第三章 新学力観の言説分析
第二節 新学力観のとらえ直し
1 新学力観からの模索
柴田義松(1994)は新学力観以前も以降も学び方の指導が十分でなかったことを批判し,
どのように学ぶかの合理的指導がないままに,「関心・意欲・態度」が重視されると,「勉 強」と同質の精神主義に陥ると述べている。そして,国語科の学習の内容や方法などの系 統性を明確にしながら,学び方の指導による授業虹革をする必要があるとまとめている。
理にかなった学び方を教えるためには,まず学び方を知らなくてはならない。これ までの学校が子どもに学び方を教えなかったのは,教師自身にそのような学び方とい
うものが,また子どもの学び方の実態がよく分かっていなかったことによろう。16)
つまり,学び方を指導するためには学び方についての認識が必要であると述べている。
さらに,その学び方は教科の本質に基礎づけられていなければならないと言う。この学び 方重視は,それまで重視されなかったことを前提にその必要性を述べている。しかし,学 習の内容と方法は表裏一体のものであり,内容だけの学習や方法だけの学習は存在しない。
したがって,仮に内容を重視して方法を重視しなかったと言っても,内容を重視すること の申に方法を重視することが含まれているはずなのである。つまり,より深くて広い内容 を指導するためには,それに応じた学習の方法が工夫されていたはずなのである。
したがって,学び方や学習の方法を知らなかったというのは,そのような学習や指導の 方法を工夫してこなかったと言っているのに等しいのである。ここで重要なことは,学び 方を知らなかった,学び方に着目しなかったことではなく,それらを積極的に学習の対象
として取り上げてこなかったということである。
一ところが,柴田が言うような学び方重視は,機能主義的であるという批判を受けること になる。なぜなら,この学び方が学ぶ内容と切り離されることによって,どのような内容 にも通用する方法として一人歩きするからである。やはり,学ぶことの内容と方法をどの ように関連づけながら,学び方を学習するのかということが問題となる。
次に,子安潤(1994)は,共同探求的授業を提唱する。子安は,協同的探求の特質を,
①教師と子どもたちが共に追求・探究すること,②課題が現代的なテーマであること,③ 子どもたちがテーマや調査の方法を決定すること,④学修活動が調査・表現・話し合いで
展開されること,⑤学習の主人公としての自覚を高めること。のように示している。そし て,共同探究的授業が試みられる必要性を次のようにまとめている。
それは,共同探究的授業の今日的意味が次の点にあると考えるからである。それは,
第一に,学ぶ意味や目的を子ども自身に明確化させ,第二に,自己とは無縁な抽象的 記号の操作や記憶だけの学習から,現実の批判的で主体的な知識や技術を可能にし,
第三に,自己と現実や文化的世界の関係を意識化し,それらに参加し創造する主体を 形成する道をひらくことにある。三7)
この協同的探求学習の特質を見ると,現在の総合的な学習を彷佛とさせられる。この当 時に,総合的な学習に酷似した授業を提唱していることは,その先見性に驚かされるが,
その後の総合的な学習の混迷を見る限り,この共同探究的授業もその内に混迷を孕んでい ることが考えられる。
また,子安の考える今日的意味も,「明確化させ」るのは誰かという問題,知識や技術が r批判的で主体的」であると判断するのは誰かという問題がある。つまり,この今日的意 味には,主語が明確化されていないのである。そうすることで,今目的意味の正当性を強 調しようとしていると言える。例えば,「明確化させる」のが教師であることが予測される が,そのように学ぶ意味や目的を明確化される子どもと明確化する教師が対等であるとは 言えない。そして,「批判的・主体的」を決定する者が教師である場合も同様である。
さらに,「参加し創造する主体」についても,その参加することによる従属ということは 考えず,「主体」という言葉の申に,自主的,主体的という意味を孕ませ,その主体の形成 を今目的意味として主張している。これは,社会や文化に参加していくという学習形態が もつ,従属する主体の問題を解決することにはなっていない。
次に,児島邦宏(1994)は,これまでの新学力観をやぐる問題を整理しながら,わかる 過程を重視した教育を提唱する。そのとき,主体性については,その内実に触れずに,主 体性を育てていく過程において「基礎・基本」と「自己教育カ」を育成していくことが重 要であると言う。この主体性の内実に触れていないということは,主体性の意味が周知の ものであり,主体性ありきの考え方であることを示している。これは,主体性についての 思考停止である。
そして,児島は「基礎・基本」と「自己教育カ」について,っぎのようにまとめている。
このように,基礎・基本と自己教育カとは,どちらか一方だけで成り立つものでは 校くて,行ったり来たりしながら学習が成立していくと考える必要があるのではない でしようか。
いままではどちらかといえば,基礎・基本だけで終わっていたから問題だったので す。学んだもので新しい社会の事態や事象に取り組んでいこうとする学習にたどりつ かず,覚えてしまえば終わりというところに問題があったわけです。1呂)
この「行ったり来たりしながら学習」するとは,学力を二分してとらえ,それらの相互 往復が学習の過程であると述べていることになる。この学力観は二元論的であり,これま での学力論争から抜け出していない。しかも,相互往復と言いながら,これまでの学習が r基礎・基本」だけで終わっていたというとらえ方,そこに問題があるという考え方が,
「自己教育力」を重視していることを示している。つまり,「基礎・基本」も重視すると言 いながら,r自己教育カ」の方に重きを置いているのである。
しかし,そうでありながら,教師の指導性を「支援」の問題ととらえているところに「自 己教育カ」との矛盾が見られる。
「こうしなさい」と言わずに,教師が「こうしてもらいたい」と思っていることを 子ども白身がやるように仕向けるのが支援です。非常に間接的な働きかけです。いろ いろなヒントを与えたり,アドバイスを与えるだけで子どもがやるようにするにはど うしたらいいのか。これは相当むずかしい技術上の問題で,いままで経験しなかった
ことなのです。19)
rこうしてもらいたい」ということを子どもがするということは,rこうしなさい」と言 っていることと同じである。間接的でもなんでもなく直接的な指導なのである。これは,
「支援」という新たな指導方法が「自己教育カ」を育成するのには必要だと言いながら,
その「支援」の内実を直接的な指導と区別できていないことを示している。また,「こうし てもらいたい」という教師の思っていることを,子どもが忠実に行うということは,教師 に見事に従属していることを示す。つまり,教師の「こうしてもらいたい」に従属する主 体としての子どもの姿を,取り上げずにあるいは排除して,「自己教育カ」を育てようとし ているのである。
安彦忠彦(1995)もこのr自己教育力」を問題化し,それを含み込む態度主義的な学力 観を「自己(能力)開発型」学力観と呼ぶ。しかし,これでは,戦後すぐの古い学力観の 域を脱しないとして,「自己(能力)制御型」学力観に立った教育を展開しなければならな いと述べる。さらに,そのr自己(能力)制御型」学力観・教育観には,自己評価能力が 必要であるとし,次のように言う。
現代に最も必要な要素は,これら以上に「自己評価・自己吟味の能力」である。こ れを欠いたr自己教育カ」は,r自己」そのものを間わず,ただその結果に表れる独創 性や独白性のみが重視されるだけで終わる。そうではなく,その独創性や独自性が今 後の社会や人類にとってどのような影響を与えるかを,絶えず自ら吟味し,評価し,
必要ならば悪い影響の出ないように手当てをすることのできる能力,つまりそのよう な独創性,独自性を生み出した自分自身のあり方,生き方,考え方を絶えず吟味でき る能力をこそ,第一に育てなければならない。州
ここで言うr自己評価」は,先の竹内(1993)とは,少し異なる。竹内は,自己評価権,
自己指導権という権利の問題を考察していたのに対して,安彦は自己評価を能力の問題と して考察している。この「白ら吟味し,評価」し,「自分白身のあり方,生き方,考え方を 絶えず吟味できる」ことを能力と考えることは,その能力が他者の評価に晒されるという 問題を抱え込むことになる。ここには,他者のまなざしが存在し,監視の権力装置が働く。
そうすると,竹内の言説のところでも触れたが,その権力に迎合するような自己評価も起 こりうるのである。
最後に,水越敏行(1996)の言説を検討する。水越は,r読み書き,作図,読図,読譜,
測定や操作や表現や要素的な知識,概念,法則,定理」などを実体的な学力と呼び,r見方,
考え方,調べ方,解き方,まとめ方,表し方」などを機能的な学力と呼び,動的な往復と して両者をとらえようとしている。そして,これらの学力を育てる方法として,三つを提 唱している。以下に抜粋して整理する。
(1)カリキュラムとしては,教科が並ぶ従来の教科主義を全面否定することは,不 可能だし,必要ない。ただしそれに加えて,何らかのクロス・カリキュラムを 実現させるべきだろう。