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史跡東部における斎宮の成立過程

第 3 章 伊勢斎宮形成過程の考察

第 5 節 史跡東部における斎宮の成立過程

本節では、これまでに述べてきたことを確認したうえで、前稿 1 で提示した内院区画の 図21 西加座南区画の「神殿」推定遺構配置図 (平成2年度報告書掲載図面をトレース)

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遺構変遷を改めて再検討し、史跡東部の斎宮成立過程を考察していこう。

まず筆者は前稿 1の中で、第 2 章の図12に示したような内院区画の遺構変遷を想定し た。詳細はそれに譲るが、私案Ⅰ‐7期(770~784年)、つまり酒人・浄庭斎王時代には、

まだ史跡東部は斎宮として利用されておらず、古道が利用されていたと推定した。後の内院 区画となる地にも規格性をもった建物は存在しないと考えた。しかし、第 2 章の土器の分 布で検討したように、私案Ⅰ‐5期(724~749年)から史跡東部の広範囲で土器が出土す る様子がわかる。当該期の斎王は井上内親王であり、第 3章第2節で確認したように、井 上の段階で斎王制度は最初の確立期を迎え、後の『延喜斎宮式』にみえる斎王制度の基本と なるような制度が成立したとみられる。よって、この頃、斎宮の施設自体にも変革があった と推定する。その変革とは、史跡東部への斎宮の拡大もしくは移設であり、それが土器の分 布にも現れているのであろう。

また、第 3章第3節でみたように、古道の廃絶は後の内院区画から始まったと考えられ る。私案Ⅰ‐5 期から廃絶が始まり、私案Ⅰ‐7 期には完全に廃絶していた可能性がある。

よって、前稿 1 で示した内院区画の様相は再検討を要するのである。この古道の廃絶と同 時に二重掘立柱塀を持つ建物遺構が成立し、内院区画が成立したとみる方が妥当である。私 案Ⅰ‐7期には、榎村氏が指摘するように、酒人内親王のための内院が造営され、図12に 示した酒人斎王時代の施設配置が成立していたのではないか。

次に筆者は、私案Ⅱ‐1‐1期(784~796年)、つまり朝原斎王の段階で二重掘立柱塀を もち、外郭の掘立柱塀で囲われた 2 区画分の遺構配置が成立し、それと同時に周辺の区画 も造営されたことで第1次方格地割が成立したと考えた。確かに第 3章第2節でみたよう に、内院区画以外の区画を通る古道の廃絶も当該期頃と想定されるため、方格地割の造営が 当該期に行われた可能性もある。しかし、第3章第4節でみた西加座南区画の「神殿」遺構 の成立は、次の段階である私案Ⅱ‐1‐2期(796~810年)頃と考えられる。つまり、古道 が廃絶する時期と内院以外の区画に規格性をもった建物遺構が成立する時期の間に、一段 階の差があるのである。この点はどう解釈すればよいだろうか。

これについて筆者は、私案Ⅱ‐1‐1期頃は、方格地割造営の計画が打ち出された準備段 階と考えたい。朝原斎王段階では前代で見えた二重掘立柱塀の施設配置がさらに東へ拡大 されて外郭が成立し、方格地割の造営にも着手したが、各区画内に規格性をもつ建物を造営 するまでの段階まで進んでいなかったのではなかろうか。そしてその後、私案Ⅱ‐1‐2 期 の布勢斎王の頃に、方格地割の内院以外の区画に規格的な建物が造営されるようになった ものと考える。

鍛冶山西区画と鍛冶山中区画の区画間道路の形成に関しては、第92次調査によると、区 画間道路の西側溝とみられるSD6517が検出されている。また、北側区画溝のSD2400も 検出されており、SD6517に先行するとされる。平安時代前Ⅰ期と位置づけられており、出 土遺物の実測図は掲載されていないものの、同時期の遺構として挙げられた SK6510 の出 土遺物実測図から、私案Ⅱ‐2‐3期(839~850年)頃と判断した。朝原斎王の頃に内院区

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画の外郭が東へ拡大されたとみる場合、彼女以降の斎王で斎宮の施設に影響を与えた可能 性をもつのは布勢斎王ではないかと考える。つまり、布勢斎王の頃、方格地割内に規格性を 持つ建物遺構を造営し、内院区画の区画範囲を他区画と同一規模とすることで、完全な方格 地割が完成したと推定したい。桓武天皇が理想とした斎宮の造営は、朝原・布勢内親王の2 代の斎王にわたって行われたのではないだろうか。

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図22 内院区画及び方格地割形成の変遷私案

(破線部分は存在しないことを示す。)

酒人斎王時代

朝原斎王時代

布勢斎王時代

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図23 私案Ⅰ‐7 期以前方格地割・内院区画変遷私案図 (破線は存在しないことを表す)

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図24 私案Ⅰ‐7 期方格地割・内院区画変遷私案図 (破線は存在しないことを表す)

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図25 私案Ⅱ‐1‐1 期方格地割・内院区画変遷私案図 (破線は存在しないことを表す)

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図26 私案Ⅱ‐1‐2期方格地割・内院区画変遷私案図 (破線は存在しないことを表す)

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【註】

8) 記録に残る野宮の名称として、大来皇女の泊瀬斎宮・井上内親王の北池辺新造宮・酒 人内親王の春日斎宮・朝原内親王の平城斎宮が挙げられる。

9) 例えば筆者は、奈良時代における斎王の群行・帰京ルートについて若干の考察を行っ たことがある(脇田2014)。「孝謙天皇東大寺領施入勅」によると、755年には板蝿杣 の南限として「斎王上路」が挙げられている。そこから、「上路」に対して「下路」の 存在を想定し、両路は斎王の群行時と凶事帰京時で使い分けたと考えた。『続日本紀』

の天平勝宝元年(749年)5月11日条には県斎王が身内の喪によって帰京する記事が 見え、斎王の凶事帰京を明示した最初の文献史料であることからも、県斎王の頃には凶 事帰京の際は別ルートを用いて帰京するという制度が組み込まれた可能性がある。斎 王制度が各斎王によって段階的に整備された一例と考えられよう。

10) 『内院報告書』掲載以外の古道調査成果も検討した結果、88次調査と異なり、私案

Ⅰ期にまで遡る土器群が出土した遺構によって道路側溝が切られる、もしくはそうし た遺構が路面上に掘られるという例はなかった。むしろ、私案Ⅱ‐2‐3期(839~850 年)にあたる9世紀中頃の土器が出土している例が多い。調査は柳原区画・御館区画で されているので、現段階では、後の内院区画を通る古道が先に廃絶し、第2段階として 方格地割造営のために地割内の古道が廃絶したと考える方が妥当であろう。

11) SK1179が建物遺構と同時期であるということは、報告書には直接明記されていない。

しかし、平安中葉の遺構に関する部分のみ、出土土坑数と実際に挙げられている遺構番 号の数が合わない。よって、記載漏れであると判断し SK1179 を平安時代中葉の遺構 と考えた。

12) 第2章で掲載した表では、Ⅱ‐2‐2期(824~839年)頃の土器群と推定した。しか し、坏・皿Aにb・c・e手法で調整されたものが混在し、内面に暗文を施すものも見 られるため、時期が遡る可能性があると考えて、本節の検討では若干時期を修正した。

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おわりに

以上、本論では斎宮土器編年を再検討して基準資料を提示し、独自の編年案と遺物の年 代観を示した。そして、それに基づき、過去の発掘調査の再検討を行ったうえで、斎宮の成 立から9世紀前半までの変遷過程を論じた。

まず第 1 章では、研究史を確認し、斎宮土器と都城土器の対比が有効であるという結論 を得た。さらに、都城土器の型式変化を、主に土師器坏A・皿A・椀Aの調整手法・製作技 法・形状の特徴の3点に注目することで再確認した。そして、斎宮土器を都城土器と対比さ せて年代を与え、かつて提示した私案編年に基準資料として組み込むことにより、私案編年 を確立した。

第 2 章では、斎宮の発掘調査でどのような遺構が検出されているのかを再確認した。次 に、それを踏まえて、前章で提示した私案編年に沿うかたちで過去の報告書のデータを整理 し、私案編年の時期別に出土土器の分布図を作成し、斎宮内での土器分布の変遷を確認した。

その結果、従来は史跡西部に集中するとされていた土器の分布が、私案Ⅰ‐5期(724~749 年)頃には史跡東部にも広がることを明らかにした。

第 3 章では、斎王制度の変遷を最新の研究成果も踏まえた上で確認し、制度面で画期と なった斎王を探った。斎王制度は大来皇女の頃に始まり、井上内親王の頃に制度として確立 されたと考えられる。その後、布勢内親王の頃にはそれを基本形としつつ様々な要素を加え たものとなり、大原内親王、仁子内親王の段階でさらに細かな補足が行われて、『延喜斎宮 式』にみえるような制度となったことが分かった。

次に、斎王制度の変遷と前章で得た私案Ⅰ‐5期の史跡東部への土器分布の拡大という結 果を受けて、古道の廃絶時期及び方格地割内で内院以外の区画に規格性をもった建物が成 立する時期を検討することで、斎宮が史跡東部へと移った時期と方格地割の形成過程を明 らかにしようと試みた。その結果、内院区画周辺の古道が私案Ⅰ‐5 期から衰退しはじめ、

私案Ⅰ‐7期(770~784年)には廃絶した可能性があること、内院区画以外の区画を通る 古道の廃絶は私案Ⅱ‐1‐1期(784~796年)頃であったこと、西加座南区画の「神殿」遺 構の成立が私案Ⅱ‐1‐2期(796~810年)頃であることが判明し、かつて前稿1で示した 内院及び方格地割の形成に関して若干の変更を加えることとなった。

また、私案Ⅰ‐7 期には後の内院区画にあたる地に二重掘立柱塀をもつ建物群が成立し、

私案Ⅱ‐1‐1期には建物群の東への拡大と方格地割の造営が行われ、私案Ⅱ‐1‐2期には 前代で造営した方格地割の区画に、規格性をもった建物の造営と鍛冶山西区画と鍛冶山中 区画の区画間道路を形成することで、各区画が同一規模で区画ごとに一定の性格を与えら れた完全な方格地割が完成したと考えた。

一方、本論に残された課題も多い。まず、私案Ⅱ‐1‐1期~Ⅱ‐2‐3期(784~850年)

に位置づけた土器群の妥当性である。都城においては当該期にはc手法が未だ多数を占め、

土器の形状変化という形で時期の変化が読み取れたが、斎宮土器ではそうした形状変化は

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