ツーリズム・マーケティング
貴多野 乃武次
はじめに
「目からうろこが落ちる」といえば大げさだが、今回のフォーラムでのマレー シア政府観光局の「マーケティングとプロモーション」についてのプレゼンテー ションは、わが国の国内ツーリズム・国際ツーリズム戦略を考えるうえでたい へん参考になった。
どこが参考になったかというと、それがツーリズム・マーケティングの教科 書どおりの展開で、分かりやすく、しかもビジュアルに紹介されたからである。
ツーリズムはもちろんマーケティングの対象だが、わが国ではそのことが個々 のアトラクション事業で認識されていても、国や自治体ではそのことの認識が まったく欠如している。だから、『観光白書』は論理的に構成されず、むやみ やたらと施策の自慢話が紹介されるばかりで、なぜそうした施策が考えられ、
その施策を実行してどういう成果を得られたのかについての説明がない。
今回報告していただいたマレーシア政府観光局のアスラフ・アドナン氏は冒 頭、「われわれのマーケティングとプロモーションでは、目標と戦略を持ち、
マーケティング・ミックス、すなわちプロモーション活動、宣伝キャンペーン、
PR、情報告知などを行っています」と切り出し、続いて2006年の具体的な目
標数値を4つ、すなわち「入国ツーリスト1,800万人」「平均滞在日数8日」「国 内旅行客2,200万人」「MICE(Meeting Incentive Conference Exhibition)マーケッ 177
トとスペシャル・インタレスト・グループのシェア増大」を挙げ、目標達成の ために、戦略指針を立て、市場を選別し、顧客ターゲットを特定して、それに ふさわしいアトラクションを提供し、そしてそのことをターゲット顧客にきち んと伝えるためのプロモーション活動を紹介した。
アドナン氏の報告の詳細は本書のパネルディスカッションの項を参照いただ きたいが、わが国がツーリズム先進国にまず学ばなければならないのは、戦略 的マーケティング・マネジメント手法ではないかと考える。
本稿では、はじめにわが国とほぼ同数のインバウンド客を受け入れているア イルランドの国家ツーリズム・マーケティングにおける調査内容を紹介し、次 にわが国のインバウンド・ツーリズムについてマーケティングの視点で考える。
1. アイルランドの国家ツーリズム・マーケティング
ツーリズムが国家マーケティングの対象になった。もちろんわが国でも観光 が国家マーケティングの対象であると考えられているようだが、たとえば『平 成17年版観光白書』には「マーケティング」という言葉はどこにも見当たら ないし、所管する国土交通省、日本観光協会、国際観光振興機構(JNTO)の 組織にも「マーケティング」を冠した部門はない。
『観光白書』の記述は、調査データで現状を簡単に把握し、あとは膨大な量 の施策の紹介に費やしている。調査データは需要者のデータが中心だが、その わりにはマーケティング・データとしては「帯に短したすきに長し」で使いに くく、国のみならず供給者の観光戦略策定に利用するには限界がある。
アイルランドは「過去10年で海外からの観光客数を倍増させることに成功 した。その鍵は国家マーケティングにある」(「大機小機 観光立国への道」『日 本経済新聞』2003年2月1日)。アイルランドの外国人旅行者(2004年)は、
日本(614万人)とほぼ同じ638万人である。
178 アジア諸国に学ぶわが国の観光立国政策
アイルランドの“Tourism Facts 2004”は、全国版、ダブリンなど7地域版と、
魚釣り・サイクリング・乗馬・庭園・ゴルフ・ハイキング&ウォーキング・歴 史文化遺産の7つの、いかにもアイルランドらしいプロダクト(product)別、
そしてホテルなど4タイプの宿泊施設別に、明快・簡潔なデータを載せている。
たとえば、全国版のデータはA 4版わずか3ページで、はじめに「ツーリズ ムの成果」と題し、外国人旅行者の消費額41億ユーロについて、経年の数字 とともに紹介し、概略説明する。
次に「経済ベネフィット」と題し、外国人旅行者の消費額に国内旅行消費額 10億ユーロを加えたツーリズム産業の総売上高51億ユーロ、税収23億ユー ロ(うち外国人旅行によるもの20億ユーロ)、輸出総額(1,174億ユーロ)に 占めるシェア3.5%、GNPへの貢献度3.9% といった数字を示す。
第三は「雇用」で、ホテルなどの宿泊施設、レストラン、旅行サービスやア トラクションの被用者数23万人を2001年から経年比較する。
第四は「旅行者数」で、主要国別旅行者数と国内旅行者数を2000年から2004 年まで経年比較する(ちなみに2004年、日本人客は3万1千人、最大はもち ろん英国で353万人)。
第五は「旅行収入」で、ツーリズム産業の総売上高を主要国別と国内旅行に ついて2000年から2004年まで経年比較し、7地域別に旅行者を外国人旅行者、
国内旅行者に分けて人数と収入を示す。
第六は「外国人ツーリスト(宿泊客)」について、発地別(英国・ヨーロッ パ本土・北米・その他)に消費額の内訳(宿泊、飲食、観光・・・)別、到着 月別、交通手段別、宿泊施設別(親戚・知人、キャンプを含む)、旅行目的別
(休暇、親戚・知人訪問、ビジネス、その他)、参加活動別(魚釣り・サイク リングなど7項目)に示す。
第七に「外国人旅行者のうち休暇客(日本の観光客に近い)」について、先 と同じように発地別に、経年別人数、パッケージ/個人別、新規客/リピート 第7章 揺籃期のわが国インバウンド・ツーリズム・マーケティング 179
客/アイルランド出身客別、自動車利用別(自家用、ハイヤー、自動車非利用)
数値を示し、さらに休暇客を年齢別(25歳未満、25〜34歳、35〜44歳、45歳 以上)、職業別(管理職/専門職、ホワイトカラー、熟練工、未熟連工)、個人
・団体別(1人、カップル、家族、大人団体)に示して、最後に宿泊施設別の 軒数と室数を示す。
このように全国版では、まず産業の売上高、その経済効果、雇用効果などツー リズムのマクロの効果を捉えたうえで、売上高や旅行者数を戦略単位にブレー クダウンして定量分析していく構成は明快である。それに比べわが国の『観光 白書』は、国内ツーリズム、アウトバウンド・ツーリズム、インバウンド・ツー リズムの順に旅行者数を中心にとらえながら、国内旅客輸送実績や旅行関連消 費の動向、さらには国民の旅行関連意識調査も交え、最後に旅行の経済効果に 言及するが、最後の経済効果に至る道筋がおぼつかなく、経済効果の分析も、
ようやく世界標準的な統計手法TSA(Tourism Satellite Account)に則って始め た(2003年度)ばかりで、自信なげである。
アイルランドの全国版のツーリズム統計は、地域版、ハイキング/ウォーキ ングなど旅行者の活動版、宿泊施設版、ビジター・アトラクションなどプロダ クト版と整合性を持つほか、それぞれに有用なデータが付加される。たとえば ダブリン地域版では、発地別にアイルランドでの宿泊日数とダブリンでの宿泊 日数が経年比較されるので、ダブリンの宿泊シェアの推移が分かる。またホテ ルは星クラス別に室数の推移を示し、他の宿泊施設との経年変化を知ることが できる。
活動版のハイキング/ウォーキングでは、品質に対する満足度と、価格と比 べた満足度の経年変化が分かるし、ハイキング/ウォーキングのタイプと距離
(5㎞未満と5㎞以上)を、英国・ヨーロッパ本土・北アメリカからの客別に その割合を見る。
宿泊施設版のホテルでは、室稼働率・ベッド稼働率の経年変化が示され、年 180 アジア諸国に学ぶわが国の観光立国政策
齢区分が全国版より細かくなり、ビジネス・休暇客別に示すほか、7地域別の 宿泊数シェアの割合、さらに宿泊客の消費額の内訳も示す。もちろん品質・顧 客サービス・価格について満足度の経年変化も見る。
プロダクト版のビジター・アトラクション(日本語の「観光資源・施設」に 近い)については、大きく有料施設と無料施設に分け、有料施設については、
地域別、タイプ別(歴史的な家屋と城、ビジターセンターやミュージアム、公 園・庭園、動物公園、歴史地区/モニュメント、産業遺産、その他)に集客数 の変化を経年で見、さらに集客数ランキング、タイプ別の滞在時間、売上構成 比(入園・飲食・物販・その他)、タイプ別に売上に占める入園料の割合、マー ケティング活動の支出構成比、マーケティング組織の構成比、従業員の契約タ イプ別構成比、タイプ別従業員内部教育実施割合を示す。なお、無料施設につ いてのデータは集客ランキングと従業員の契約タイプ別構成比のみ示す。
先の新聞記事は、アイルランドの国家マーケティングについて、続いて「潜 在旅行者が多い国を特定して、旅行者が旅先に求める要素の調査を行い、自国 の魅力を顧客の視点から再定義した」と解説する。もちろん、潜在旅行者が多 い国はどこか、また外国人旅行者がアイルランドでどんな活動を求めているか
は、“Tourism Facts”でおよそ把握することができるが、別途マーケティング調
査を行っている。
アイルランドが、潜在旅行者の多い国をどのような調査に基づいて特定した か分からないが、わが国では、『平成16年版経済財政白書』が外国人観光客数 の理論値を求め、実績値との乖離を試算している。理論値は「ある国を訪れる 観光客数はその国と相手国の経済規模や人口に比例し、相手国との距離の2乗 に反比例する」というグラビティ・モデル(吸引モデル)の考え方を採用して いるが、それが『観光白書』でなく『経済財政白書』で提示されたところに、
観光を所管する国土交通省のマーケティング意識の低さを見ることができる。
ちなみに試算結果では、乖離の第1位が韓国で約49万7千人、次いで中国の 第7章 揺籃期のわが国インバウンド・ツーリズム・マーケティング 181