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方格地割内の規格性をもつ建物遺構

第 3 章 伊勢斎宮形成過程の考察

第 4 節 方格地割内の規格性をもつ建物遺構

得られなかった。古道の南側溝を切るSD7361出土土器は少数であり、時期差もあるので、

この遺構によって時期を決定することは困難かもしれないが、私案Ⅱ‐1‐1 期頃もしくは それ以前と思われる坏A が出土していることから、長岡京期にはすでに古道を切る溝が造 営されていた可能性が指摘できる。

上記の検討の結果、『内院報告書』が提示する、古道が斎宮Ⅰ‐2期(710~730年)に廃 絶しはじめたという説は、私案編年の年代観で遺構の時期を再検討したところ、従い難いと いう結論にいたった。

88次調査では、路面上の土坑SK6228から、私案Ⅰ‐5期(724~749年)と思われる土 器が出土している。よって、鍛冶山中区画周辺の古道は、私案Ⅰ‐5期から衰退しはじめた 可能性がある。他の調査地の成果を考慮すると、私案Ⅱ‐1‐1期(784~796年)頃には鍛 冶山中区画周辺のみならず、方格地割内を通る古道は完全に廃絶していたと考えられる。鍛 冶山中区画周辺だけに限定すれば、私案Ⅰ‐5期(724~749年)には衰退が始まり、私案

Ⅰ‐7期(770~784年)には廃絶していた可能性もある【註10】。

つまり、古道の廃絶から内院区画及び方格地割の形成時期を考えるならば、私案Ⅰ‐5~ 6期にかけて、史跡東部の後の内院区画を斎宮として利用しようと計画したことで、鍛冶山 中区画周辺の奈良古道が衰退した。その後、私案Ⅰ‐7期に奈良古道を一部廃絶させ、付け 替えた上で、二重掘立柱塀を持つ内院区画が造営され、さらに私案Ⅱ‐1‐1 期には史跡東 部全体の奈良古道を付け替えたうえで、方格地割の造営がなされたと推定できる。

私案編年の時期と前節で確認した斎王制度の変遷から考えると、史跡東部の利用計画を 打ち出したのは井上内親王の頃であり、二重掘立柱塀の内院区画が造営されたのは酒人内 親王、そして朝原内親王の時期には方格地割の造営計画が打ち出され、方格地割の完成後、

最初に斎王となったのは布勢内親王であろう。しかし、内院区画に関しては 2 区画分の範 囲を維持しており、次の大原内親王の頃までには鍛冶山西区画と中区画の区画間道路を造 営し、すべての区画を統一した完全な方格地割を造営したと考える。

以上、本節では古道の廃絶時期の考察を行ったが、私案編年を提示したことで、これまで の調査成果で示された建物遺構の時期も再検討する余地が生まれたと言えよう。

とで、前述した古道の廃絶と、他の区画で規格性をもつ建物遺構の成立が対応するかどうか を確認でき、それによって方格地割の造営過程が明らかになると考えるからである。検討す る区画は西加座北・下園東・西加座南区画とする。

【西加座北区画】

規則性のある建物遺構は、斎宮Ⅱ‐1期頃(785~820年)に成立した「寮庫」とされ、

この「寮庫」機能は当区画廃絶後、後述する下園東区画に引き継がれたと推定されている。

主に51・63・73・90・130次調査の成果に基づき、成立時期を再検討してみよう。

第51次調査では、SB3120・SB3206が検出されている。報告書では奈良時代末葉~平安 時代初頭と位置づけており、概ね斎宮Ⅰ‐4~Ⅱ‐1期と考えられる。同時期の遺構として、

SE3200・SK3130・SK3137出土遺物の実測図が掲載されている。土器の詳細な説明が省略 されているが、私案Ⅱ‐2‐3期以前の土器群と判断した。特にSK3137では他より古い様 相が認められ、私案Ⅰ‐7~Ⅱ‐2‐3期の範疇に収まるものと考える。よって、この調査か らは私案Ⅱ‐2‐3 期以前に建物遺構が成立したと考えることができ、私案Ⅰ‐7 期まで遡 る可能性もある。

第63次調査では、SB4187が検出されている。平安時代初期に位置づけられており、斎 宮Ⅱ‐1 期にあたると思われる。同時期の遺構として SK4200 出土遺物の実測図が掲載さ れており、私案Ⅲ‐1期古相頃と判断した。

第73次調査では、SB4032・SB4077が検出されている。奈良時代末期から平安時代初期 と位置づけられており、概ね斎宮Ⅰ‐4~Ⅱ‐1 期と考えられる。同時期の遺構出土遺物の 実測図は掲載されていないが、次の段階である平安時代前Ⅰ期、つまり斎宮Ⅱ‐2期にあた る遺構としてSK4068・SK4994出

土遺物が掲載されている。それぞ れ、私案Ⅱ‐2‐3期・私案Ⅲ‐1期 古相と判断した。当調査でいう奈 良時代末期から平安時代初期は私 案Ⅱ‐2‐3期以前にあたると推測 できる。

第 90 次調査では、SB6420・ SB6460が検出されている。平安時 代初期に位置づけられており、同 時 期 の 遺 構 と し て 、SK6419・

SE6440 出土遺物が掲載されてい

る。しかし、SK6419は遺構説明の 部分では奈良時代後期とされてお り、報告書内で齟齬をきたしてい

図19 西加座北区画の「寮庫」推定遺構配置図 (平成12年度報告書掲載図をトレース)

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る。実測図によるとb手法を主体とし、c手法の土器が少量あることから、私案Ⅰ‐7期と 判断した。またSE6440は私案Ⅰ‐7期~Ⅱ‐2‐2期と判断されるので、建物遺構は私案

Ⅰ‐7期~Ⅱ‐2‐2期に成立したと考える。

第130次調査では、SB8230・SB8260・SB8280・SB8300が検出されている。斎宮Ⅱ‐

1 期と位置づけられているが、同時期の遺構出土遺物の実測図は掲載されていない。一方、

前段階の斎宮Ⅰ‐4期の遺構としてSK8294・SD8299があり、出土遺物から、それぞれ私 案Ⅰ‐5~Ⅱ‐1‐1期、私案Ⅰ‐7期と判断できる。特に前者は外面のヘラミガキや内面の 暗文を施すものが多く、調整手法もb・c手法が卓越する。一括資料とは言え、時期差を感 じさせる土器群である。また、一段階時期が下る斎宮Ⅱ‐2 期の遺構として SK8255・ SK8315があり、出土遺物から、それぞれ私案Ⅱ‐2‐3期、私案Ⅲ‐1期と判断される。よ って、当調査でいう斎宮Ⅱ‐1期は、私案Ⅰ‐7期~Ⅱ‐2‐3期の範疇に収まると考える。

以上、主な調査成果を見ると、「寮庫」建物遺構の成立時期は私案Ⅱ‐2‐3期(839~850 年)以前と考えられるが、いつまで遡るのかについては断定できない。しかし、一部の遺物 に私案Ⅰ‐7期(770~784年)と判断できるものがみられることから、成立時期は私案Ⅰ

‐7期~Ⅱ‐2‐3期の範疇に収まる可能性が高い。

【下園東区画】

西加座北区画の性格を引き継いで、斎宮Ⅱ‐2期新相頃(820~850年頃)に「寮庫」と して機能したと考えられる区画である。本節では、第18・23・168・173次調査で確認され た、「寮庫」を構成する建物群の一部を再検討していこう。

第 18次調査ではSB930が検出されている。報告書は、平安時代前半の遺構と判断して いる。2000編年のⅡ‐2~3期頃(820

~900年)にあたる時期である。当該 期と判断した根拠は記載されておら ず、おそらく実測図として掲載されて いない遺物細片などから判断したも のと考えられる。この調査報告には遺 物実測図が一切掲載されていないた め、他の遺構との重複関係などから再 検討することも不可能であった。2000 編年の土器年代観を私案編年と照ら し合わせると、私案Ⅱ‐2‐3 期~Ⅲ

‐2期(839~900年)にあたる。

第23次調査では、SB1150・1186が 検出されている。報告書によると、遺 構の時期は、遺構同士の重複関係と

図20 下園東区画の「寮庫」推定遺構配置図 (2014年度現説資料掲載図をトレース)

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遺構内出土遺物から判断したとされ、SB1150を平安時代中葉、SB1186は時期不明とする。

2 棟の建物遺構からの出土遺物及び 2 棟と重複関係をもつ遺構からの出土遺物実測図がな いため、再検討は困難である。ただし、同時期の遺構としてSK1179があり、出土遺物の実 測図から私案Ⅱ‐2‐3~Ⅲ‐1期新相(839~880年以前)と判断した【註11】。よって、2 棟の建物遺構も概ねこの時期にあたると考える。

第168次調査では、SB10241が検出されている。報告書では斎宮Ⅰ‐4~Ⅱ‐1期(770

~820年)の遺構とし、SK10247より先行するという。SK10247出土遺物は私案Ⅲ‐1期

(850~880年)と考えられるので、SB10241はそれ以前に存在した可能性が高い。また、

同時期の遺構として SK10250・10251・10248 が挙げられているが、出土遺物を検討した 結果、それぞれ私案Ⅰ‐5~6期(724~770年)・Ⅰ‐6期(749~770年)・Ⅱ‐2‐3期以 前(839~850年以前)と判断した。出土遺物にかなりの時期差が生じている点に問題が残 る。おそらくSK10250とSK10251はほぼ同時期と推察され、これまで確認した調査成果 も考慮すると、建物遺構と同時期の遺構はSK10248ではないかと考える。

第 173 次調査では、SB10311が検出され、報告書は斎宮Ⅱ‐2期(820~850 年)とす る。実測図が掲載されず、この遺構と重複関係にある遺構の出土遺物実測図もないので、検 討はできなかった。ただし、同時期の遺構としてSK10318が挙げられており、出土遺物実 測図から私案Ⅱ‐2‐3期と判断した。

以上、四つの調査から下園東区画の「寮庫」を構成する建物遺構の時期の再検討を試みた が、建物遺構に重複して先行する遺構の出土遺物の実測図や、建物遺構から直接出土した遺 物実測図がなく、検討作業は困難であった。しかし、同時期の遺構として挙げられた遺構の 出土遺物には、私案Ⅱ‐2‐3 期頃(839~850 年)と考えられるものが多いことが分かっ た。この結果から、「寮庫」の建物遺構群も同様の時期と考えるのであれば、下園東区画が

「寮庫」として機能する契機は、既に指摘されているように、839年に離宮院から斎宮の機 能が多紀郡に戻ったことであろう。

【西加座南区画】

区画中央を南北道路が通り、その西半分に展開する規格性の高い建物遺構群は、「神殿」

と考えられている。本節では、主に83次・84‐1次・86次調査を再検討していこう。

83次調査では、SB5780・SD5792・SD5793・SD5794・SA5806・SB5820・SD5822・ SD5823・SA5840・SD5832・SD5892が検出されている。いずれも、報告書では平安時代 初期の遺構と位置づけられており、2000編年でいう斎宮Ⅱ‐1期(785~820年)にあたる。

これらの遺構から出土した遺物の実測図は掲載されておらず、直接的に時期を検討するこ とは不可能であった。そこで周囲の遺構を確認すると、SB5780の四周を巡ると思われる溝 の東南隅は平安時代前Ⅱ期、2000編年でいう斎宮Ⅱ‐3期(850~900年)のSK5790によ って削平を受けるという。しかし、この土坑の遺物実測図も掲載されておらず、時期を検討 することができなかった。唯一実測図が掲載されていたSE5850出土遺物はSK5790と同

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