• 検索結果がありません。

第 3 章 伊勢斎宮形成過程の考察

第 3 節 古道の廃絶をめぐる考察

50

『内院報告書』によると、古道は奈良時代から段階的に廃絶していったとされる。その廃 絶時期は、古道の側溝を切る土坑などから出土する土器から推定すると、斎宮Ⅰ‐2期(710

~730年)にまで遡る箇所が存在するという。しかし、この結果は土器の時期推定を2000 編年に従って解釈した結果であり、本論で示した私案編年で考えた場合、異なる解釈が成立 する余地がある。本節では、古道の側溝を切る遺構や、路面上で検出された遺構から出土す る土器群の時期を再検討することで、古道の廃絶時期を考察していくこととする。古道の廃 絶と方格地割の造営は密接に関係すると考えられるからである。

『内院報告書』によると、斎宮Ⅰ‐2期(710~730年)に側溝の埋没が認められる調査 成果として、50次・78次・88次・106‐5次調査が挙げられる。これらが何を根拠にして いるのかについては記載されていないので、各調査成果を独自に分析してみよう。

【50次調査(1983年)】

SD170 が検出されており、古道の北側溝にあたる。この溝からは土器が出土し、実測図

も掲載されている。報告書によると、それらは 8 世紀前後の奈良時代前半の土器群とされ る。報告書では、1984編年で奈良時代前期の土器群の基準資料として挙げられており、2000 編年に照らし合わせると斎宮Ⅰ‐2期となる。

しかし、筆者は、坏・皿の形状から私案Ⅱ‐1‐1期(784~796年)頃と考える。報告書 でも述べられているように、調整はすべて底部外面オサエ・ナデの e 手法で調整されてい る。とすれば、時期がもう少し下る可能性があり、いずれにしても、報告書が想定するよう な8世紀前半にe手法の調整が主体になるとは考え難い。

以上、50 次調査の成果からは斎宮Ⅰ‐2 期に廃絶したとする根拠になるような成果は得 られておらず、むしろ私案Ⅱ‐1‐1期にあたる長岡京期以降の土器群が古道の側溝に廃棄 されていたと結論づけられる。

図18 古道の調査地点(杉谷1997掲載図に一部加筆)

51

【78次調査(1988年)】

SD5266が検出されており、これは前述したSD170と同一の溝と考えられる。遺物実測

図は、土師器坏Aと皿Aが1点ずつ掲載されていた。報告書では、出土した坏に関して奈 良時代中期~後期と推定している。

筆者は第2章で、坏Aがe手法で調整されていることと、皿Aにb手法という古い調整 方法が使われていることから、これらを私案Ⅱ‐2‐3期(839~850年)以前と推定した。

形状などを勘案すると私案Ⅱ‐1‐1期頃かと考える。

以上のことから、78次調査では斎宮Ⅰ‐2期に廃絶したとする根拠となるような成果は 得られていないと結論づけたい。

【88次調査(1990年)】

SD2404とSD6252が検出されている。前者はSD170の延長上の溝であり、後者は古道 の南側溝と考えられている溝である。報告書では時期を奈良時代前期と推定するが、遺物実 測図は掲載されていない。よって、これらの遺構の時期を推定するためには、重複関係があ る遺構から出土した土器群を確認する必要がある。

側溝を切り、かつ遺物実測図が掲載されている遺構としては SK6246 が挙げられる。ま た、両側溝に挟まれた路面内に位置し、かつ遺物実測図が掲載されている遺構としては SK6210・6220・6225・6226・6227・6228がある。出土土器群を検討した結果、SK6246 は私案Ⅱ‐2‐3 期、SK6210 は私案Ⅱ‐1‐2~Ⅱ‐2‐1 期、SK6220 は私案Ⅰ‐7 期、

SK6225は私案Ⅰ‐7期、SK6226は私案Ⅱ‐1‐1期、SK6227は私案Ⅰ‐7期、SK6228 は私案Ⅰ‐5期と推定した。

道路側溝を切る SK6246 は若干時期が遡る可能性もあるが、この遺構の出土土器の検討 結果から、遅くとも 9 世紀前半には古道が廃絶していたことは間違いなかろう。路面上に 掘られた土坑は複数あり、私案Ⅰ‐5 期からⅡ‐2‐1 期までと時期幅が広い。中でも私案

Ⅰ‐7期(770~784年)の土器群が多い傾向にある。最古が私案Ⅰ‐5期(724~749年)

であるので、当該期にこの調査区の鍛冶山中区画の古道が廃絶しはじめた可能性がある。

以上、88次調査の成果からは斎宮Ⅰ‐2期に廃絶した根拠となるような成果は得られず、

早くとも8世紀中頃の廃絶であると結論づけられる。

【106‐5次(1994年緊急調査)】

SD6801・6802が検出されており、前者が古道の北側溝、後者が南側溝にあたる。報告書

によると、両側溝から土師器細片が出土しているが、時期決定は困難とされる。そこで、側 溝以外の遺構に目を向けると、SD6802を切る溝SD7361があり、そこから出土した土器が 実測図として掲載されている。土師器坏Aが2点あるが、これらは時期差が見て取れる。

概ね私案Ⅴ‐3期(1068~1086)とⅡ‐1‐1期頃と考えた。

以上、106‐5次調査の成果でも斎宮Ⅰ‐2期に廃絶したとする根拠となるような成果は 52

得られなかった。古道の南側溝を切るSD7361出土土器は少数であり、時期差もあるので、

この遺構によって時期を決定することは困難かもしれないが、私案Ⅱ‐1‐1 期頃もしくは それ以前と思われる坏A が出土していることから、長岡京期にはすでに古道を切る溝が造 営されていた可能性が指摘できる。

上記の検討の結果、『内院報告書』が提示する、古道が斎宮Ⅰ‐2期(710~730年)に廃 絶しはじめたという説は、私案編年の年代観で遺構の時期を再検討したところ、従い難いと いう結論にいたった。

88次調査では、路面上の土坑SK6228から、私案Ⅰ‐5期(724~749年)と思われる土 器が出土している。よって、鍛冶山中区画周辺の古道は、私案Ⅰ‐5期から衰退しはじめた 可能性がある。他の調査地の成果を考慮すると、私案Ⅱ‐1‐1期(784~796年)頃には鍛 冶山中区画周辺のみならず、方格地割内を通る古道は完全に廃絶していたと考えられる。鍛 冶山中区画周辺だけに限定すれば、私案Ⅰ‐5期(724~749年)には衰退が始まり、私案

Ⅰ‐7期(770~784年)には廃絶していた可能性もある【註10】。

つまり、古道の廃絶から内院区画及び方格地割の形成時期を考えるならば、私案Ⅰ‐5~ 6期にかけて、史跡東部の後の内院区画を斎宮として利用しようと計画したことで、鍛冶山 中区画周辺の奈良古道が衰退した。その後、私案Ⅰ‐7期に奈良古道を一部廃絶させ、付け 替えた上で、二重掘立柱塀を持つ内院区画が造営され、さらに私案Ⅱ‐1‐1 期には史跡東 部全体の奈良古道を付け替えたうえで、方格地割の造営がなされたと推定できる。

私案編年の時期と前節で確認した斎王制度の変遷から考えると、史跡東部の利用計画を 打ち出したのは井上内親王の頃であり、二重掘立柱塀の内院区画が造営されたのは酒人内 親王、そして朝原内親王の時期には方格地割の造営計画が打ち出され、方格地割の完成後、

最初に斎王となったのは布勢内親王であろう。しかし、内院区画に関しては 2 区画分の範 囲を維持しており、次の大原内親王の頃までには鍛冶山西区画と中区画の区画間道路を造 営し、すべての区画を統一した完全な方格地割を造営したと考える。

以上、本節では古道の廃絶時期の考察を行ったが、私案編年を提示したことで、これまで の調査成果で示された建物遺構の時期も再検討する余地が生まれたと言えよう。

関連したドキュメント