第 6 章 リスクの規制からみる圧縮された近代社会
6.4 リスクの規制からみる中国近代化の圧縮性
6.4.1 同時進行する産業化とリスク化
(1)経済成長を優先する政治的判断
第5章で言及したように、改革開放以降、欧米先進国の近代化に追いつくために、中国 は、産業社会の中心的な課題の1つである「富の創出」を国家の目標として掲げ、経済成 長を促進することを、その政治的な任務として遂行してきた。しかし、中国では、短期間 に創出された経済成果を平等に分配するための社会的制度の構築が遅滞している。特に、
政府主導の効率を優先させる経済成長に比べて、近代の生産生活に不可欠な「安全」とい う課題、そして産業化の帰結としての「リスク」という認識が、社会制度内に十分組み入 れられていない状況である。
共産党政権成立以来、改革開放政策が実施されるまでの中国では、「大躍進」や「文化大 革命」など、中国全域に及ぶ政治運動が継続して起こったため、第二次世界大戦後の物資 的な貧困状態が解決されずに、さらに悪化したことについては、第5章で確認した通りで ある。このような歴史的な経緯を経て、中国政府は、政治的な力により経済成長を推進さ せ、その成長により国民を極端な貧困状態から離脱させることが、社会の安定を維持し、
結果として共産党政権の安定を確保することにつながると考えた。これはすなわち、政権 の安定を維持するという政治的合理性を優先することにより、結果として、経済開発を最 も重要視する経済的合理性が採択されたことを意味するものである。
とりわけ 1980 年代には、国際的にはソビエト連邦の解体と東欧の共産党政権の交代が
125 起こり、国内的には「天安門事件」が発生した。国内外の政治情勢がこのように激変する 中で、経済成長により貧困問題を克服することにより、集権体制の安定を維持しようとす る中国政府の考え方は、より強固なものとなった。
改革開放以降、このような政治的判断に従い、中国では、GDPの成長、就労人口の拡大、
国民の収入増加、大規模な建設事業の増加などを、経済成長を評価する要素としてだけで なく、中央政府はもとより、地方の政府機関や官僚組織の業績を評価するための指針とし て、見定めるようになった。このような経済成長優先の政治体制のもと、中国政府は、生 産様式を粗放型から維持可能な様式へと転換する政策や、自然環境保護を目的とする法律 制定、そして汚染制御の規制基準の改正などを、経済成長を阻害するものと見なしている。
言い換えれば、現在の中国では、集権体制下の「官本位」という体制による官僚による特 権意識が形成・維持されており(5.4.1参照)、このような官僚組織の権力行使を抑制でき るような政治制度がまだ確立されておらず、政府そして官僚組織にとって、経済成長の維 持こそが政治業績を評価する基準であるため、環境問題への対応が現実には後回しにされ ているということである。
たとえば、6.3節で言及したように、2010年の新しい大気環境基準に、PM2.5が規制対 象として採択されなかった理由は、それが経済成長の阻害となると考えられたからである。
すなわち、ベックが指摘したように、中国政府は、潜在的なリスクである環境破壊と実体 としての利益である富の追求のどちらを取るかという選択において、目に見える物質的な 貧困の克服を優先したことになる。
4.1節で論じたように、アメリカ政府は、産業社会の光化学スモッグから、産業社会がリ スク社会へ移行するとともに顕在化した PM2.5 という新しい汚染問題まで、一連の大気 汚染リスクを克服するために、法律整備、制度構築、政策実施、そして規制強化などの系 統的かつ長期的なビジョンでの施行を継続してきた。
しかし、中国では、環境リスクに関わる法律、制度、政策、規制は、予防措置として長 期的な展望を持つものではなく、前述したように、重大な事故や事件、大規模な被害が発 生した際の緊急措置として、その都度設定されるものである。つまり、政治的な意志が経 済成長を最優先することにより、大気環境法や大気環境基準などのリスク規制に関わる法 律や政策の体系的な構築と整備は、大規模な遅滞を強いられており、その遅滞が、環境問 題対策を実効的なものにできない一因となっていると考えられる。
126
(2)経済利益追求で一致する政府と企業
中国の政府と産業界においては、リスクに対する判断基準がそれぞれ異なるが、経済発 展を優先させるという点において、両者は一致している。中国政府のリスク判断の根幹に は、科学的合理性や社会的合理性への準拠ではなく、政府自らの政治的判断に依拠し、政 権の安定を脅かすものの排除が優先されている。一方、企業および工場にとって、経済的 利益を獲得できるか否かは、経営的なリスクを判断する重要な基準である。
6.1 節で言及したように、中国の多くの工場や企業は、運営資本を節約して短期間で最 大の経済利益を獲得するために、汚染物資である粉塵や排出ガスなどを未処理のまま大気 に排出している。また、4.2.1節で言及したように、工業廃棄物としての排出ガスを軽減す るための設備を全く整えていない企業や工場は多数存在しており、「大気環境基準(2012 年試行)」においてそれが規制対象となるまでは、PM2.5 は「排出され放題」の状態であ った。実際に、中国における対汚染規制措置は長期的展望を持つ予防措置ではなく、汚染 のリスクが被害に転換された後に、その都度起動されるものにすぎない。加えて、汚染を 生み出し被害をもたらす企業や工場ないしは個人は、その汚染物質の排出を根本的に解決 するための対策を求められるわけではなく、汚染物質排出費という形の罰金を徴収される だけなので、汚染自体を削減するための改善は一向に進まないのが現状である。
つまり、政府による規制措置が暫定的にしか機能していない状況において、汚染の根本 的解決のために企業が支出する、生産様式や技術革新および汚染排出制御のための設備投 資の費用と比べて、汚染基準に違反して政府により徴収される罰金は、はるかに少ない金 額なのである。よって、利益を獲得できるか否かをリスクの判断基準とする企業や工場は、
罰金が課されるかもしれないというリスクを敢えて取り、短期間に最大の経済利益を獲得 することを選択しているのである。
さらに、経済効率を優先する企業のこのような選択は、同じく経済効率を優先する政府 の容認を得たものとも考えられる。5.1.2節で述べたように、1990年代から企業の民営化 が進められ、民営企業、外資企業などの企業形態が徐々に中国国内にも出現したが、国有 企業と集団所有制企業は依然として中国企業の主流である。経済成長という共同の利益の 前に、政府は、国家が所有権を持つ企業により生み出された汚染に対して、厳しい規制策 を打ち出すことができない状態である。
たとえば、2015年2月、CCTVの元記者である柴静は、PM2.5問題の実態について、
127 独自調査によるドキュメンタリーを制作した71。この番組は、産業化が進む地域の都市化 とともに中国で激増している自動車の排気ガスも、大気汚染の主要な原因の1つであると して、国内で使われているガソリンを取り上げた。中国で自動車燃料としてのガソリンを 精製し販売できるのは、わずか2 社の国有企業しかないが72、これらの企業は、利益を最 大限に獲得するために、脱硫処理を始めとする原油の精製技術を改良せずに、ガソリンの 生産を続けていた。しかし政府は、リスク規制を実施する権力を持っているにも関わらず、
経済成長という、企業とも一致した利益追求のために、自らが所有する国有企業が生み出 した汚染問題に対して、より寛容な態度で放任したのである73。
以上の論説に示されたように、現在の中国では、大気汚染を規制するための法律や規制 措置が不完全であることに加えて、企業の生産様式の転換を誘導するための政府の政策も また、不十分である。このような状況においては、経済利益しか頭にない企業が、資金を 投入し、粗放型の生産様式を自然環境に優しく持続可能な生産様式に転換し、汚染の制御 に着手することは、ほぼ不可能であると考えられる。
(3)急激な経済成長と集約的なリスクの生産の同時性
政府と企業が一致して、経済利益を優先して追求した結果、GDPなどによって評価され る近代化の目標は確かに実現された。しかし、その代価として、国民にとっての健康的で 安全な生活環境は犠牲を強いられることとなった。改革開放以降、中国は、欧米社会が約 200 年かけて経験した産業化過程を、40年間という短い時間で邁進してきた。その結果、
この 40 年間という時間における中国社会には、欧米社会がその近代化で経験した様々な リスクが、集約的に、また、より複雑な形態をもって現れているのである。
現在、中国は世界第二の経済大国となっているが、政治的な力により意図的に経済成長 が推進されてきたために、本来、近代化と共生するはずの安全とリスクの問題が置き去り にされ、リスクの規制を可能とする体制が確立されていない。
71 この番組の原作は中国国内で放送禁止となっているが、YouTube HPに転載されたものは 閲覧可能である。https://youtu.be/BgEpruEOrFg、YouTube HP、2018年12月閲覧。
72 その2社とは、中国石油天然ガス集団会社(CNPC)と中国石油化工集団会社
(SINOPEC)を指す。
73 中国の地方の貧困地域においては、経済利益を共通の目的として、政府と企業が馴れ合う現 象が発生する傾向が高い。地方政府が政治業績を上げるために、管轄内の企業や工場の汚染物 質排出を放任することは、「地方保護主義(地方政府が当地の経済的利益を保護することを意味 する)」とも呼ばれており、これは中国において環境汚染を改善する障壁となっている。