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小規 模 宅地 の出現

ドキュメント内 1  条坊遺構 と地 割 (ページ 54-58)

ス       ギ

前頁註 5) 前 掲書。                 査報告』 1972。

8  小規 模 宅地 の出現

右京八条一坊十三・ 十四坪内の区画割の変遷は第

V章 ‑2で

述べた通 りである。奈良時代前 半 と後半 とで

,こ

こは

,鋳

造あるいは漆関係施設か ら一般的宅地へ とい う変化を見せ

,そ

れに

ともなって区画割の移 り変わ りも見 られ る。

奈良時代後半の宅地への変化にあたっては

,小

規模 な宅地が生み出されている。それは

,十

三坪 では

,坪

内南北道路

SF1320の

西側の北半部では

,東

西1/4町

,南

1/4町の1/16町規模 の

2区

画があ り

,南

半部では東西1/4町

,南

1/8町

の 1/32町 規模 の

4区

画があった と推定 され る。 また十四坪では坪内南北道路

SF1970の

西夜1では東西 1/4町

,南

北 1/4町 の 1/16町 規模 の

1区

画が確認でき

,東

側では

,南

端か ら南北

1/8町

4区

画がある。 これ ら区画の東端が坪境 までのび るな ら1/16町規模の区画になる。 しか し

, 1区

画に丼戸が

1基

掘 られたす ると

,東

西 1/4町 の 1/32町 規模の

4区

画になる可能性が高い とみ られ る。 この ように

,十

三・十四坪 では 奈良時代後半に1/16町規模 の区画が確認でき

,1/32町

規模 の存在が推測 されるのである。

従来

,平

城京内の小規模 な宅地区画については

,正

倉院に残 る月借銭解がその史料 として用 い られて きた。月借銭解 とは文字通 り月決めの借金 申請書である。正倉院の月借銭解はいずれ も

,造

東大寺司の写経所で写経にあたった下級官人である写経生達が

,写

経所 あてに提出 した ものである。その場合

,質

物にはやがて支払われ るべ き布施の調布をあてることが多かったが, 家や板屋 。口分田さらには妻子までを質物に した場合 もあった。質物の家の中には京内に存在 した例が

7件 7人

分あ り

,京

内宅地の状況を うかがわせ るもの となっている

(Tab.31参

照)。

年 月 日 経

 

師 名 「家」の所在 3. 2.25

3.11.27 3.12.28 3.12.28 3.12,29

丈部浜足 田部国守 占部忍男 霙民竃餐興足 山部針間万呂 大宅首董子

右京三条三坊 左京九条三坊 左京八条四坊

十六分之半 (1/32町)

十六分之半 (1/32町)

十六分之四― (1/64町)

十六分之四― (1/64町)

十六分之一四分之―(1/64町)

4.5

2.10

     

升三分之― (1た2町) 左京八条三坊

   

十六分一 (1/16町)

Tab.31 

月借銭解にみえる小規模宅地

この表 か らうかがえる ことは

,宅

地 の区画 につ いて は,(1)1/16町 を宅地 の広 さを表す場 合 の 基 準 としてい る例が

7例

6例

と大半を 占め る こと

しか しなが ら鬱)十六分之半 (1/32),汁 分之一

,十

六分之四―・十六分之一四分之―

(1/64)と

い うような

,1/16町

をさらに細分 した 宅地割が実際には多い こと

,傷 )そ

れに対応す るよ うに

,十

六分之半の ように1/16町を基準 とし た表記 ではな く

,汁

三分之―のように1/16町を もとに しない表記を した例が

1例

ではあるが存 在す ることなどが指摘できよう。 さらに倣)宅地 の所有者たる解提 出者は七位以下の下級位階者 であること

,脩 )7人

6人

が左京八・九条 とい う京南辺の

,そ

れ も三・ 四坊 とい う周辺部に宅 地を有 していること

,俗

)表には記載 しなか ったが

,宅

地中には板屋が

1〜 5棟

あ り,1/64・ 1/

32町に

2〜 3棟

あるのが平均であることなどを付け加 えることができよう。

r9ィ

以上に用いた月借銭解は

,宝

3〜 5年

(772〜

774)の

もので

,奈

良時代後半における宅地 の状況を うかがわせるものである。すなわ ち

,奈

良時代後半の下級官人の宅地は

,1/32町

ない しは1/64町とい う小規模 なものが多 く

,そ

の中に

2棟

前後 の板屋を設けて居住 していた とい う ことである。そ して,(1)で述べた ように

,大

半の場合1/16町を面積表示の単位 としていること は

, 1町

16等分す る宅地区画の方式があった ことを示唆す るものである。 しかるに実際には 似)で指摘 した通 り

,1/16町

を さらに細分化 した宅地が多い とい うことは

,既

に1/16町区画はそ の歴史的役割を終 えつつあった こと

,し

たが って1/16町区画は

より古い時期に設定 された も のであった とい うことを物語 るもの といえよ う。

ところで平城京の宅地班給基準については文献史料はな く

,そ

の存否す ら確認できない。 し

1)

か し持統

5年

(691)12月 には藤原京の

,天

6年 (734)9月

には難波京の宅地班給基準が出さ 2)        、

れ て い る ことか らす る と

(Tab.32),当

然平城京 に もそれがあ った と考 え られ よ う。

藤原京 (持統5年

12月

) 難波京

(天

平 6年 9月)

1町 以下 1/2町以下 1/4町以下

Tab.32 

藤原京 。難波京の宅地班給基準

藤 原京 の宅地 凱給基準 は右 大臣 (正広 参丹比嶋真人

)は 4町 ,直

広弐 (従四位下 相 当

)以

2町 ,(直

)大参(正五 位上)以 下

1町 ,勤

(六 位)以下無位 までは戸 口数に応 じて上戸 は

1町 ,中

戸は1/2町

,下

戸は1/4町と段階づけ られている。 ここでは最小の宅地割で も1/4町と大 きなも のである。 一方難波京では

,三

位以上は

1町

以下

,五

位以上は1/2町以下

六位以下は1/4町 以下 となってお り

,別

表の ように藤原京 と比べ ると同等の位階でもよ り小 さな宅地 となってい る。時期的に両者の中間に くる平城京の宅地班給基準は

,恐

らく藤原京 と同 じか

よ り小 さい ものであった と推測できよう。 これまでの平城京跡の発掘調査で判明した宅地割を見 ると

, 4

3)

町 。

2町

1町

・1/2町 。1/4町 。1/8町・ 1/16町 。1/32町 があ り

,平

城官に近 い程大 きく

,離

れ るに したがって小規模化 してい く傾 向がある。そ して

1町

以上の宅地割が五条以北に分布す る一方

,文

献史料か らは五位以上の 人物 の 本貫が五条以北に 集中することなどか ら

,直

大参 (正五位上相当

)以

下は

1町

とい う藤原京の宅地基準を参考にして

,平

城京の宅地班給基準を

考 えて よい ことが指摘 されて い る。平 城京 遷都 時 に従三位 で あ った長屋王 の邸宅が

4町

を 占め

る ものであることも

藤 原京 の宅地班給基準 に適合的 といえ よ う。

 

月借 銭解 で も小 規模宅地 が

,宮

か ら離れた所 に分布す ること

,解

提 出者 が七位 以下 とい った下級位階 の持 ち主 であ るこ とは

,上

記 の傾 向に合致す る ものであ る。す なわ ち

,五

位 以上 の貴族は平城宮 に近 い五条以北 に居住 し

,そ

の宅地 は

1町

以上 を 占め る。位階が低 くなるに従 って居住地 は宮か ら遠 くな り,

町 町 町 町 町 町 4 2 1 1

″ μ 戸一 戸一 戸一 上 中 下 上

下 以 以

>≫

> 下 位 下 上 以 三位 位

> 四 五位 二従 正 六

〃 臣弐 参 大広   勤 右 直 大

1)『 日本書紀』持統 5年

12月

乙巳条。

2)『続 日本紀』天平 6年 9月 辛未条。

3)1987年までの調査については奈良国立文化財研 究所『平城京左京四条二坊一坪』1987,p44。 そ の後の成果では

,左

京三条二坊―・二・七・八坪 で長屋王邸宅跡の 4町 占地が 確認 され (『昭和

61

年度平城概報』1987及び『 昭和62年度平城槻報』

1988),  また

,左

京二条四坊―・二・ 七・八坪 で も4町占地の可能性が指摘 されている(奈良市教 育委員会『 奈良市埋蔵文化財調査概要報告書

 

昭 和63年度』

1989)。

4)田

 

琢『平城京』1984,pp.131〜133。

9J

宅地 も小 規模化 してい くとい うのが

,平

城京 におけ る宅地 の一般 的傾 向 といえ よ う。

ところで

,藤

原京 の班給基準 に よれ ば

,最

小 の区画 は1/4町 であ るが

,平

城京 の場合

,奈

良時 代初 頭 に おいて

,既

に 1/8町 とい う小規模宅地 が存在す る ことが判 明 してお り (左京八条三坊九 坪

),さ

らには1/16町が奈良時代前半に遡 る可能性 もある (左京九条三坊十坪)。 そ して中頃に 1/16町宅地が存在 した ことは確実である (左京九条三坊十坪)。

したが って

,藤

原京の宅地互給基準を参考にで きるとはいえ

,平

城京では より細かい宅地割 が既にかな り早い段階か ら行なわれていた と言える。今回の発掘調査では

,奈

良時代前半は一 般宅地ではな く

,後

半に宅地化するとい う特殊性があるが

,宅

地化す ると同時に1/16町

,1/32

町区画 とい う小規模宅地が出現 していることは

,上

記 の知見 とも一致するもの といえよう。 と

りわけⅢ期に既に1/32町区画があることは

,時

期が下 るにしたが って宅地が小規模化 してい く 傾 向か らすれば

,そ

れ以前に1/16町宅地が京 内で成立 していた ことを前提 とす るものである。

したが って

,1/16町

を単位 とす る宅地区画は既に奈良時代前半には行 なわれていた とすべ きで あ り

,先

述 した ように

,そ

れは奈良時代後半の宝亀年 間には歴史的役割を終 えつつあったので ある。

平 安京 にお いては

,宅

地 区画 として

1坪

を東 西 は

4分 ,南

北 は

8分

して,

1/32町

区画 (=1戸 )を 作る四行八 門制が 行なわれていた ことは

,『

拾芥 抄』や『 口遊』などによって知 られて いるところである (Fig。 95)。 平城京 においても ,上 述の文献史料にみえる

1/16町

区画の存在や ,こ れまでの発掘 事例に よると ,そ れが東西

1/2町

,南

北 1/8町 の長方形を塁 していることか ら , 1坪 を東西 2分 ,南 北 8分 して

,

1/16町

区画を作る二行八門制が行なわ

1)

れ て いた とも見 られてい る。 これに よ れ ば

,平

安 時代 に な る と各行 が さ らに

Fig。

95 

四行八門図 (『拾芥抄』に よる)

坊発掘調査概報―東市周辺東北地域の調査』197Q 同『平城京左京九条三坊十坪発掘調査報告』

1986。

熙 鵞

東西に三分 されて

,四

行八門制が成立 した ことになる。

ところが今次検出された1/16町区画は十三・ 十四坪 とも

,東

西1/4町

,南

1/4町とい う正方 形を塁 している。 これは

,こ

れ までに検出されている1/16町区画 とは形態を異にす るものであ り

,い

わゆる二行八門制にのった区画割ではない。なぜなら二行八門制のもとで

1/4町

四方の 区画をつ くろ うとすれば

,東

西

1/2町

ある区画を東西に

2分

した うえで

,南

2区

画を連ね る とい う不 自然 な作業をしなければな らないか らである。 この点は どう考 えるべ きであろ うか。

これ まで発掘で検出した1/16町区画は

,今

回以前に

2箇

所ある。それは左京八条三坊九坪 と

1)松

崎宗雄「平城京宅地割の一例」『建築史』2‑

6,1940,大

井重二郎『平城京 と条坊制度の研究』

1966,奈 良国立文化財研究所『平城京左京八条三 /96

些甫目目

三 斡 │1日

│(八

十 八 甜│1日

左京九条三坊十坪 で

ともに東市 の近辺 にあた る。両坪 ともその中央部を東堀河 が南北 に貫通 し

,坪

,当

初 か ら東西 に

2分

され てい る とい う共通 の条件下 にあ る。 したが って

,い

ず れ も 平 内の区画割 には

,大

きな制約 が あ ったのであ り

この

2例

か らす ぐに二行 八 門制 の存在 をひ

き出す ことは

,や

や性急 といわ ざるを えない。

逆に ,左 京八条三坊九坪の南隣の十坪では ,東 西

1/4町

,南 北

1/2町

1/8町

規模の区画割が

1)

想定 されているが

これ も

,今

回検出の1/16町区画 と同様

,二

行八門制では

,理

解 しがたい。

これは東西を 1/4町 ずつに区切 る区画割の存在を うかがわせ るものである。

したがって

,1/16町

区画が奈良時代において施行 されていた ことは

,文

献史料か ら見て もほ ぼ確実であるが

,そ

れが

,一

律に東西1/2町

,南

1/8町の区画割を作 る二行八門制を とったの か否か

,今

回検出 した ような東西

1/4町 ,南

1/4町

とい う区画割 も併存 したのか どうかは,

今後の発掘調査事例の増加を待 って結論を出すべ きであろ う。 また1/16町区画が奈良時代前半 に施行 されていた として も

,そ

れが奈良時代初頭にまで遡 るものなのか

,ま

た前半でも一般的 に成立 していたのか ど うかな ども今後に残 る課題 といえよう。

一方

,1/32町

区画については

,そ

れが存在す るとすれば

,東

西1/4町

,南

1/8町になる。 こ れ まで月借銭解でのみ知 られていた1/32町区画が遺構で初めて確認 されたのは

,1985年

に行 な

2)

われた左京九条三坊十坪の調査 においてであ り

,今

回検出の区画が1/32町とすれば

2例

日とな る。先の例 も東西長1/4町

,南

北長1/8町であ り

,そ

れはそれ以前の東西長1/2町

,南

北1/8町の 1/16町区画を東西に

2分

した ものであった。そ してそ こでは

,先

述の ように二行八門制施行の 可能性が指摘 されている。 またその場合 も今回も1/32町区画 (ない し

,そ

の可能性

)は

奈良時 代後半に出現 したものであ り

,文

献史料の語 るところとも符合する。 したが ってそれは

,東

西 1/4町

,南

1/8町の1/32町規模 め区画を作 る平安京の四行八門制の端緒的なもの といえよう。

そ して

,そ

うであるな ら

,1/4町

四方の1/16町区画は

,四

行八門制の

2区

画分

(=2戸

主)と い う可能性 も出て くるのである。すなわち

,奈

良時代後 半において

,東

西1/4町

,南

北1/8町と い う区画割が行なわれてお り

,そ

れを南北に

2つ

連ねて

,今

回検出 した ような

1/4町

四方の区 画が作 られた可能性を指摘できよ う。 しか し仮にこの想定に大過ない として も

,そ

の区画割が

一般的に成立 していたのか

,一

部で行なわれただけのものなのかなどに結論 を与えることは現 段階ではできない。今後 の発掘調査の進展に期待が もたれるところである。

1)奈

良国立文化財研究所『平城京左京八条三坊発 掘調査概報―東市周辺東北地域の調査』

1976。

2)奈

良国立文化財研究所『平城京左京九条三坊十 坪発掘調査報告』

1986。

97

ドキュメント内 1  条坊遺構 と地 割 (ページ 54-58)

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