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第 2 章 土師器供膳具の分布からみた斎宮

第 2 節 各時期の土師器の分布

本節では、前章で提示した私案編年とその基準資料をもとに、過去の発掘調査成果を再検 討し、各時期の土師器出土遺構の分布をみていく(分布図は文末にまとめて掲載)。検討し た資料は、土師器坏 A・皿A・椀Aが共伴する土器群である。出土地点に関しては、地区 表示までは正確に再現したが、その地区表示の中のさらに細かな出土地点まで押さえるこ とはできなかった。以下、順に各時期の分布状況を確認していこう。

私案Ⅰ-1期(673~697年)

史跡西部で、検討資料を伴った遺構が検出されている。分布は北と南に分かれている。当 該期の土器の特徴として暗文を施される点が挙げられるため、都城との関連をうかがわせ る暗文土師器が史跡西部の北と南にそれぞれ分布すると解釈できる。北は塚山古墳群など 多数の古墳が築造されており、従来からの生活拠点であったと考えられる。南は目立った古 墳群などは見られないものの、後に掘立柱塀で囲まれた区画が出現する。

検討資料が出土している遺構としては、36次調査SK2120、71次調査SH4728・4743、 141次調査SD8920がある。71次調査に関しては、遺構の重複関係からSB4740・4741→ SK4744→SH4743となることが分かっており、SH4743がⅠ‐1期のものだとすると、間 に土坑を挟むが、掘立柱建物から竪穴建物へ移行したと考えられる。当該期は大来皇女が斎 王であった時期にあたり、掘立柱建物から竪穴建物への移行が大来皇女の斎宮造営と関連 するとみられる点は興味深い。

私案Ⅰ‐2期(697~707年)

前代とは異なり、史跡西部でも南にのみ分布が確認できる。当該期の斎宮がこの周辺に存 在した可能性がうかがえる。おそらく、前代の斎宮もこの地に造営されたのだろう。

検討資料が出土している遺構としては、36次調査SK2120、137次調査SH8606、141次

調査 SH8925 がある。137 次調査で検出された建物遺構はすべて奈良時代のものと考えら

れている。しかし、SH8606 を当該期まで遡らせると、同時期と考えられる建物遺構は

SH8585のみですべて竪穴建物ということになる。また、141次調査では、SH8925と同時

期の建物遺構としてSH8903を挙げる。このSH8903と重複するのがSB8935で、こちら の方が新しく、先後関係としてはSH8925・SH8903→SB8935となる。ここでも竪穴建物 が主要な建物遺構であったと推測できる。

私案Ⅰ-3期(707~715年)

主に史跡西部の南で分布が確認できる。前代と同様、北では見られない。前代までのよう に一つの地区に集中するのではなく、やや分散傾向にある。また、後に方格地割が造営され

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る史跡東部でも確認でき、北西隅の区画にあたる。検討資料が出土した遺構も掘立柱建物で あり、当該期には徐々に史跡東部にまで斎宮の範囲が拡大した可能性がある。

私案Ⅰ‐4期(715~724年)・私案Ⅰ‐5期(724~749年)

私案Ⅰ‐4期の分布は前代と同様であるが、私案Ⅰ‐5期になると検討資料を伴う遺構が 増加し、広範囲に分布するようになる。まず史跡西部においては、南だけでなく北にも再び 分布がみられるようになる。さらに史跡東部でも広範囲に分布しており、特に後の方格地割 の西から東まで広く分布する。検討資料を出土した掘立柱建物も、後の西加座南区画にまで 広がっている点は興味深い。私案Ⅰ‐4期までは史跡西部の北と南、もしくは史跡西部の南 と史跡東部の北西といったように分布が二分していたが、私案Ⅰ‐5期には広範囲な分布を 示す。

私案Ⅰ‐6期(749~770年)

前代の分布とほぼ同様である。しかし史跡西部で確認できる出土例は少なく、史跡東部に 分布が集中することを考慮すると、当該期には斎宮の中枢部が史跡東部に移行しつつあっ たと考える。

私案Ⅰ‐7期(770~784年)

気多王の斎宮派遣記事が『続日本紀』にみえる時期である。分布が再び西部に広がり、ま た史跡東部の北にも広がるようになる。この分布から、中心は史跡東部と考えられ、後の下 園東区画から牛葉東区画の南北3列×牛葉東区画から鍛冶山東区画の東西4列の、計12区 画分の範囲が中心と想定している。まだ方格地割の造営はなされていないが、鍛冶山西・中 区画の 2 区画分を占める二重掘立柱塀で囲まれた建物群は当該期に成立したとする指摘も ある(榎村2012・山中2001)。

私案Ⅱ‐1‐1期(784~796年)

785年に紀作良が造斎宮長官に任命される記事が『続日本紀』にみえる時期である。古道 路面に土坑が掘られ、そこから長岡京期以降の土師器が確認されていることから、当該期に は古道が廃絶していたと考えられる。方格地割の設計に長岡京の条坊設計との共通点があ ることを重視し、当該期に東西7列×南北4列の方格地割が造営されたとする説もある(山 中2001)。

当該期の土器分布は、方格地割外よりも地割内に集中するようになる。

私案Ⅱ‐1‐2期(796~810年)

当該期の土器分布は、前代よりもさらに方格地割内に偏る。当該期の斎王は布勢・大原の 2 人で、布勢内親王に関しては、卜定から群行までの行程を、『延喜斎宮式』に最も則った

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形で行ったことが指摘されている(長原2013)。また、次の大原内親王にも同様の傾向が認 められ、少なくとも群行までに関しては『延喜斎宮式』に最も則した斎王の時代といえる。

この頃に方格地割が形成されたとする見解もある(榎村2012)。

私案Ⅱ‐2‐1期(810~824年)・私案Ⅱ‐2‐2期(824~839年)

前者は、斎宮の離宮院移転直前期にあたる。私案Ⅱ‐1‐1 期以降の土器分布とほぼ変化 はなく、方格地割内に分布が集中する。この第Ⅱ期以降、斎宮内での土器分布は同様の傾向 を見せ、相違点は土師器出土遺構の数ぐらいしかない。

後者は、斎宮の離宮院移転の時期である。前述したように、当該期の斎宮における土器型 式は不明瞭であり、注意を要する。斎宮の機能は渡会の離宮院に遷されているはずだが、土 器の分布自体は確認できる。よって、分布からみれば、一部の機能は多紀郡に残存していた 可能性がある。

私案Ⅱ‐2‐3期(839~850年)

渡会の離宮院から、斎宮の機能が多紀郡に戻された時期である。当該期からは、前代まで とは比較にならないほど多くの土師器出土遺構が確認される。特に、柳原・西加座北・西加 座南・東加座北➀区画からの出土が多い。

私案Ⅲ‐1~3期(850~930年)

私案Ⅱ‐2‐3期の分布をほぼ踏襲している。時期によって、区画内でも分布がさらに集 中する区画がみられ、それが変化していく。例えば私案Ⅲ‐1期新相期では、西加座南・柳 原区画に集中する。私案Ⅲ‐2期では、内院である鍛冶山西区画にも土器が集中する。私案

Ⅲ‐3期には、柳原・内院である鍛冶山西区画と牛葉東区画に集中しており、内院に土器が 集中するのは、当該期が初めてである。

私案Ⅳ-1期~Ⅴ‐3期(930~1086年)

私案Ⅳ‐1期~Ⅴ‐1期(930~1036年)までは、検討できる土師器の出土例が乏しい。

私案Ⅳ‐1 期には西加座南区画に集中しているが、それ以降は分布がまばらである。唯一、

柳原区画からは一貫して出土している。私案Ⅴ‐2期(1036~1068年)には量的に増加す るものの、次の私案Ⅴ‐3期(1068~1086年)には再び減少する。しかし、やはり柳原区 画からは一貫して出土している。

私案Ⅵ‐1期~Ⅶ~3期(1086~1272年)

柳原・牛葉東・宮ノ前南区画に分布が集中する。宮ノ前南区画に集中するようになるのは 当該期からである。また、Ⅶ期以降は方格地割外からの出土が増加し、主に史跡西部の北側 に多くの分布が確認できる。

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図17 出土土器時期別分布図 45

【註】

6) 鍛冶山西区画ではSB7155・7160、西加座北区画ではSB3220・8285が検出されて いる。

7) 以下の記事から、多気の斎宮は824年に渡会の離宮院にその機能を移したが、火災 によって官舎が焼失し、839年に再び多気の地に斎宮を戻したことが分かる。

○詔曰。天皇詔旨坐。掛畏太神大前申給//申。多氣齋宮。太神 宮離遠。毎使。因茲度會離宮卜定。常齋宮須倍伎□

(「爿」に「犬」)申出事恐//申給//申。(『類聚国史』天長元

(824)年9月10日条)(『日本紀略』にも引用)

○灾于伊勢齋宮。燒官舍一百餘宇。遣左衛門權佐從五位下田口朝臣房富。賷絹百 疋。綿三百屯。調布五十端。存問齋内親王。(『続日本後紀』承和6(839)年11月5 日条)(『類聚国史』・『日本紀略』にも引用)

○遣參議從四位上行春宮大夫兼右衛門督文室朝臣秋津。奉珍幣於伊勢大神。以齋宮 燒損也。又去天長元年九月依多氣齋宮遠離太神宮。毎事無便。卜定度會離宮。以爲 齋宮焉。今依火灾。卜定多氣宮地可爲常齋宮之□(「爿」に「犬」)。同令此使□

(「米」に「斤」)申於大神宮。(『続日本後紀』承和6(839)年12月2日条)(『類 聚国史』・『日本紀略』にも引用)

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