のみを発掘 した もので

,付

近の遺構の全容は明らかでない。 また

,後

者出土の漆紙文書は籍帳様文書 とい

うには疑間の残 るものである。

この ような籍帳様文書の出土傾 向か らす るな らば

,漆

紙文書を含んでいた土坑

SK2001を

う遺構 は公的な性格を もつ ものである可能性が大 きいのではなかろ うか。

SK2001か

らは多 く の漆が付着 した土器片や漆容器の栓 な どが出土 して消 り

,奈

良時代前半に漆工房が近辺にあっ た ことが うかがえる。 この工房が公的なもの との想定は

,漆

工房に隣接 して営 まれていた鋳造 工房が官営工房の可能性が強いとい う第

V章 ‑5の

想定 とも符合す るものである。

1)山

形県教育委員会・ 山形県埋蔵文化財緊急調査 団『 酒 田市生石2遺跡 第3次調査説 明資料』

1986。

2)宮

城県多賀城跡調査研究所『多賀城 漆紙文書』

1979。

3)前

頁註

1)に

同 じ。

4)p189註 2)に

同 じ。

5),6)p.189註 1)に

同 じ。

7)岸  

俊男「籍帳備考」『宮都 と木簡』

1977。

一方

,仏

典 の漆紙 につ いて言 うと

,漆

工房 が公的施設 であ る とす ると

,官

の写経所 で書写 さ れ た可能性 が大 き くなろ う。その際

,そ

れが漆 の蓋紙 に用 い られ るに至 った経練 には

,次

の よ

うな場 合 が想定 され よ う。ひ とつ は写経所 か ら反故 として払 い下げ られ るな どして

,別

の公的 機 関 が入手 し

,そ

こが

,漆

の蓋紙 に転用 した場合

も うひ とつ は十 四坪 にあ った漆工房 自体 が 写経所 と関係 が あ り

,そ

こか ら直接反故紙 を支給 された場 合 であ るが

,現

段 階では どち らの可 能 性が高 いか を即 断す る こ とは で きない。漆紙文 書 の中 には

他 に も(18)(19)の よ うな公文 書 と見 られ る ものが あ り

,そ

れ らを含めての漆紙 の入手経 路 の解 明が今後 の課題 となろ う。

B  墨書土器

今回出上 した墨書・刻書土器の特徴 としては,lAl意味不弱の

1文

字のものが大半を占める,

①それは「W」「 ×」「 令ヵ」の ような記号

,な

いしは「 十」など記号 と思われるものが多い,

⑥「 十」お よび「 十ヵ」19点

,「

×」

7点

,「↑ヵ」

6点

な ど同一文字 (記号

)を

記 した もの が多い

とい う点を指摘で きる。

これ らの特徴は平城宮出土の墨書土器 とは大いに異なるところである。すなわち平城官出土 のものには,「宮 内省」「大膳」「主馬」な どの官司 。官職名,「六人部」「人足」などの人名,

「清奈」「酒」な どの物品名

,陽

鵡郭」「浣塊」などの器名,「宮内天長節」「供養」などの用途 名等が 墨書 されている場合が多い。 とりわけ 官司 。官職名 は

その器の所属を 示す ものであ

1)

,平

城官に限 らず官衡遺構か ら出土す る墨書土器に特有の もの といえる。

今回出土 した ものの中で上記の ようなものを探す と

器の内容物を しめす「警」

人名を し めす「常万 呂」「国人」

西市 と関連するか もしれない「西」などが見つかる 程度で

官司・

官職名を記 した ものiま全 くな く

,平

城宮出上の墨書土器 とはいち じるしい対照をなしている。

む しろ

,は

じめに指摘 した ような本遺跡出土の塁書土器の特徴は

,集

落遺跡出土のそれ と共 通す るものである。すなわち吉岡康暢氏に よれば

,村

落遺跡出上の墨書土器の特色は

,施

設名

・官職名 。人名は存在 しても僅少で

,大

多数が単字旬か らなることであるとい う。そ して墨書 土器の組成に よって

,〔

A〕 施設名・官職名 。人名を含む遺跡 と

,(B〕

ほ とんど単字旬のみ か らなる遺跡に大別 され

,〔

A〕 は千葉県山田水呑遺跡を標準 とす る「土豪村落型」,「B」

2)

「 一般村 落型 」 と呼 び うる とい う。

この吉 岡氏 の分類 に したが うな ら

,本

遺 跡 は 〔B〕 に属 す るもの といえそ うである。 しか し また

,吉

岡氏 に よれ ば村落遺跡 においては

,墨

書土器 は主 として竪穴覆 土 ない し掘立柱建物 近 辺 の包含 層 か ら出土 し

,溝

を主体 とす る官衛遺跡 と対 照的 であ る とい う。 この点でいえば

,本

遺 跡 で は溝 と井 戸 か ら大半 が 出土 してお り

,村

落遺跡 とは異 な り官衝遺跡 と共通す る特徴を示 して い る。

墨書土器 と出土遺構 との関連を見てみ ると,「 十」 は十 四坪北半に集中 し,と りわけ

SK2001

か らは

m点

も出土 してい る。 また「 令」は

6点

4点

,「

爾」は

4点

3点

が 十三・ 十四坪 坪 境小路 の両側溝 か ら出上 してい る。 この よ うに

,複

数 点数 出土 してい る墨書土器 は

,特

定 の

1)平

城宮 出上 の墨書土器 につ いては

,奈

良国立文 化財研究所『 平城宮 出土墨書土器集成

I』 1983,

及び『 同 Ⅱ』 1989参 照。

:92

2)松

任市教育委員会・石川考古学研究会「墨書土 器」『 東大寺領横江庄遺跡』1983。

箇所 か ら集 中的 に出土す る とい う特徴を有 してい る。

これ らの うち

,特

に注 目され るのは「 十」であ る。それ は

SK2001か

ら11点 と大量 に まとま って出上 してい る他

,そ

の西 にあた る地域の

SE2020か

2点 ,SK2033・ 2036か

ら各

1点

出 土 して い る。

SK 2001,SE 2020は

奈 良時代前半の Ⅱ期 に属す る鋳造・ 漆工房関係 の遺構 であ る。 と りわ け

SK2001か

らは漆付着土器・ 漆塊 。漆紙 な どが大量 に 出上 し

,近

接 した場所 に漆 工 房 のあ った ことが推定 されてい る。「 十」は この他 では

,十

三 坪 の

SE1315や

十三・ 十 四坪

坪境小路南側溝 な どか ら

3点

と孤立 した出土状況をみせてい るのに対 して

,十

四坪北 区東半へ の集中度 はいち じる しい。 したが って

,そ

れ は

,奈

良時代前半 の鋳 造・ 漆工房関係施設 に固有 の墨書銘 とい うことに な る。

そ して この地域 では他 にあ ま り墨書土器が見つか っていない こ とか らす ると

,「

十」 はそれ を墨書 した土器を管理・ 所有す る個人を識別 す るものではな く

,所

属施設 を識別 す るための も の

,す

なわ ち施設名 に代わ る もの といえるのではなかろ うか。そ の場合

,漆

に関す る遺

77Jが

大 量 に出土 した

SK 2001か

ら多数 の「 十」墨書土器が集中的 に見つ か って いる ことか らすれば,

それ は漆工房へ の所 属 を示す墨書銘 と考 え られ よ う。 なお

この ことか らも「 十」 は先に記 し た よ うに数字 ではな く

,記

号 と考 え るべ きもの とい え よ う。平城 官 において も

,そ

の東南隅に おけ る第32次 調査 で

,官

の東面外堀 にあた る東一坊大路西側溝や南面 外翔 であ る二条大路北側 溝 か ら

,記

号 として の「+」 墨書土器 が出土 しているな ど

,出

上 例 が知 られてい る。

以上 の推定 に大過 なければ

,「

十」は何 らかの施設 を識別 す る記 号を上器に墨書 した事例 と な る。一見 した ところ

,集

落遺跡 出上 の墨書土器 と共通す る様 相 を呈 しているが

,実

際 は官衝 遺構 出上 のそれ と同様 の性格 を もつ もの も含 まれてい る とい うべ きであろ う。

ただ し

,施

設名 を直接示す文字を記 さずに

,記

号 を用 いて い る点 は

,平

城官 を は じめ とす る 官衛遺構 出上 の墨書土器 の一般的 なあ り方 とは異 なる特色であ る。す なわ ち

,平

城 官 出土墨書 土器 では

,た

とえば「 宮 内」 (官 内省)「大膳」(大膳職)「 主 馬」(主 馬寮)「 式」(式 部省

)の

うに省略 され る場 合 があ る とはいえ

,官

司名を直接表示す るのが一般的 であ る。

ところが

,今

回出上 した墨書土器 は

,そ

れ と明 らかに異 なる特 色 を有 してお り

,そ

れ は ここ に所在 した施設 の性格 を考 える うえで重要 な示唆 を与 える ものであ る。す なわ ち

,「

十」墨書 土器が使用・ 保管 されて いた漆工房 は

,そ

れが官営の ものであ った として も

,律

令 官制 の中枢 部 に近 い ものでは な く

,出

先 の機関 とい う色彩が濃 い ことを推測 させ るもの といえ よ う。

r9J

ドキュメント内 1  条坊遺構 と地 割 (ページ 50-54)

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