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第一章  学習の「主体」論の言説分析

第二節  学習生休の「主体」

1 吉本均の学習集団

 吉本均(1966)は,学習集団について,教育の過程を「教科の本質や課題の把握と,それ にもとづく教材構造の計画的,目的的な実現過程」と「学級集団の質的発展過程,つまり 学級集団の成長過程」の二つに分けた上で,次のように定義している。

 この二つの過程のいわば,接点において「学習集団」が成立するということであり,

そして両者の相互媒介と相互浸透を,いかに有効に達成させるか,ということが学習 集団形成のための教師の任務であるということである。14)

 そして,教育の過程で二分した,前者を陶冶過程,後者を訓育過程と呼び両者の独自性 は認めながらも,相互媒介によって学習集団づくりを達成しようとする。あるいは,この 二つの過程を統」的に実現していくことが,学校教育活動の目標だとも言う。特に,訓育 的過程が陶冶的過程への浸透について,「学級集団の質がどういう発展段階にあるかが,教 材にたいする子どもたちの思考の仕方を大きく規定してくる。」と述べ,自治的集団の成立 過程を示し,それが授業にどのように反映されるかをまとめている。それらを抜き出して 整理する。

 第」には,学習にたいする自主的で協同的な意欲や態度のうちにあらわれる。

 第二には,学習規律の面に於いて,授業の秩序維持を子どもたちみずからの手で,

自主的に管理する体制としてあらわれる。

 第三には,授業における認識の発展を子どもたち自身の「生活台」や「内的構え」

(imerePosition)にもとづいて主体的・屈折的に進化させ,定着させることとして 発現する。

 第四には,教科内容にたいして,その科学性を改める仕事に,子どもたち自身が日

常的に,批判的・改造的な授業の協力者としてあらわれるという点である。

 第五には,学習目的を教導で自覚することとしてあらわれる。15)

 ここで言う,「自主的・協同的な態度」「自主的管理」「主体的進化と定着」など,「自主 的」や「主体的」という言葉はどのような意味をもっているのだろうか。この「自主的・

主体的」態度が,自治的集団の影響と考えていることは,上述の通りである。したがって,

自治的集団の「自主的・主体的」態度が,授業の態度に影響していると考えていると言え る。。この自治的集団というのは,全国生活指導研究協議会が目指していた民主的集団であ り,その過程が学級集団づくりである。このことから,学級集団づくりにおける「自主的・

主体的」な態度が学習集団によい影響を与えると考えていることがわかる。そうなると,

そのような学習集団は,全国生活指導研究協議会の学級集団が抱えていた,主体の問題を そのまま受け入れることになってしまう。すなわち,「自主的・主体的」と言いながら,そ の主体は従順で服従する主体となってしまうのである。

 この学級集団,すなわち自治的集団と学習集団の関係について,吉本(1977)は別のと ころで,両者の相対的独自性をみとめながら,相互依存や相互浸透的な関連の仕方を追求 しなければならないと述べてながら,相互の独自性について次のように言う。

 自治的集団づくりにおける「集剛の性格と学習集団の場合の「集団」の性格との 間に相違のあること,それぞれの独自性をあきらかにふまえないと,学習集団の固有 性と,したがっては,また,自治的集団づくりの独自な任務や課題がぼやけてくるこ

とになる危険性については,共通に承認しなければならないのである。16)

 ここでは,自治的集団づくりと学習集団のそれぞれが指し示す「集団」の性格に違いが あることを述べている。これが相対的独自性であると考えられるが,このような相対的な 独自性やそれぞれの固有性を認めなければならないということは,吉本自身,学習集団を 自治的集団の影響は認めながら,学習集団独自の課題や方法論を探ろうとしていると言え る。あるいは,全国生活指導研究協議会の学級集団づくりと学習集団を明確に区別しよう としているとも言える。

 しかし,このような独自の課題や方法,あるいは区別が可能なのだろうか。もちろん,

教科の内容や指導過程など学習における固有性は存在するが,それらが学習者に内化され

ではじめて学習となるということは,学習者の教科の内容に対する,あるいは指導過程に おけるふるまいが問題となるはずである。それが学級集団づくりの言う民主的人格とは同 一でないにしても,学級集団における個人のふるまいと無関係ではないはずである。この ような独自性や区別を強調することは,そこに想定されている主体の自己内分離を内包し てしまうことになる。

 」方,吉本の危惧していることは,学習集団づくりに学級集団づくりの手法や技術をそ のまま持ち込むことである。

 生活指導からの側から,とくに,全生研において,そこで開拓されたr学級集団づ くり」の組織方法論を機械的に授業=教科指導の場面に適用することによって,授業 過程を混乱させることを排除する意味で,学習集団と自治的集団とにおけるそれぞれ の「集団」性の性格の相違をきびしく指摘したことの意義は,「学習集団」概念を規定 するさいの基本的前提としてきわめて重要なことであると言える。17)

 学級集団づくりの組織方法を機械的に授業に持ち込むことが授業過程を混乱させると考 えていることがわかる。それでは,どのような学習集団づくりの技術や方法があるのか。

そのことについて,野崎担良の著作から見ていく。

2 学習集団の指導過程とその技術

 野崎(1984)は,自らを吉本均の学習集団づくりの研究に所属すると言い,教科指導の 方法を「教える指導」「助ける指導」「組織する指導」の三つを挙げている。そして,学習 集団の指導について「学習規律の指導」「発問による指導」「指導的評価活動による指導」

の三つを挙げている。

 まず,「学習規律の指導」であるが,まず,班を編成するという。そして,班編成の目的 として,次のようにまとめている。

 学習集団の指導で班を編成するのは,形態や手段としてではなくもっと積極的な意 味をもつ。班の指導をすることで,みんながわかりあう授業創造と学習集団の具体的 指導過程の一つである学習規律を形成する目的である。学習規律は,班内の相互援功 と相互批判,班と弧との授業でわかることにせりあいによってしか実現しないのであ

る。18〕

 班の編成と班同士のせりあいによって学習規律を指導するという。班同士のせりあいと いうのは,班同士の競争である。そして,それは学習において「共同する競争」だと言う。

その競争は,「全員発言をする競争」「学習要求をだす競争」「問いを発見する競争」「発展 的応答をする競争」r個性的表現をする競争」などを挙げている。

 野崎は,これらの競争は,r問題のない競争」であり,学習者を学習主体にしていく競争 であると述べている。しかし,競争自体に「問題がある」「問題がない」というように判断

しているのは,あくまでも教師ではある。競争のただ申にいる競争者自身の,その競争が 良いか悪いか,問題があるかないかは問題とされない。したがって,教師の判断と競争し ている者の判断が異なることもある。つまり,教師がr問題がない」と判断しても競争さ せられている者,すなわち子どもはr問題がある」と考えることもあり,そこにズレが生

じるのである。

 また,班で競争させられるということは,学級集団づくりでも見られた班内の矛盾への まなざしが形成される。この場合で言うと,まだ発言できないこと,要求がだせないこと,

問いが発見できないこと,発展的応答ができないこと,個性的表現ができないことなどへ の注目である。このまなざしが,権力関係を形成することは,既に見てきた。つまり,班 内におけるこのまなざしが,班の内部に権力関係を形成するのである。

 さらに,学習の主体という意味の学習主体を育てると言いながら,競争させる,学習者 から見ると競争させられるということは,矛盾している。学習者は競争させられて,全員 発言させられたり,学習要求をだすようにし向けられたりするのである。仮に,これらを 自動的に学習者が行うようになったとしても,これが従属しない主体であるとは言い難い。

 次に,「発問の指導」である。野崎は,学習集団による授業は,問いかけ・発問を重視す ると述べ,吉本均が提起した「限定する発間」「類比する発間」「否定する発問」の三つを 手がかりとして実践していると言う。「限定する発問」とは,子どもの思考を焦点化するよ

うな発問であり,「語の限定による問い」とr内容を限定する問い」を想定している。次に,

「類比する発間」は,子どもの思考に比較を導入することで,より深い思考へ導くような 発間である。最後に,「否定する発問」とは,子どもの思考の固定化や停滞を防ぎ,柔軟な 思考へと導くような発間である。

 野崎が引用しているr問い」について,吉本均(1974)は,本当の意味での認識する,

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